彼vs彼女&彼女
「いよいよ今日から作戦開始だね。頑張って、天ちゃん」
「うん、私頑張るよ」
週末の二日間をかけて、じっくりと作戦を考えてきた。だから、きっとうまくいくはずだ。……そう、願うしかない。
「俺も可能な範囲でできる限りの協力はするよ」
「ありがとう、冴羽くん」
冴羽くんはニッコリと微笑むと、すぐに神妙な顔つきになった。
「でも、気をつけて。あいつは何をするかわからないから」
「え? でも、そんな大したことは……」
「気難しい奴だからね。それに頭も割と回るから」
「そんな人がどうして……」
「一つは、あいつ自身の性分なんだろうと思う」
冴羽くんはまたも座る人のいない空席をじっと見つめる。つられて、私もそっちを振り返った。
「もう一つは、やはり負い目…かなぁ」
「負い目って……でも中学の頃のことは事故だって」
「関係ないよ。当事者にとっては」
冴羽くんの眼光が鋭くなる。
え? 何? ……冴羽くん、どうしてそんな顔をするの?
「だめなんだ、やっぱり。頭ではわかっていても、思い出すとどうしても辛い」
「それは……そうだよ」
死んじゃったからそれきり忘れましょう、なんて普通は無理だと思う。その気持ちは、なんとなく想像がついた。
「それでも、今のままじゃだめなんだ。今の状態のままじゃ、誰も救われない。みんなずっと辛い思いをして生きていくことになる」
冴羽くんがぐっと拳を握る。私は黙って、彼の言葉を聞いていた。
「だから、もしかするとこれは最後のチャンスかもしれない。俺たちと相楽が和解できる、最後の……」
辛そうな声だった。
私は相楽の席から視線を外し、ぐっと冴羽くんに向けて親指を立てた。
「二人で頑張ろう」
「……ああ!」
冴羽くんの表情が晴れやかになる。
それだけでも、私は今回のことを考え至ったことが正解だったのだなと確信できた。
もし全てがうまくいったなら、きっとみんな幸せになれる。私が望んだ結末を迎えることができる。
なぜか、そんな確信があった。だから絶対に成功させる。
相楽を、こっち側の人間にしてみせる。過去にとらわれたままの友達を救ってみせる。
「それで? 実際にはどうするの?」
「うっ……それはまだこれから考えなきゃだけど」
「そうなんだ。……だったら俺にいい考えがあるんだけど、いいかな?」
「いい考え?」
うん、と冴羽くんが頷く。なんだろう、いい考えって。
「なになに?」
「ええと……ちょっと難しいかも知れないけど」
そう前置きして、冴羽くんは話してくれた。
その作戦の内容を――。
◆
ボーッと、空を眺める。雲ひとつない快晴の大空はどこまでも青く、私の気持ちをはるか遠くまで運んでくれるのではという気分にさせてくれる。
「……え? まじ?」
私は誰にともなく、ぽつりとつぶやいた。つぶやいてから急にかーっと全身が熱くなる。
一昨日のことを思い出す。冴羽くんと散々話し合った、相楽とみんなを仲よくさせよう作戦。略してKN作戦。その全容を。
まず、私が相楽と会話をする。内容はなんだっていい。挨拶でも天気の話でも昨日のテレビみたー? でも罵倒でも。いや最後のはだめか。
とにかく、相楽と言葉を交わすことが重要だ。そうしないと、何も始まらない。
その後、どうにかうまくやる。当然相楽は私を拒絶するだろうからそこはどうにかするとして、問題はそのあとだ。
相楽と……冴羽くんを引き合わせる。けど、二人は仲が悪いからここも当然いい雰囲気にはならないだろう。
そこで私がうまいこと場の空気を和ませる。
あとは冴羽くんの冴え渡るトークスキルで相楽との関係を築き、うまい具合にその気にさせる……という作戦だ。
あれ? なんかかなりアバウトとうかてきとーな作戦だぞ。それと私の労力がすごいことになっている気がするけど、まあそこは気にしないでおこう。
他に代替案がないこともあって、今はこの作戦に頼るしかない。幸い、私も冴羽くんも部活に入っていないこともあって時間はたっぷりある。
そういえば冴羽くん、クラス委員の仕事はいいのだろうか。……まあ本人が何も言わないのであれば、私から言う必要もないか。
それに今度のことは冴羽くんにとっても一大事業だ。多少の無理や無茶は通してくるだろう。
私は昇降口を通り、下駄箱で上靴に履き替える。
転校してまだそんなに日は経っていない。にもかかわらず、こんな展開になると誰が予想しただろうか。
はぁ……、と溜息が漏れる。
「元気ないね、天ちゃん」
教室に入って、自分の席に座るや冴羽くんが声をかけてくる。
私はちらりと冴羽くんを見やった。ついでに彼の背後で私に敵意をがんがん向けてくる連中にも視線を走らせたが、時間の無駄なのですぐにやめた。
「そりゃあね。今日このあとのことを考えたらちょっと」
「はは、まあそうだろうね。……なかなかに気が重い」
冴羽くんは小さく笑っていたが、その声は乾ききっていて聞くだけで心が疲れているのだろうということを想像させた。
「さて……じゃあ早速頼むんだよ、今日は」
「わかってる。……あの喫茶店まで連れていけばいいんでしょ?」
「そうそう。駅前の喫茶店ね」
冴羽くんはニコッと笑い、私から離れて女子の群れの中へと引っ込んでいく。
うーん……冴羽くんって結構自分勝手なところあるなぁ。
別に作戦自体に異論があるわけではなかったけど、なんだか釈然としなかった。
とはいえ、実行はするのだから文句もないだろう。
私はかばんをまくらがわりにして、授業が始まるまでの間に仮眠を取ることにした。
昨夜は全然眠れなかったから……。
◆
そして放課後。日の沈み始めた時間帯。
ホームルームが終わってまだ数分と経っていないが、相楽はすぐさま席を立った。
出入り口まで行くと、そのまま帰ってしまう様子だ。
私は慌てて荷物を片付け、彼のあとを追う。
「待って」
廊下に出て、相楽を呼び止める。けど、相楽は聞こえていなかったのかあえて無視をしているのか、振り向くことはなかった。
私は小走りに彼に駆け寄り、ガッとその肩を掴んだ。
「待てって言ってるでしょ!」
多少強めの口調で言ってやると、相楽は心底鬱陶しそうに私を振り返った。
「……なんだ? 俺は今から帰るところなんだが」
「せっかくまじめに授業受けてたと思ったらすぐそれだもん……たまには私に付き合ってよ。いいでしょ?」
「いいわけあるか。俺とおまえはそんな仲じゃないだろ?」
相楽は私の手を振り払い、再び帰ろうとした。
私は相楽の目の前に周り込むと、バッと両手を広げて通せんぼする。
「……何の真似だ?」
「え、ええと……」
相楽の見るからに不機嫌そうな表情に口籠る。
私はうまい言葉を探して宙を見回した。
「……そうだ、私に謝って欲しいと思って」
「謝る? 何をだ?」
あからさまに怪訝そうに、そして不愉快そうに目を細める相楽。
うう……負けるな、私。
「この前、私の腕を思いっきり引っ張ったでしょ! あれ、結構痛かったんだから!」
「……ああ、あれのことか」
私と同じシーンを頭に思い浮かべたのか、相楽は小さく溜息を吐いた。
「あれは不慮の事故だったろ。それにあの時、俺がああしなかったらおまえはクラスの連中から答えたくもない質問をされているはめになっていた。どちらかと言えば感謝して欲しいもんだがな」
「言い訳無用! さあ、私に付いて来て!」
「いや、俺は帰るとこ……」
相楽の言い分を無視して、私は彼の手を握った。
そのまま、昇降口まで行き、靴を履き替える。
校門へとたどり着き、そこから更に手を握ったまま、ずんずんと歩く。
相楽は私に連れて行かれるままに、力なく私に付いて来ていた。
どこへ行くんだ? という質問もない。なんだろう、諦めのいい奴なのかな?
それは好都合だ。
私はそう思い、黙って相楽を例の喫茶店へと連れて行った。
到着するまで、私たちの間には全く会話はなかった。
◆
「やあ、相楽。こうして話をするのは久しぶりだね」
「……なんでおまえがいるんだ?」
相楽があからさまに不機嫌そうに唇を歪ませた。
冴羽くんはははは、と笑って、相楽に対面の席をすすめる。
「まあ座ったら?」
「……ちっ」
私が手を握っているから逃げられないと判断したのか、相楽は大人しく冴羽くんの正面に座った。
私は相楽が壁側になるように座り、彼の手を離した。
「ずいぶん仲がいいようだけど、もしかして噂は本当だった?」
「そんな悪趣味な冗談を言うためにわざわざこいつに連れてこさせたのか?」
「まさか。そんなはずはないさ」
「だったら何の用だってんだ? 俺はさっさと帰りたいんだ。手短にしてくれ」
「では、早速本題に入ろう」
言って、冴羽くんはメニューを手に取った。
「と、その前に何か飲み物を頼もうかな。天ちゃん何がいい? おごるよ?」
「え? ええと……」
冴羽くんが私に向けてメニューを差し出してくる。私はそのメニューを覗き込んで、少し悩んだ。
「じゃあメロンソーダで」
「だったら俺はコーヒーでいいな。相楽は何か頼むかい?」
「水で十分だ。それより用がないのなら俺を帰してくれ」
「そういうわけにはいかない。これから大事は話があるのだから」
冴羽くんが店員さんを呼ぶための呼び鈴を鳴らしながら言う。
相楽はいらいらとした様子で、とんとんと指先で机を叩いていた。
「だったら早くしてくれと言っただろ。俺は帰りたいんだ」
「どうしてそこまで帰りたいんだい? 俺たちと一緒にいたくないのかな?」
「当然だ。こんなところ、一刻も早く立ち去りたいに決まっているだろ」
「……ま、そうだろうね」
冴羽くんは肩をすくめ、わずかに微笑んだ。
「君にとってこの場所というのは、とてつもなく不愉快な意味合いが籠もっているだろうからね」
「場所の問題じゃない。近くにいる人間の問題だ」
「……はは、つれないなぁ」
「あれだけのことをしておいて、よくそんなことが言える」
本当に心の底から不愉快そうに、相楽が吐き捨てる。
あれだけのこと? 冴羽くんが一体何をしたというのだろう。
「……何? どういうことなの?」
「……知らない方がいい。事実を言ったところでどうにもならないし、どうにかしようなんて気はさらさらないからな」
「天ちゃんには関係のない話だよ」
相楽がぶすっと、冴羽くんがニコニコと私を仲間外れにしてくる。
まあ確かに私は部外者だし関係のない話なのかもしれないけど、ここまで巻き込んでおいて今さらそれはないと思う。
私はなんだか釈然としない気持ちを抱えたまま、押し黙った。
それから店員さんが全員分の飲み物を運んでくるまで、私たちは無言だった。
仕方がないことだけど、空気が重い。
「……飲み物も来たし、話を始めてくれ」
「待って。実はもうあとひとり来ることになってるんだ」
「まだ誰か来んのかよ……」
相楽は呆れたように溜息を吐いた。
私も、それはしらなかった。誰だろう、あとひとりって。
「来たかな?」
からんからん、と来店を告げる鈴の音。
冴羽くんにつられて店の入口の方を見ると、見知った顔があった。
「……春野、さん」
「真野さん……ええと、どうして?」
そこにいたのは、驚いたように大きく目を見開いた真野さんだった。
私はバッと冴羽くんを振り返る。冴羽くんはニコニコとしたまま、黙っていた。
ええと、あとに来るもうひとりというのは……真野さんのこと?
「ちょっと、舜」
「ごめんごめん」
「どうしてこいつが……相楽がいるのよ!」
真野さんはビッと相楽を指差す。相楽は特別気にした様子もなく、水をすすっていた。
「いいじゃないか。言ったろ? 話し合うことがあるから来てくれ、と」
「それは……そうだけど」
真野さんは期待していたことと違っていたからか、多少がっかりしているようだった。
私はなんだか申し訳ない気分になり、少しばかり肩を縮こまらせる。
「……舜、もうちょっとそっち詰めて」
「はいはい」
冴羽くんは小さく首を振ると、一人分横へずれた。
「では始めようか」
両手の指を絡め、意味ありげにきらんと瞳を光らせる冴羽くん。
しかし、彼の他に言葉を発するような人物はこの場にはいなかった。
「まず、俺からの提案を聞いてもらいたい」
そう切り出して、冴羽くんは話始めた。
相楽の今後について。
「俺は相楽が今の状態のままでいることをよしとはしない」
「ちょっと待って、舜! 何それ!」
「まあまあ、落ち着いて、縁」
冴羽くんがコーヒーを指し示す。そのコーヒー、そのために注文したのか。
「相楽が行った悪行について、俺たちは少し敏感になり過ぎたと思う」
「そんなことない! こいつがいなかったら、あの子は……!」
「縁、あれは事故だったんだ。不幸な事故。だから相楽を責めるのは筋違いというものだよ」
「筋違いだろうとなんだろうと、無理なものは無理よ!」
だん! と真野さんがテーブルを叩く。
周りにいたお客さんの視線が一斉に私たちに向いて、私は内心で慌てた。
「ちょ、真野さん落ち着いて」
「……少し取り乱したわ」
真野さんはふーっと息を吐くと、心細そうに腕を組んだ。
冴羽くんはそんな彼女を困ったように見つめていた。
「まあ縁の言いたいことはよくわかるよ。いくら頭ではわかっていても、実際には無理だろうからね」
「だったら……」
「でも、だからといって今のままでいいなんて思ってやしないだろう?」
「…………」
黙り込んでしまう真野さん。悔しそうに下唇を噛み、目を伏せる彼女に冴羽くんは苦笑いを浮かべていた。
「なあ相楽、どうだろう? 俺たちからみんなには話してみるけど、君もみんなの輪の仲に溶け込めるようどりょ……」
「……バカバカしいな」
それまで黙って話を聞いていた相楽が、一言でそう切り捨てる。
冴羽くんの表情が一瞬曇った。けど、すぐに元のニコニコとした人のよさそうな笑みを浮かべる。
「ええと、どうしてだい? これは俺たちからの最大の譲歩案で……」
「おまえら、自分たちのしたことを自覚していないのか? いまさら何を言ったところで遅いんだよ」
「確かに遅かったかもしれない。でも、手遅れってわけじゃないだろう?」
「手遅れだ。俺とおまえらとの関係は決定的だ。どうやったって修復のしようがない」
「そんなこと……」
「くどい」
これまで、相楽がどんな仕打ちを受けてきたのか、私には知るよしもなかった。
けど、どんなに時間が経っていようと修繕不可能というところまで関係が悪化して板とは思えない。
なにせ、私が転校して来てからこれまでの間、相楽はいじめらしいいじめを受けた形跡がないのだから。ただ無視に近いことをされていただけだ。
「……確かに俺たちがしてきたことは決して褒められたことじゃない。けどそれは相楽、君の中学時代の行いを思えば仕方のないことだと思わないか?」
「思わないな」
「やっぱりくずね」
「何とでも言え」
真野さんが相楽を睨みつける。が、相楽はどこ吹く風とばかりに涼しげだった。
「君は……あれだけのことをしたにも関わらず、謝罪の一言もないのかい?」
「当然だ。俺が謝る必要なんてどこにもないんだからな」
「……そうか。それは残念だ」
「当然の成り行きだな」
相楽は立ち上がり、私を見下ろした。
「退け」
「……嫌だ」
「は?」
私が相楽の要求をつっぱねると、相楽はわけがわからないというようにまゆを寄せた。
「話は終わっただろ。俺は帰る」
「まだ終わってないよ。だよね、冴羽くん」
「……いや、天ちゃん。相楽に俺たちと仲よくする意思がない以上、これ以上の話し合いはただの時間の浪費だ。ここで終わりだよ」
「その通りよ、春野さん。これでおしまいよ」
冴羽くんと真野さんが種々の反応を見せながら、会合の終了を宣言する。
相楽はそんなふたりの様子を横目に見ながら、しっしと私に向かって手を振った。
「わかったろ? わかったら退けよ」
「……ううん、わからない。どうしてみんな、相楽をそこまで目の敵にするのか」
「まあ、天ちゃんは転校生だし、同じ中学校じゃなかったから」
「あの子のこと、何も知らないものね」
真野さんは腕を組み、体制を変えた。じっと、殺気の籠った視線で相楽を見つめる。
「こいつはあの子を……菅原泉を殺したのよ」
「それは……」
その話は、冴羽くんから聞いた。三人の中学時代の同級生。その彼女が死を遂げたと。
「でもそれは、不慮の事故だったって……」
「ええ、そうよ。不慮の事故。……でも、あとあとになってわかったことがあったの」
「わかったこと?」
「ええ。泉がこいつに……相楽に告白していたことがね」
「え――」
ええと、それは一体どういう……?
私は一瞬、真野さんの言葉を処理できなくてフリーズした。
「……縁、それは本当かどうかわからない。そういう結論になっただろ」
「本当かどうかなんてどうだっていいわ! あの子と最後に話をしていたのはこいつなのは事実なのよ! こいつがもっとどうにかしていたら、あの子は死なずに住んだかもしれないのよ……!」
真野さんが悔しそうに歯噛みする。
私はちらっと相楽を見やった。相楽はまぶたを伏せたまま、じっと真野さんの話を聞いていた。
一体、何を考えているんだろう?
「なんとか言ったらどうなの、相楽!」
「……話は終わりか?」
ゆっくりと相楽が目を開ける。私たちひとりひとりを一瞥し、不機嫌そうにそう呟いた。
「は……? あんた、何を言って……」
「終わりなら俺はもう帰る。今度こそ本当に退けよ」
ぎろりと睨み据えられて、私は肝っ玉が縮み上がりそうだった。
「ちょっと、まだ話は終わってな……」
「俺に対して文句が言いたいだけなら好きにすればいい。けど、それは俺のいないところでやってくれ。時間の無駄だ」
「時間の無駄って……」
真野さんの視線がさっきより更に鋭くなる。
私はこの状況をどうしたらいいのかわからず、助けぶねを求めて冴羽くんを見た。
冴羽くんはやれやれといった様子で肩をすくめて、ふたりの間に割って入る。
「俺たちが言いたいのは相楽、君への悪口でも中傷でもない。謝罪と意思表示をしてくれってことだ」
「意思表示? 俺の意思がおまえらに何の関係がある?」
「この……」
「落ち着いて縁。……相楽、君は勘違いをしていると思うんだ」
「勘違い? 何がだ?」
相楽がぴくっとまゆを立てる。視線が私から冴羽くんへと移動する。
「俺たちが少なからず君を憎んでいると、君はそう思っているな?」
「当たり前だろ。現にそいつを見てみろ。今にも噛み付きそうな野獣のような顔だ」
「誰が野獣だ、誰が!」
真野さんは今にも相楽に襲いかかりそうな勢いだ。
さすがに暴力沙汰はまずい。
私と冴羽くんの意見はその点で一致したのか、とっさにお互いのお隣さんを庇う格好を取る。……と、それがまずかった。
冴羽くんに庇われる形となった真野さんはともかく、相楽を庇っている私の方はまずい。
さらなる敵意が真野さんの表情に宿る。
その感情の矛先は主に相楽に向けられていたが、多少は私の方にも向いていた。
なんで? と疑問に思うものの、それを口にする勇気は私にはなかった。
「相楽、あまり他人を煽るような言動は感心しないな」
「どっちが先に煽ってきたんだか」
相楽は肩をすくめ、大人しく座り直した。
真野さんも、冴羽くんの説得によりどうにか相楽への殺意を押しとどめる。
「あまり話が脱線するようだと、縁には帰ってもらわないといけなくなるよ?」
「……わかったわよ。舜の言う通りにするわ」
「ありがとう」
冴羽くんが真野さんに向かって微笑みかける。真野さんはまんざらでもなさそうだったが、私と目が合うと表情を引き締め、私を睨んでくる。
「さて、では話を先に進めようか」
「本当に手短にしてくれよ。俺はおまえらほど暇じゃねーんだよ」
「俺だっていろいろいと仕事があるんだ。だからこの問題にあまり時間をかけたくないのは一緒さ」
「だったら今すぐ解散しようぜ」
「それだめだ」
「なぜだ? 別に俺がひとりでいようと関係のないことのはずだ」
「それは違うよ、相楽。俺たちの間に関係のないことなんかないよ」
冴羽くんが至極真剣に、そう言う。彼の表情からは、その人間性というか、誠実さのようなものが滲み出ていた。
相楽は見るからに鬱陶しげな表情を浮かべ、嘆息する。
「どうだっていい。とにかく一刻も早く俺をこの場から開放してくれ」
「では君は俺たちの提案を受け入れると、そういう解釈でいいんだね?」
「いいわけがないだろ。どうして俺がおまえらのくそみてーな提案を受け入れなくちゃならないんだ」
「くそみたいとはずいぶんな言われようだ」
冴羽くんは何がそんなにおかしいのか、くすくすと小さく肩を揺らした。
私と真野さんはふたりのそうしたやりとりを、ただ呆然と眺めているより他になかった。
「ただ、事実として君はクラス中……いいや、学校中から目の敵にされているんだから、一度は謝罪をしておいた方がいいと俺は思うんだが」
「そんなことをした日には、俺は本格的に殺人者の汚名を着せられてしまう」
「いいじゃないか。事実だ」
「真実じゃあないからだめだ」
カラン、とコップの中の氷が溶ける音がする。
真野さんは相楽の言い分に文句を言いたいのを我慢しているらしく、さっきからじっと相楽を睨みつけたままぷるぷるしていた。
「落ち着いて、縁。……相楽、君は何か大きな勘違いをしていないかい?」
「勘違い……だと?」
「ああ。物事は何も、真実ばかりが重要視されるわけじゃあないんだ」
「何?」
冴羽くんは相楽のコップの中の小さくなった氷を眺めながら、ニッと笑った。
「大切なのは大衆の意見だ。みんなが真実だと思えば、それは真実たりえるということだよ。……わかるだろう?」
「悪いが、俺には全然わからねーな」
相楽は私の前のメロンソーダを見つめ、そう吐き捨てた。
「なるほど。それは残念だ。しかし焦ることはない。誰だって、自分が正しいと思っているのだから」
「だったらおまえのやってることは無駄骨だな。俺はおまえの提案には絶対に乗らない」
「落ち着きなよ。話はここからだ」
冴羽くんは柔らかく微笑んだまま、人差し指を一本立てる。
「俺たちはなんだかんだで疲れたんだ。相楽、君をずっと怨みに思っているのはそれはそれで存外体力と精神力を必要とする」
「だったらやめたらいい。だからといって俺はいまさらおまえらを許す気にはなれないけどな」
「ああ、それはもっともだろう。けど、ここでちょっと考えてみてはくれないか?」
「考えることなんてないと思うが?」
「それはどうだろう」
冴羽くんは人差し指をくるくると回し始めた。
「例えば、君は殺人犯ではなかったとしよう」
「例え話にするな」
「では本当にそうだったとして、事故が起こった直後というのならまだしも今になってそんなことを言われたところで、みんな混乱し、到底受け入れられないだろう。何せみんな、自分が正しいと信じていたのだから」
「そんなことは俺の知ったことじゃあない。おまえらで勝手にやってろ」
「それは困るよ」
冴羽くんは小さく肩をすぼめ、首を振った。
「受け入れられないのなら、みんななんと思うか。……当然、誰かが嘘を吐いていると結論付けるだろうね」
「その誰かって?」
私の質問に、冴羽くんはウインクして答えた。
「もちろん、相楽だよ。彼が嘘を吐いている。デマを流した。そう、みんなは考えると思うよ」
「どうして……」
「もちろん、悪者を悪者のままにしておくのが楽だからさ。新しい情報を取り入れる必要なんてない。それがずっと悪者としてきた人間ならなおさらだよ」
「……そう、なんだ」
もちろん、これはただの例え話だ。相楽が犯人だったかどうかなんて、私にはわからないし、事実を知るのはたぶん相楽とその転校生……泉という少女だけだろうから。
私はただ、ことの次第を見つめることしかできなかった。
「それで? だから何だ?」
「君は……それほど鈍い人ではないと思ったんだけどなぁ」
冴羽くんは困ったように笑い、どうしたものかと頬を掻いた。
「これ以上のわかり易い説明の仕方を俺は知らない。……言葉を持たないよ」
「おまえの読み以上に、俺の頭は悪い。せいぜい後悔するといい」
「では、もっとわかり易く伝えないとね」
冴羽くんはあくまで相楽に謝罪をさせたいらしい。
私だって、もし相楽が本当に泉という人の死に関わっていたのなら、謝るべきだと思う。
けど……、と私の中でひとつの疑問が鎌首をもたげ始めた。
本当に相楽は彼女の死に関わっているのだろうか? もしかしたらいわれのない、冤罪によって今の状況に追いやられているだけじゃないのだろうか。
私は自分の中に生じたその疑問を払拭するため、冴羽くんや真野さん、相楽に質問することにした。
「その泉って人が死んだのには……本当に相楽ひとりに責任があるの?」
「春野さん……これ以上何か言うと酷いことになるわよ?」
「まあまあ、縁」
ふっと、真野さんの表情から感情が消え失せた。
怒りとか悲しみとか、そんなものを感じさせないほど、彼女の顔はのっぺらぼうだった。
私は心臓がきゅーっとなり、胃の奥が締めつけられるような感覚に後悔を覚えた。
吐き気を催す。のど元まで出かかった何かが体の中へと舞い戻る。
胸が焼けるような痛みと不快感に、私は死んでしまうのではないかという気分になった。
「……天ちゃんも、あんまり変なことは言わない方がいいよ」
冴羽くんがにこやかに忠告してくる。私は彼の言葉に答えることができず、ただ黙っていた。
怖かった。率直言ってかなり怖かった。
真野さん、あんな顔もするんだ。
私は顔を俯かせて、ばくばくとがなり立てる心臓を抑えた。
沈まれ、沈まれ……!
私の願いが通じたのか、五分と経たずに落ち着いてきた。
ホッと胸を撫で下ろす。ようやく顔を上げると、真野さんの殺気に当てられて、顔を逸らした。
「えー……っと、それで私は何をしたら?」
「何と言われても困るなぁ。……そうだ、彼を説得するのを手伝ってくれると嬉しいな」
冴羽くんが相楽を指し示し、そう言ってくる。
私はちらりと相楽を見やった。
相楽は別段、何をするでもなくただ椅子に座っていた。通路の方へ向けられたつま先ととんとんとテーブルを叩く音が、早く帰りたいという彼の心情をよく表していた。
「ええと、じゃあ相楽、一応聞くけど」
「絶対にお断りだ」
「……ですよねー」
説得は、始まる前に既に終わってしまった。
私は申し訳ない気持ちで冴羽くんの方へと視線を向ける。
冴羽くんは大丈夫だよ、と手を振ってくれた。
「では、今後も君はひとりでいいと言うんだね?」
「当然だ。おまえらの輪の中に入るくらいならな」
「それは残念だ」
「どうして残念がる必要がある?」
相楽は冴羽くんを嘲笑うかのように、ニッと口の端をつり上げた。
「どうして? 当然だろう、俺は君と友達になれるかもしれないと思ったんだ」
「ふん、調子のいいことを言う」
話はこれで終わりだ、とばかりに相楽は私を押し退けて、店を出て行った。
あとには、私と真野さん。そして神妙な表情で相楽の去って行った方を見つめる冴羽くんが残された。
「やはりだめだったか」
冴羽くんは背もたれに体重を預け、ふーっと息を吐いた。
「いけると思ったんだけどなぁ」
「何でいけると思っちゃったのよ」
「いや……なんかこう、うまいこと説得できて」
「いやいや、おかしいでしょ、それ」
「だめだったかー」
「当たり前よ。何をどうしたらそんな結論に至るのか不思議だわ」
「ははは……」
私はもう、笑うしかなかった。
本当は笑うような場面ではなかったのだろうけど、他にどんな反応を示せばよかったのか。
ただ、それがよくなかったのだと思う。
「何を笑っているのよ?」
ぎろりと真野さんが睨みつけてくる。
私は慌てて居住まいを正した。じっと、真野さんの視線が他所に向いてくれるのを祈る。
「いいじゃないか、縁」
「……ふん」
冴羽くんにたしなめられて、不愉快だと言わんばかりに頬をふくらませて顔を背ける真野さん。……えーと、一体どうしたら?
私は助けを求めて冴羽くんを見やった。けど、冴羽くんは困ったように肩をすくめるばかりで、何も言ってはくれなかった。
こうして何も解決しないまま、その日はお開きとなった。
◆
事態が動いたのは、それから三日後のことだった。
放課後、ホームルームが終わった直後のことだ。
冴羽くんが突如として供託の前に立った。タンタンッと供託を叩き、みんなの視線を集める。
「みんな、聞いてくれ」
みんなが一斉に冴羽くんの方を向いた。私も真野さんも、そちらに注視する。
「相楽のことについてなんだが」
「何をいまさら。あいつに関して話すことなんかないだろ?」
「そうよ。あんな奴、ああいう仕打ちを受けて当然のことをしたんだから」
「ねえ、相楽ってなんでみんなから嫌われているの?」
「なんでって……そりゃあ、ねえ」
「ああ……なあ」
みんなが口々に反応を示す。と、冴羽くんはクラスメイトの私語を禁じるかのようにパンパンと手を打った。
「だが、あれに関しては事後だったんだ。もう相楽は十分罰を受けただろう?」
「それは……どうなんだろう」
「……まあ、冴羽くんがそう言うのなら」
「俺は別にいいけどよ、みんなは……」
互いに互いを見合うクラスの面々。特に中学から一緒だった人たちには、困惑の色合いがよく表れていた。
「みんなが戸惑うのもわかる。俺だって、無茶なことを言っているという自覚はあるからな。しかし、いつまでもこのままというわけにもいかないだろう?」
「それは……そうだけど」
「でも、ねえ……」
「あんなことがあったんだ。相楽を許すなんてとても……」
「許せとは言っていない。ただ、本来なら相楽だって俺たちと同じ側の人間なんだ。相楽と俺たちの違いは、あの場にいたかどうかだ」
「……まあそうだな」
「相楽はあたしたちと違って泉を止められたはず」
「けど現実はそうじゃなかった」
「だろう?」
冴羽くんは少し嬉しそうに、声を弾ませた。
その意図するところは何なのか。ただ、相楽とみんなを仲直りさせられるという、そのことに喜んでいるのか。はたまた別の意味合いが含まれているのか。
私にはわからなかった。
冴羽くんは続ける。
「俺たちのせいで相楽はすっかり歪んでしまった」
「俺たちのせいじゃねーよ。あいつの自業自得だ」
「ああ、だからもういいんじゃないかと思うんだ。あいつを……相楽を受け入れてくれ」
冴羽くんの表情は実に穏やかだった。
それは頼みごとをする人というより、みんなを諭す指導者といったようにも見える。
私はどことなく、胡散臭さを感じた。……理由は特にない。
「責任をひとりに押しつけるのはもうおしまいにしよう。俺たちは全員で過去の失態を受け入れなくてはならないはずだ」
「それは……正論だ」
「確かに、その方が理屈にあっている気がする」
「でもいまさら……」
「そうだよ、いまさら何を言ってるんだ」
「相楽に対する俺たちの行動が消えるわけじゃないんだ。いまさらそんなことをしたところで意味はないよ」
みんなの態度は、概ね相楽を排斥する方向で動いているらしい。
冴羽くんはこの状況を見越していたのか、余裕な態度だ。
「その通り。そのあたりのことは相楽にも話したが」
「もう話しちゃったの?」
「ああ。……あいつは仕返しをしたりするタイプじゃないから大丈夫だ」
「なんでそんなことがわかるのさ」
「俺の他人を見る目は確かだ。信用してくれ」
「……わかった。冴羽が言うなら」
「私も。冴羽くんがそう言うのなら」
その後も、冴羽くんに従うという人が多数挙手をする。
たぶん、私や他の人が何を言ったところでここまで信用されなかっただろう。
これは、冴羽くんならではの人望がなせる業だ。
「ありがとう、みんな」
冴羽くんがにっこりと微笑む。よほど嬉しかったのか、声が上擦っていた。
「相楽にはその旨、俺の方から伝えておくから」
「ああ、頼んだぜ、大将」
「私たちが相楽と話すのは……まだなんとなく抵抗あるし」
「まあそれが妥当かな」
冴羽くんは任された、とどんと胸を叩いた。
「みんなの思いは、俺がちゃんとつたえるから」
「その必要はない」
教室の後ろのほうから、そんな声が聞こえてくる。
返り見ると、相楽が私たち全員を睨みつけていた。
「おい、冴羽。何勝手なことをしてくれているんだ?」
「そんなふうに言われるとは心外だな。俺は相楽のためを思って言っているのに」
「それが余計なお世話だという考えには至らなかったのか?」
「ああ、そうだ。俺は余計なことなんて何一つとしてしていないつもりだよ」
「ふざけるな」
相楽と冴羽くんの睨み合いが続く。
「……俺はあくまでも親切心でやっているんだ。それをどうして君が嫌がるのかわからないな」
「……誰のせいで今の状況ができていると思っているんだ?」
「誰のせい? 誰のせいでもない、自分のせいだろう?」
相楽の憤怒に彩られた言葉に、冴羽くんがさらりと返す。
相楽はただでさえ醜悪に歪んだ表情を更に凄絶に歪ませる。
「よくも平然とそんなことが言えるもんだ」
「君の犯した罪を許して、もう一度ただの友達として迎えようというんだ。感謝こそされても恨まれる道理はないと思うけど?」
「ふざけるな! 誰がおまえみたいな奴と――」
言いかけて、相楽の言葉が止まる。
彼はふっと、その顔から表情を消した。
「……なるほど、全員懐柔済みというわけか」
「人聞きの悪いことを言わないでくれ。みんな、俺の考えに賛同してくれたんだ。君の過ちを許し、君を暖かく迎えてくれようとしているんだよ。それを君は無下にするのか?」
「……当たり前だろ、気色悪い」
「ふーん……なるほど」
と、冴羽くんが言い終わらない内に、相楽は教室から出て行ってしまった。
ぴしゃりと、扉が締まる音が響く。
「……みんな済まない。せっかく相楽を許してくれる気になったのに」
「気にするな」
「もともと無理な話だったんだよ」
「だな。相楽って中学の時からひとりが好きだったもんな」
「こんなことがなくったって、あいつを受け入れるなんて土台不可能だったんだ。冴羽のせいじゃないさ」
クラスメイトの大半が、冴羽くんを慰めていた。
男子女子関係なく。それこそ、相楽を悪者にでもしているかのように手厳しく批判している人もいた。
そのことに、私は首を傾げた。どうして誰も彼も、冴羽くんをここまで信用しているんだろう?
それに相楽のあの発言。あれは一体どう言う意味だったのだろうか。
「あの、冴羽くん……ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「ああ、天ちゃんごめんよ。今はちょっと……あとにしてくれるかな?」
「え? でも……」
「実はこれでも、かなり傷ついているんだ。まさか相楽が断ってくるなんて予想外で」
「でも、冴羽くん……」
「本当にごめんよ」
言って、冴羽くんも教室から出て行く。
その後ろ姿はまさしく縮こまり、傷を抱えた人のように見えた。
だから、だろう。私は冴羽くんを追い駆けることができず、その場で沈黙する。
「春野さん、少しいいかしら?」
「真野さん? ええと、一体何のご用でしょうか……?」
背後から真野さんに声をかけられて、私はおっかなびっくり振り返った。
肩をすぼめ、真野さんの要件に耳を傾ける。
「大したことじゃないわ。……けどそうね。ここだとちょっと」
「えーと、何か言いにくいこと?」
「言いにくいこと……というわけではないのだけど、ちょっと場所を移動しましょう」
なんて言いつつ、真野さんは私の手を取って教室の外へと飛び出した。
私は一体何が起こっているのかわからず、目を白黒させるしかなかった。
「ま、真野さん、一体どこへ……!」
「いいから、ついて来てくれればわかるわ」
「ちょっ……今から授業が」
「そんなことより、よほど大事なことよ」
そんなものがこの世にあるのだろうか。などと疑問に思って、すぐに結構な数存在することに思い至る。
真野さんは私を連れて、まず一階へと移動した。
しかしそこではだめだと判断したのだろう。再び移動する真野さん。
私はどこへ行くのかとも、どんな用事があるのかとも質問できず、ただ彼女について行くしかなかった。
やがて、真野さんが秘密の話をする場所に選んだのは三階の廊下。
右手には壁があり、左手には私たちが昇って来た階段がある。
私は壁側に背中を向け、じりじりと追い詰められる形で詰め寄られた。
「え、ええと……それで、話って?」
「春野さん、殺気あなたは舜になんて言おうとしていたの?」
「なんてって……そりゃあ相楽の言葉の意味を聞こうとしたのだけど」
「どうしてそんなことを?」
「どうしてって、相楽の言い方が気になってしまって」
あんな言い方をされれば、誰だって気になってしまうだろう。
それが例え、相楽のよう善人でなかったとしても。
「だめよ。それはだめ」
「だめ? ……それはまたどうして?」
「だめなのよ……それは秩序を破壊することよ」
「秩序の……破壊? 一体何を言って……」
私の問いかけに、しかし真野さんはこたえようとはせず、だめよだめよとと呟くばかいりだった。
「私たちは今の状態で満足なのよ。だから、変に引っ掻き回されたくないの」
わかる? と真野さんは苦しげにまゆを寄せた。
私は反論しようと出かかっていた言葉がのどの奥に消え失せたのを感じて、ほうっと息を吐いた。
そこでようやく、私は察したのだ。
事実を追求することの無意味さを。真実を追い求めることの浅はかさを。
自体は、嘘か真かなどということを関知しない。ただ、時間の流れのままに過ぎ去るだけだ。
私は自分の中から、鱗のようなものが剥がれ落ちるのを感じた。
何が落ちてしまったのかはわからない。でも、きっと大切なものだったのだろう。
「……わかったよ」
そう返事をする間、私は真野さんの瞳をまともに見ることができなかった。
私は……相楽を悪者として扱う。そうすることで、クラスのみんなが一定の幸せを得られるというのならそうすべきなのだろう。
真野さんは私の返事に満足したのか、ニコッとわずかに微笑んだ。
「わかってくれればいいのよ。さあ、教室に戻りましょう」
「……うん、わかったよ」
私は真野さんのあとに続いて、教室へと戻った。
この学校には、私の通っていた中学の時とは違う空気が流れている。
ここでは自分という存在を打ち消さなくてはならない。そう感じた。
◆
一時間目の授業が始まっても、相楽が教室に戻ってくることはなかった。
だからだろう。教室には今朝よりよほど、緩やかな雰囲気が流れている。そのこと自体は、たぶん歓迎するべきことなのだろう。
でも……、と私は自分の心の中にある引っかかりを取り払えずにいた。
ちらりと相楽の席を見る。
相楽は、あのままでいいのだろうか。あのまま、納得のいかないまま悪者にされて。
私の考えることではない。そうあたまではわかっているが、心がざわついてどうにもならなない。
授業にすら身が入らず、私は午前の授業をただぼけーっとして聞いていた。
もちろん、頭には全くと言っていいほど何も残ってはいなかった。
ただ、相楽のことばかりが脳裏をちらつくのだった。
そうしてどれくらいが経っただろう。
授業は終わり、いつの間にか昼休みになっていた。
私はハッとして、周囲を見回した。
「え、ええと……私は」
軽く記憶が飛んでいた。今日、一体私は何をしたんだっけ?
私が困惑していると、私の周りに何人かの女子が集まって来ていた。
「えっと、、大丈夫?」
「何だか顔色、悪いみたいだけど」
「保健室で休んだ方がいいんじゃ……」
「大丈夫。大丈夫だから」
それまで話たこともないような人たちだった。
私は作り笑いを浮かべて、彼女たちの話を遮る。
トイレだと言って立ち上がり、廊下に出る。と、本当にトイレに行きたくなってしまったのでは行くことにした。
その後、私はなぜか教室に戻る気にならず、三階へと向かった。
彼女……真野さんと話た場所でうずくまる。
「お腹痛い。きりきりする。何だこれ」
あいつらは一体何なんだ? どうしてあんなことがあったあとだというのに、あれだけ冷静でいられる? わけがわからない。
ダンッと拳で床を叩く。なれないことをしたからか、じんじんと痛んだ。
ぞくりとする。寒気と怖気が私を支配する。
異常だと思う。この学校は。あのクラスは。
誰かひとりを悪者にして、それで平気でいられるあいつらは。
事故で死んだ中学時代の同級生。その死の責任を相楽ひとりに押し付けて、それで当たり前だという顔をする連中。
真野さんを始めとするそういう連中の神経の図太さは異常だ。
吐き気を催すレベルだ。
だめだ。私はあいつらとは決定的に馬が合わないだろう。
急いでなんとかしないと。
私はぜえぜえと肩で息をしつつ、考えを巡らせる。
何かないか? あいつらをぎゃふんと言わせられる何か。
「……だめだ、何も思いつかない」
私はがっくりと項垂れた。もっとも、私は自分のことをそれほど能力のある人間だと思っていたわけではないので、その点は別団思うところはない。
問題はあいつらだ。相楽を目の敵にする、あの連中だ。
私は脳裏にクラスメイトの顔を思い浮かべる。
冴羽くん、真野さん、その他大勢。
覚えている人も覚えていない人もいたが、総じていい印象はなかった。
私は……たぶん彼らとは違う。私は友人を失った経験なんてなく、だからこそ彼らとは違う目線で相楽と接することができる。
その部分を、冴羽くんは言っていたのだろう。
そうして彼は、相楽をクラスメイトとして、仲間として迎えようとしていた。
果たして、本当に相楽のためを思ってのことだったのだろうか。私にはわからない。
ただひとつ言えることは、冴羽くん他の人たちとは違うということ。どんな理由があったにせよ、彼だけが相楽を受け入れる努力をしたということだ。
「どうして……?」
あれだけの嫌われ者を受け入れるメリットなんてどこにもない。とすると、そこにはどんな思惑も陰謀もありはしないことになる。
冴羽くんはただただ、純粋に相楽のためを思って彼を迎え入れようとした、と。そう解釈することは可能だ。
しかし、果たして本当にそうなのだろうか?
私は私の中にある疑問を、払拭できずにいた。
何か、重大な事実を見落としているような、そんな気分になる。
相楽のあの言葉。
――誰のせいで今の状況ができていると思っているんだ。
あの言葉が引っかかる。
私はコツンと壁に頭を当てて、考える。
過去にあの三人の間に、ひいては相楽や冴羽くんたちが通っていた中学校で何が起こったのか、それを私は知らない。だからといって、今回のことから手を引く、傍観するというわけにはいかない。
私はどうしたらいいのだろう。
自分の行動の方向性を決められず、もやもやとした何かを胸の内に抱える。
始業のチャイムがなった……ような気がする。けど、教室に戻る気にはなれなかった。
私は壁を背にし、ずるずると座り込んだ。
膝を抱え、その間に顔を埋める。
泣き出したいような気分だった。とてもじゃないが、まともな神経ではいられない。
ここでの生活は、私が今まで経験してきたどんなものより辛い。
それは私が幸せ者だったということなのだろうが、しかしこれはあんまりだ。
私の行動はうまくいかなかった。それどころか、ますます相楽を孤独の道へと追いやるだけの結果となってしまった。
思うことは、そんなことばかりだった。私のせいで、相楽が更にひとりになってしまう。
「……誰か、教えてよ」
ぼそりと、ひとり呟く。
私自身、一体何をすればいいのか全くわからない。誰かに縋りたいような気分だ。
だから誰かに縋る。きっとそれは弱いことなんだろう。
弱者の理論であり、強者からすれば全くお笑い種な言い分なんだろう。
相楽のような奴からすれば。
「けど、私には無理だよ。私は相楽みたいにはなれないよ……」
私はずっと、中学からずっと友達や家族や先生や近所の人。たくさんの人に囲まれて生きてきた。
私の周りでは笑顔が絶えず、私だってみんなから笑顔をもらってきた。
けど、ここでは何もかもが違う。たった一人を悪者にして、平気でいられる世界。
私とは住む場所が違った。温度や空気や、その他の色々なことが違っていた。
戸惑うなという方が無理な話だった。落ち込んだりせず、何も考えずに溶け込めと言われても、私には土台無理な話で。
でもみんなにはそれができていて、そしてそれはこの場所では当たり前に行われていることで。
だから私もやらなくちゃいけない。そうしないと、たぶん今以上に酷いことになる。
そう思うのに、体は言うことを聞かなかった。
ぼろぼろと涙が溢れて、止まらなかった。どうして? と疑問に思うものの、答えは出ない。
簡単なことのはずだ。ただ、相楽を無視して、いないかのように扱えばいい。
相楽と違う中学だった人もそうしている。だったら私にもできるはずなんだから。
私は立ち上がることすらできずに、その場ですすり泣いていた。
誰も通らない。だから誰にも見られるはずがない。
安心できる場所。安心して、泣ける場所。
その、はずだった。
「……何してんだ、おまえ」
「相楽……」
頭の上から声が降ってきて、私は顔を上げた。
すると、そこには相楽がいた。眉根を寄せて、困り顔で。
「相楽こそ、なんで……」
「俺はさぼりだ。ここは結構穴場なんだよ」
「そう……なんだ」
憮然とした様子で、相楽が言う。彼の言葉に私は呆然として返すしかなかった。
「いや、そういうことじゃなくて……」
「おまえこそ、何だってこんなところにいるんだ? 俺と違ってさぼりなんてするタイプだとは思えないんだが?」
「えっと、私は……」
どうして、私は泣いていたんだろう。そう疑問に思い、それから「ああ」と思い出す。
「……相楽のせいでしょ」
「ああ? なんで俺のせいなんだよ?」
「だって、相楽がずっとひとりでいるから」
「だからなんだってんだ? おまえには関係のないことだ」
「そんなことない!」
私は、思わず大声を出していた。
私の声が廊下の隅々まで響き渡る。
「おま……誰かに聞かれたらどうするつもりなんだよ」
「そんなこと、どうだっていい」
「どうだっていいっておまえなぁ……」
呆れたような相楽の声。でも、呆れたいのは私の方。
私はすっと立ち上がると、できる限りの怒りとか、あと色々を込めて相楽を睨みつけた。
「……なんだよ?」
「あんたこそなんだよ!」
ガッと、胸倉を掴んだ。掴んで……それからどうしよう。
とりあえず前後に揺すってみる。と、相楽も私の腕の動きに合わせて前後に揺れた。
「ちょ、おまえ何すんだよ!」
「おまえじゃない……私は春野天。天って名前がある。ちゃんと名前で呼べ」
「待て、待ってくれ頼むから! まず手を離して……」
相楽の絞り出すようなうめき声に、私はようやくハッとした。
相楽の首元から手を離す。と、ゲホゲホと相楽は咳き込んだ。
「だ、大丈夫?」
「おまえがやったんだろ」
「それはごめん……でも、私は」
「いいんだよ、俺は名前なんて覚えなくて」
私が言いかけたことを遮って、相楽が言う。
私はきゅーっと胸の奥は締めつけられるような感覚に、息苦しくなった。
「……どいういう、意味?」
「俺とおまえの間には接点なんてないってことだ。この時間のこともすぐに忘れろ」
「そんなこと……ない。だって私は、相楽ともっと」
「止めろ。一時の感情でそんなことを言うもんじゃない。学校生活は平和に過ごしたいだろ?」
「私……私は」
学校生活を平和に過ごしたい。友達と笑ったり、普通に恋なんてしてみたり。
それは、きっと誰もが願っていることだ。当然、相楽にだってそういう願いはあっただろう。相楽の言う平和がどういうものかはわからないけど。
「あいつらの言うことは……ある意味では正しい」
「どういう……こと?」
「中学の時、よくひとりでいる俺に話しかけてくるおせっかい焼きがいたんだ」
「ああ、うん。それは聞いたよ。誰隔てなく接する、いい子だったって」
「そうか……まあいい奴だった。けど、俺はあいつを拒否し続けたんだ」
「どうして?」
「どうしてって……そりゃあひとりでいる方が気楽だし、平和だ。その平和を壊されると思ったんだろうな、たぶん」
「壊されるって……」
「とにかくだ。その時の俺はあいつが死ぬなんて夢にも思ってなかったんだ」
相楽は首を振り、自虐的に笑んだ。たぶん、その時のことを思い出していたんだろう。
「それ以前にもそういうおせっかい焼きは何人かいたんだ。冴羽もその中のひとりだ」
「冴羽くんも?」
「大抵は適当にあしらってれば、その内諦めるような連中だった。けど、冴羽とそいつは違ったんだ。ありていに言って、しつこかった」
相楽は私の隣に歩み寄ると、そっと壁に触れた。
きっと、思い出に触れているんだろう。泉さんや冴羽くんとの思い出に。
「俺もとうとう根負けしたんだろうな。あいつとは、それ以来ちょくちょく話すようになってたんだ。今思えばおかしな奴だった」
「……そう、かもね」
私はその人と接したことがない。話に聞く彼女は優しくて、暖かな人だった。
そして、強い人でもあったのだろう。
「たぶん、冴羽はあいつのことが好きだった、んだろうな」
「え? そうだったの?」
「あいつと接する中で、冴羽ともそれなりに付き合いが生まれたからな」
「ふーん」
なんとなく想像できる気がする。
相楽と冴羽くん。ふたりが仲よくしている様子は。
「その中で、俺は知ったんだ。冴羽の気持ちを」
「どうして知ったの?」
「どうして……か。まあ見てればわかるだろ、そういうの」
「……私は、たぶんわからないなぁ」
私は他人を好きになったことがまだない。そりゃあ友達は多い方だし、先生や家族やご近所さんのことも好きだ。
けど、相楽の言っている好きと私が思っている好きは、たぶん決定的に違うものだ。
全く、違う感情だ。
だから私は……私は。
「相楽は……さ、その人のことどう思ってたの?」
「どうって言われてもな。今も昔も、おせっかいで面倒な奴だと思ってる」
「そう……なんだ」
おせっかいで面倒な奴。確かに相楽みたいな奴からしたら、そうなるのかもしれない。
けど、私はその泉さんって人の気持ち、少しわかるような気がする。
相楽にはほっとけないというか、なんとなく構いたくなるようなオーラがあるから。
「ねえ……ちょっといい?」
「あ? なんだよ」
「相楽に……お願いがあるの」
「お願い? 言っとくがあいつらと仲直りするのは無理だからな」
「ううん、そんなことは言わないけど」
「だったら何だっていうんだ?」
相楽は訝しげに目を細めた。
私はそんな彼の態度を意識の隅に追いやり、すぅーっと息を吸った。
「本当のことを教えて。冴羽くんと真野さんと泉さんと相楽。みんなの間に一体何があったのかを、全部」