幸せになる権利(1)
ゆるりとジルは目を開けた。薄暗い部屋。微かに聞こえる雨音。どうやら、今日は雨が降っているらしい。
ゆっくりと体を起こす。雨粒が窓を叩いていた。その傍に、萎れた一輪の忍草。
ジルはそっと目を伏せて、再びベッドに沈んだ。シーツが波打ち、優しく抱きとめる。けれど、ジルの心が安らぐことはなかった。
──この、人殺し!
ジルの耳にこびりついて離れない、悲鳴じみた声。そう、私は人殺し。ユアンを殺してしまった。だから、だから、
「しあわせになっちゃ、いけない」
掠れた声が、静かな部屋にこだまする。ジルはきゅ、とシーツを握った。
なっちゃいけない。逃げてはいけない。そう自らに言い聞かせても、心のどこかで、なってもいいのでは? という思いが顔をもたげる。その度に、ジルは嫌になる。ユアンの死を忘れて、のうのうと暮らすなんて。そんなの、ひどい。
ざぁざぁと降りしきる雨。ジルは耐えきれなくなって、シーツを頭から被った。
あの日からずっと、ジルは引きこもっていた。食事は運んでもらい、部屋から出るのはそれこそ用をたすときと、入浴するときくらい。そんなジルを皆心配しながらも、そっとしておいた。
一人以外は。
コンコン、と今日もドアが叩かれる。それと同時に、ドアの向こう側から声をかけられた。
「ジル嬢」
静かで穏やかな声。レイファルだった。
彼はあの日以来、毎日毎日ジルの元へやって来た。けれども決してドアを開けることなく、ぽつりぽつりと彼が一方的に話すだけ。
それがとても嬉しくて、とても煩わしかった。
「これは、私が十四の頃です」
そう言って、レイファルは語り出す。ユアンのことを。
「ユアンが馬から落ちたんですけど、……知ってますか?」
小さく、ジルは頷いた。そんなことしても、レイファルには伝わらない。分かっている。何となくしただけ。
けれども、レイファルはまるでジルが頷いたことが分かっているかのように、続きを語り出した。
「表向きそれはただの落馬だと言われてますが、実は違うのですよ」
ひゅ、と息がなる。ただの落馬ではない。そう聞かされてジルの頭によぎったのは、暗殺の二文字だった。
どうして? ジルの心が波打つ中、レイファルは続ける。
「実はですね、……格好悪いことに、ちょっとしたうっかりなんですよ」
ちょっとしたうっかり。ぽつり、とジルは言葉を漏らした。一体どういうことだろう?
クスクス、と扉の向こうでレイファルが笑った。「今でも笑ってしまいます」と呟くように言う。
「ユアンがですね、ハチに驚いて思わず叩き落としてしまったのです。そしたら怒ったハチが馬を刺しましてね……それで馬が暴れて、落馬をしたのです」
クスクスと笑うレイファル。いや、それ結構危ないことじゃ……とジルは言いかけて、口を噤む。声は出したらダメ。聞いてないフリをしなくちゃ。
そんなジルのことなど知らず、レイファルは話し続ける。
「その後、どうなったと思います?」
ジルは小さく首を傾げた。さらり、とシーツが揺れる。
「何とですね……ユアンは転げ落ちるときにかっこよく着地しようとして、逆に捻挫をしてしまったのですよ。しかも足と手を同時に」
ああ、そう言えばそうだったな、とジルは思い出す。その翌日デートだったけれど、ユアンが捻挫したと聞いて断念したのだ。それで「どうして捻挫なんてしたの?」って訊いたら何も答えてくれなくて……。今なら分かる。彼は恥ずかしかったのだろう。
ふふ、とジルは笑った。ユアンが可愛くて、愛おしい。
「……今、笑いましたね」
ほんの少し嬉しげなレイファルの声。ジルは慌てて口を閉じる。……気まずい。
「良いんですよ、笑って。ユアンもそれを望んでます」
シン、と沈黙が降りる。ジルはゆっくりと口を開いた。
「……なんで、」
ドアの向こうでレイファルが聞き耳を立てているのが、何となく分かった。息を吸うのも躊躇われる静寂。窓の向こうの雨の音ばかりが響く中、ジルはゆっくりと口を開いた。
「なんで、ユアンのことばかり話すのですか。それに、レイファル様にユアンの気持ちなんて……」
「ええ、分かりません。だけど、それはジル嬢も同じです」
レイファルの落ち着いた、だけど批難めいた声。ジルはきゅ、とシーツを握る。
「私はユアンではないし、あなたもユアンではありません。だからユアンの気持ちが分からないのは当然です」
「だけど」とレイファルは続ける。
「だけど、彼が望んでいたことは、決して望んでいなかったことは、予想がつきます」
彼が望んでいたこと。決して望んでいなかったこと。ジルは考える。そんなの、分からないに決まってる。
「ジル嬢」
優しいレイファルの声。思い遣りに満ちた声。けれど、言い放った内容はジルにとって優しいものではなかった。
「あなたは、ユアンを見ていない。今のあなたがユアンだと思い込んでいるのは、あなた自身が作り出した幻想です」
「何を……」
「そのことを、よく考えてください」
部屋に静寂が満ちる。まるで、この部屋とレイファルだけ、世界から切り離されてるような。そんな気がした。
……やがて、ギシ、という音が響く。ドアの向こうからだった。おそらく、レイファルが立ち上がったのだろう。
「今日は、帰ります」
ジルは返事をしなかった。それがいつもだったから。だけど、レイファルの方はいつも通りではなかった。
レイファルは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……明日。もし晴れたならば、あの花畑に来てください。そこで、話しましょう」
あの花畑。二人に関係のある花畑といえば、一つしかない。
忍草の、花畑。ジルとレイファルが出会い、婚約を結ぶことになった場所。
「待ってます。ではジル嬢、また明日」
その言葉を最後に、声はなくなった。足音が徐々に遠ざかる。
再び静寂が訪れた。ジルは体を起こして、窓を見た。その傍には萎れた一輪の忍草。
「……話を、聞きに行くんじゃなくて、取りに行くだけ」
ぽつり、と零れ落ちた言い訳は、誰にも聞かれることがなかった。……ジル以外。
翌朝。ジルは久方ぶりに外出用のドレスに着替えた。大げさに喜ぶ侍女たち。彼女たちに申し訳なく思いながら、ジルは出掛けた。レイファルの待つ場所へ。




