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プロローグ

 ジルは顔を赤らめて、一つに結んだ亜麻色の髪をくるくると回していた。彼は気づいてくれるだろうか? 可愛いと言ってくれるだろうか? ……彼ならきっと、言ってくれる。優しく目を細めて「可愛いね」と。

 その場面を想像して、ジルは一層頬を朱に染めた。恥ずかしい。けれど、言ってくれたら本当に嬉しい。

 ふふ、と一人で笑っていると、「ジル!」という彼の呼び声。ぱっと顔を上げると、道を挟んだ向こう側に大きく手を振る彼の姿が。

 ジルは満面の笑みを浮かべて彼の元へ行こうとして──。




「っ!」


 荒い呼吸が、静かな寝室に響き渡る。ジルの目は見開かれ、じっとりと冷や汗が出ていた。きゅ、と胸元で手を握る。……また、この夢だ。

 ジルは横になったまま深呼吸を何回か繰り返し、やがてゆっくり体を起こした。髪の毛が汗に濡れていて、肌に引っ付いている。気持ち悪い。

 はぁ、とため息をついて、サイドテーブルにあるベルをちりん、と鳴らした。すると、静かに侍女が部屋に入ってくる。


「おはようございます、お嬢様。お召しかえをなさいますか?」


「ええ、お願い」


 そうジルが伝えると、侍女は「かしこまりました」と言って、着替えの用意を始めた。

 一日が始まる。今日は何をしよう? そう思って辺りを見回すと、目についたのは窓際に置かれた一輪の花。橙赤色のそれは、少し元気がない様子。


(……今日、行こっかな)


 ジルが考えながら花を見つめていると、侍女が訊いた。


「今日は、あちらへお出かけに?」


「……うん、そうする」


 侍女が目をそっと伏せた。悲しげな色。だけど、花を見つめるジルは気づかない。


「……かしこまりました。馬車の準備をさせます」


「よろしく」


 静かな朝。今日も一人ぼっちの一日が始まる。






 カラリと晴れた空。広大な花の海。ジルはぽつねんと、一人寂しげに立っていた。大海に浮かぶ離れ小島のように、孤独で寂しげ。

 さぁ、と風が吹き抜け、幾つもの橙赤色の花弁を巻き上げる。花弁はくるくると回りながら空へ。

 ジルはぼうっとしながら、その光景を見つめた。夏の暑い日差しがじりじりと肌を焼く。つぅ、と垂れた汗をハンカチで拭った。


(早く帰ろ……)


 そう思い、ジルはその場にしゃがみ込んだ。ふんわりと黒いワンピースが広がる。その色を見て、ジルは目を伏せた。いつもそう。黒を見る度に、一人きりである現実を突きつけられる。

 その時、また一際強く風が吹いた。幾つもの花弁が空へと旅立つ。

 ジルは衝動的に、その一枚を掴み取った。けど、どうすることもできずに、それを仕舞い込む。……手離すことは、何となくしたくなかった。


「……ユアン」


 ぽつりと零れ落ちた言葉に、ジルはまた泣きかけた。もう一年。だけど、あの時を忘れたことは一度もない。ずっとずっと覚えている。……彼の最期。


 ──ジル、……、…………。




「こんにちは」


 ふと話しかけられて、意識が現実に戻る。いつの間にか、ジルの目の前には大きな影。

 慌てて立ち上がりながら振り返ると、そこには麗しい青年がいた。陽の光を受けてキラキラと輝く金色の髪に、優しげな青の瞳。まるで王子様のよう。


「あ、……こんにちは」


 ジルがそう言うと、青年はくすり、と笑った。何故なのか分からず、ジルは首を傾げる。

 ……やがて思い至った。貴族の令嬢らしくない挨拶だったからだ。「ごきげんよう」の方が一般的。

 途端に恥ずかしくなって、ジルは顔を俯けた。ちょっと軽率だった。


 静かな時間がゆっくりと進む。ジルも青年も、一言も発しなかった。耳に届くのは花の揺れる音ばかり。

 静かで落ちつく。ふと、ジルはやけに居心地が良いことに気づいた。……何故?


「……ジル・エルメン嬢」


 低く、穏やかな声色。紡いだのは青年だった。

 さらり、と黒のワンピースが不安げに揺れる。


「……何でしょう?」


 相手に名前を知られていることは、あまり気にならなかった。貴族とはそういうものだし、ジルはある一件で話題になったのだから。


「少し、あなたにお願いがありまして」


 青年はそう言って一歩下がり、礼をとった。騎士の礼。


「まずは自己紹介を。私の名はレイファル。レイファル・マリスグレイヴと言います」


 ジルはその名に聞き覚えがあった。国でも有名な騎士の名である。

 つまり、彼はマリスグレイヴ公爵家の長子にして後継ぎ。そして容姿端麗、品行方正と、貴族のみならず平民たちからも人気の高い騎士ということだ。

 そんな彼が、何もない伯爵令嬢にお願いがあるとのこと。


「お初目にかかります、マリスグレイヴ様。エルメン伯爵家が長女、ジルと申します」


 そう言って、ジルは淑女の礼をとる。それを見て、何故かレイファルはクスリ、と笑った。……不手際があったのかもしれない、と不安になる。


「では、本題に入りましょうか」


 レイファルの言葉に、ほんの少しジルは緊張する。いったい、どんな無理難題を押し付けられるのだろう?

 すっ、とレイファルが息を吸う。ジルの肩がピク、と固まって──



「あなたには、私の婚約者となっていただきたい」



 こんやくしゃ……婚約者。ジルは唇を噛みしめた。よりにもよって私。落胆の色が隠せない。


「……確か、婚約者を亡くしたのは一月ひとつきほど前と伺っておりますが」


「ええ、そうです。あなたもユアンを亡くしてから、婚約を勧められているのでしょう? それと同じで、私も急かされているのです」


 苦笑を伴った言葉。それには納得するが、ジルにはある疑問の方が重要だった。


「マリスグレイヴ様は、ユアンのことを知っておられるのですか?」


 レイファルは目を見開いた後、目を伏せた。どこか悲しげな様子で、静かに語る。


「私とユアンは従兄弟なのですよ。それに彼は騎士を目指してましたから、たまに指導もしてました」


「そうだったのですか……」


 従兄弟がいるとは聞いていたけれど、レイファルだったということは初耳だ。だけど少し不思議。ユアンの性格なら、ジルにレイファルと親しいことを自慢しそうなのに……。


「それで」


 レイファルが言った。


「婚約者、なっていただけますか?」


 答えはもう決まっていた。断ろう。ジルはもう婚約者を作る気はなかったから。そう言おうとした。けれど、それをレイファルが遮る。


「ああ、婚約者と言えども、仮の婚約者です。公爵家嫡男のため、多くの縁談が舞い込んでくるのですよ。それは煩わしい。未来の公爵夫人は、じっくり吟味したいのでね」


「……つまり、じっくり婚約者を探すための隠れ蓑になれ、と」


「ええ、そうです。あなたはただ、婚約者のフリをしていればいい。それならどうです? ……それに、あなたもそろそろ婚約者を作らなければ、何かと言われるでしょう?」


 その通りだった。ユアンが亡くなってからはや一年。喪に服してきたけれども、ずっと親戚たちから釣書が届いていた。はやく婚約をしろとの無言の圧力。両親や兄が何も言わないのが、唯一の救いだった。


 一般的に、婚約者が亡くなった場合喪に服すのは三月みつきほど。早ければレイファルのように一月ひとつきで明ける場合もある。

 その理由は、社交界から長期間離れていると後から大変なことになるからである。例えば流行遅れ。例えば再びの婚約者探し。

 それなのにジルが一年もの間喪に服してきたのは、ひとえにそれほどユアンを愛していたからだった。愛していて、忘れたくなくて、彼以外の婚約者は嫌で……。


「どうでしょう? あなたにとっても、私がいるため婚約を勧められなくなる。私がほかの者と婚約した後も、婚約破棄された女に婚約を持ちかける物好きはいないでしょう。……互いに利益のある事だと思いますが?」


「……そうですね」


 ジルは微笑を浮かべた。全くもってその通り。……受けてもいいかも。


「では」


「ええ、これから一時いっときのことですが、どうぞよろしくお願いします、マリスグレイヴ様」


「どうぞ、私のことはレイファルと。私もジル嬢、と呼ばせていただきます」


「分かりました、レイファル様」


 ジルがそう言うと、レイファルも笑みを浮かべた。とても嬉しそうな表情。


「では、参りましょう。馬車まで送ります」


 レイファルは手を差し出した。その手を見て、ジルは少し考え……首を振った。


「接触は、必要最低限にしていただけませんでしょうか?」


 ユアン以外に触れられたくない。それがジルの本音だった。

 レイファルは眉を下げ、「分かりました」と言う。どこか釈然としない面持ち。

 ジルはしゃがみ込み、一輪、花を摘み取った。元々、ここへ来たのはそれが目的。レイファルのおかげで少し長居をしてしまったから、御者たちには迷惑をかけているかも。そう思い、慌てて馬車に戻ろうとした。


 その時、ざぁ、と風が吹く。花弁が踊るように舞う。

 ジルの視界の端で、レイファルが花弁を一つ、指で挟んで捕らえた。そして、優しく口元に寄せ、祈りを込めるように目を閉じる。

 やけに様になっていた。きっと、普通のご令嬢なら内心黄色い悲鳴をあげる。そう思うくらいには。


 花弁を掴んだままのレイファルを尻目に、ジルは歩き出した。

 レイファルはそっと指を開いて、ジルの後を追う。

 花弁は寂しげに、辺りを漂っていた。

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