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彼と彼女と彼女と彼と

黒板に暴言が書かれていた事件から二日が経過した。

 クラス内では、そのことは段々下火になりつつあり、話題に昇ることも少なくなっていった。そこに関しては、私もホッとしている。

 けど、それとは全く違う方向で、別の心配事が発生していた。

「……はあ」

「どうしたのよ、春野さん?」

「ん……ああ、真野さん。何でもないよ」

「何でもないってことはないでしょう? そんな溜息なんて吐いて」

「ん、まあちょっとね」

 言ったところで意味はない。それどころか、無駄に心配をさせるだけだ。

 私はニコッと曖昧に笑ってみせた。安心してもらうため、というよりはこれ以上突っ込んで訊ねてこないで欲しいという意味を込めて。

「……ま、いいわ。ところで」

 真野さんは肩を竦めて、本題を口にした。

「舜、見なかった?」

「冴羽くん……ううん、見てないよ。どうかしたの?」

「何でもないわ。ただ、今日の朝舜の家に行ったら……」

「冴羽くんの家……!」

「ちょっと、声が大きいわよ」

 ガバッと、真野さんが私に口を覆ってくる。きっと彼女にとっては周囲に知られたくないことだったのだろう。これは悪いことをした。

「いい、下手に大声出したら首を締め上げるわよ?」

「んー」

 了承の意味を込めて、二度頷く。すると、真野さんは私の口元から手を離してくれた。

 私は声を潜めて、改めて訊ねた。

「今朝冴羽くんの家の行ったの?」

「だからそう言っているわ。けど、舜の姿はなかった。朝早くの家を出たらしいんだけど」

「ええと、もしかして二人は付き合ってるの?」

 さすがにここまで露骨だと、私くらいこの手の話に敏感な人間なら気がつくと思う。

 私は興奮気味に、どくんどくんと脈打つ心臓を押さえる。

 真野さんはくるくると髪の毛をいじりながら、恥ずかしそうに、けどどこか嬉しそうに話始めた。

「別に舜とは付き合っているとか、そんなんじゃないわ。ただ……まあそれも時間の問題でしょうね。何せ私たち、好き合ってるんだから」

「おお、すごいね。そんなふうに言えるなんて」

「私と舜はそれなりに付き合いも長いし、舜はそれほど勘の鈍い方という訳でもないから」

「それでも、普通そんな自信満々に言えるかな?」

「ま、私これでも結構可愛い方だと思うし?」

「はは、なんだとこのやろー」

 私は冗談めかして、真野さんの頭をくしゃっとやる。真野さんが私の手を振り払おうとしてくるので、私は大人しく手を退けた。

「そっか。二人とも仲いいし、大丈夫だよ」

「ええ、そのあたりは別に心配していないわ。舜から告白してきた時は、絶対に断らないし。仮に私から告白する流れになったとしても、舜なら必ず私を受け入れてくれる」

 けど、と真野さんが私を睨みつけてくる。

「さっきのはどういうつもりかしら?」

「むふふ、何だか真野さんが急に可愛く見えて」

「言ったでしょう? 私は可愛い方なのよ」

「いやいや、そういう意味じゃなくてね」

「? だったらどういう意味なの?」

 真野さんは本気でわからないというように、眉根を寄せる。

 私はどう言ったものかと思案したが、結局適切な言葉が見つからずに笑って誤魔化した。

「……まあいいわ。問題は舜を貶めたあの落書きのことよ」

「誰が書いたのかわからないもんね」

「ええ……とはいえ、あいつに決まっているでしょうけど」

「……うん、そうだね」

 それにしても証拠がない以上、彼に何と言ったところで無駄だろう。むしろ、下手に騒ぎを起こすと冴羽くんの評判にまで傷がつく恐れがある。

 それに、私としては今、その問題はどうだっていいことだ。

 もっと、留意するべきことがある。

「じゃあ頑張ってね」

「帰るの?」

「え? ええと……まあ」

「ちょっと待って、一緒にあいつが犯人だっていう証拠を探してくれないの?」

「ごめん、ちょっと用事があって」

「……そう、なんだ」

 真野さんは残念そうに肩を落とした。私な何となく申し訳なく思ったが、だからといって一緒に調査する気にはなれなかった。

「ごめん、この埋め合わせは必ずするから」

「春野さん……」

 私は背後から真野さんの声を聞きながら、教室を出た。

 本当にごめん、真野さん。

 

                       ◆

 

 家に帰ると、ただいまより先にお母さんという声が出た。

「お父さんお父さん!」

 お父さんの書斎に行く。そこには世界各国から集めた古書の山が天井近くまで積まれていた。

 その古書の山の中に、お父さんはいた。

「お父さん、お母さんは?」

「ああ、おかえり。お母さんならまだ帰って来ていないよ」

「帰って来ていないって……これで三日連続だよ? 心配じゃないの?」

「心配だよ。でもだからって仕事を休んだりする訳にはいかないし」

「でもそれじゃお母さんが」

「大丈夫だよ。お母さんなら」

「どうしてそんなこと言うの?」

 お父さんの落ち着き払った声が私には理解できなかった。

 お母さんはここ三日、一度として家に帰って来ていない。にも関わらず、お父さんは仕事に没頭している。こんなのっておかしいよ。

「……お父さんがそう言うのなら、私一人で探す」

「あまり遅くならないようにね」

「ふんだ!」

 バタンッと勢いよくふすまを閉める。お父さんの顔なんて、しばらく見たくもない。

 私は手早く着替えを済ませると、外に飛び出した。

 きっと、お母さんはどこかにいる。私は駆け足に捜索を開始した。

「おかあさーん、どこー!」

 呼びかけるが、返事はない。一体どこへ行ってしまったのだろう。

 考えられる可能性としては、誘拐だろうか。しかしこんな片田舎であの人を誘拐したところで、得るものがあるとは考えづらい。

 なら、山の中や藪の中に入って行ったというのはどうだろう。もともと冒険心の強い人物だったから、ありえなくはない。

「……とは言ってもなぁ」

 道端を歩いていると、そこかしこに破やら林やらが見えてくる。が、この中に足を踏み入れるとなるとかなり躊躇する。

 蚊に刺されるくらいならまだしも、毒へびやハチなどと遭遇する危険もある。

 私はどしたものかと途方に暮れた。けど、ここにお母さんが分け入って行ったのなら、同じような危険に晒されているに違いなかった。

 だったら、行くしかない……のだろうか。

「……何をしている?」

「ひゃあい!」

 ビクンと全身が揺れる。私はとっさに振り返り、その人物の姿を認識した。

 そこにいたのは、怪訝そうに眉間に皺を刻み、憮然と唇を引き結んだ相楽だった。

「……どうして、ここに?」

「それは俺のせりふだ。そんなところで何をしているんだ?」

「ええと、これは……」

「……その藪に入るのはおすすめしない。へびやら何やら、色々出るからな」

「で、でもお母さんがこの中に入ってしまった可能性があるの」

「……そうか。それは残念だったな」

 人事のように、興味なさそうに呟く相楽。

 私はぐっと拳を握り、声を荒げそうになるのを必死で抑えた。

「だから……ここに入らないとお母さんが見つからない」

「そこに入ってもおまえの母親は見つからない。同じような藪はこのあたりにはいくらでもある」

「それは……そうだけど」

 だったら、どうしたらいいと言うの?

 私は拳を握ったまま、顔を俯かせる。他に解決策がないのなら、こうするより他にないのだから仕方のないことだ。

 私は相楽を説得するため、というより自分に言い聞かせるため、自らの行為を正当化するために、言い訳を考え出す。

「……私は」

「はぁぁ、わからない奴だな」

「何? ……どういうこと?」

 相楽が大きく溜息を吐くその意味するところがわからず、私は困惑してしまう。

「おまえの母親はわざわざ危険を犯してそんな藪の中に飛び込んでしまうようなバカなのか? ああ?」

「ち、違うよ! ……けど、そういう一面もあるのは確かで」

「ま、人間だしな。複数の顔を持っていたとしても不思議じゃない」

「……うん」

「だったら入ればいい」

「……は?」

 さっきと言っていることが違う。

 私は困惑に困惑を重ね、頭の中が混乱しそうになる。

「まあいい。それじゃあ俺は帰る」

「待って!」

 私の脇を通って行こうとした相楽の背中を、私は引き止める。

「……一緒に、探してくれない?」

「なぜ俺がそんなことをしないといけないんだ?」

「なぜって……それは」

 なぜと問われると、返答に困る。

 これは私のお母さんの問題で、つまりは私の問題だ。そこに相楽を巻き込むのは、たぶん筋違いだと思う。

 それに、私は相楽が困っている時に助けなかった。周りの意見に流されて相楽を犯人扱いしかけた。本当に、都合のいい話だとわかっている。

 でも、私一人ではお母さんは見つからないかもしれない。それは嫌だ。

 だから、虫のいい話だとわかってはいても、私はこうして相楽にお願いしている。一緒にお母さんを探して欲しいと。

「……だめ、だよね」

 一歩、相楽から離れる。相楽はじっと、私を見ていた。

 私は相楽と目を合わせているのが辛くて、視線を逸らした。

「……ごめん、勝手なこと言って。今のは忘れて」

 相楽の前から姿を消そう。そうしたら、きっと相楽も許してくれる。

 私はそう思い、歩き出す。これは私のお母さんのことなのだから、私がどうにかしないといけないことなんだ。相楽には……頼ったらいけない。

「……待て」

「……どうしたの? 私、急いでるんだけど」

「はぁ……全く。しょうがない奴だ」

「え?」

 相楽が何か、意外なことを言ったような気がして、私は振り返った。

「ええと……何?」

「しょうがない奴だと言った。手伝ってやる」

「……ええと」

 相楽の言っている意味がわからず、私は困惑した。

 手伝ってやる? どうして? さっきはあんなにしぶってたのに。

「わからないって顔をしているな」

「それは……だって」

「ま、何だっていいさ。俺だって別に、おまえに好かれようなんて思ってないし、何なら嫌ってくれていても全然構わない」

「だったら手伝ってくれる意味なんて……」

「……家の近所で女の死体が発見された、なんてことになったら気味が悪いだろ」

 相楽は私の横を通り過ぎ、さっさと行ってしまおうとする。

 私は何が起こっているのかいまいち理解できず、呆然としていた。

「どうしたんだ? 母親、探したいんだろ?」

「え? うん。……ちょっと待ってよ」

 どんどんと先に行ってしまおうとする相楽。私は小走りに彼のあとを追った。

 何だか、相楽光という男子の一面を知ったような気がする。

 

                        ◆

 

「……それで?」

「それでって?」

「おまえのバカ親の特徴だ」

「誰の親がバカ親だ」

 くそ、腹立つなーこいつ。

 でも、今は手伝ってもらっている立場だ。我慢我慢。

「特徴と言われてもなぁ……美人?」

「知らん」

「ちょっと天然系で、ホラーとか大好きで」

「どうだっていい」

「あと動物によく好かれるよ。猫とか」

「だからなんなんだよ……」

 相楽は頭を抱えるようにして、顔を覆った。私、それほどおかしなことを言ったかな?

「俺が聞きたいのはそんなことじゃない」

「じゃあどんなことな訳? はっきり言って」

「外見的特徴だ。髪が長いとか背が高いとかあるだろう。そんな内面的なことを言われたところで俺にわかるはずがない。それくらいわかれよ」

「む……何さ、そんなふうに言わなくてもいいじゃん」

「おまえの頭が悪いのが悪い」

 相楽はふんとそっぽを向いてしまう。

 本当にむかつく。もっとこう他に言い方ない訳? これだからデリカシーのない男は嫌だね。

 私ははぁーっと盛大に溜息を吐いた。どうしてこんな奴に頼っちゃったんだろ、私。

 ほんと、バカみたい。

 私が一人、後悔していると相楽が不意に立ち止まる。

「何? どうしたの?」

「しっ……なんか聞こえる」

 私が不満一杯に訊ねると、相楽は私の言葉を遮って耳を澄ませる。私も相楽に習って、同じように耳をそばだてた。

「? ……何も聞こえないけど」

「いいや、確かに聞こえる。……こっちだ」

「ちょっと、待ってよ」

 相楽が小走りにどこかへと行ってしまう。

 私は彼のあとを追って、必死に走った。

 意外にも、相楽は足が早かった。私は引き離されないように精一杯で、なかなか距離が縮まらない。

 そうして大体五分くらいだろうか。相楽が立ち止まったので、私も立ち止まる。

 ぜえぜえと荒く息を吐く私を横目に、相楽はけろりとしたものだった。

「おまえ、体力ないんだな」

「う、うるさい……それより、なんだってこんなところに……」

「いや……確かにこのあたりから聞こえてきたと思ったんだが……」

 私たちの目の前には、さっき私が入ろうとした藪より更にグレードアップした林が立ちはだかっていた。それ以外に民家のようなものはなく、私と相楽はぼけっと立ち尽くすしかなかった。

 と、どうするのだろう、と私が相楽をじっと見つめていた。すると相楽は突如として目の前の林へと分け入って行こうとする。

「ちょっと待って、何をしているの!」

「……何って声の正体を確かめないといけないだろ?」

「で、でも毒へびとか危ないんじゃ……」

「だったらおまえはそこで待ってろよ。俺一人で行ってくるから」

「ちょっ……少しは他人の話を聞いてよ」

 私の静止を無視して、相楽がどんどんと奥へと行ってしまう。

 私はどうしたものかと一瞬逡巡したが、意を決して相楽のあとを追い、林の中へと分け入って行く。

 もし、相楽の言っていた声が聞こえたというのが本当なら、それはお母さんである可能性が高い。なら、当然私も行かなくてはならないだろう。

「待って、相楽……」

 顔にかかった蜘蛛の巣を払い除け、小枝で指先を切って顔をしかめながら相楽の姿を必死で追う。離されたら終わりだ。私一人では、どう考えても林から抜けることは不可能だろうから。

 あっという間に、私たちが入って来た林の入口がわからなくなる。

 私は一旦立ち止まって振り返った。が、すぐに相楽を追いかけることに終始した。

 そうして、どれくらい歩いただろう。林は結構な広さがあって、私が迷わなかったのは本当に奇跡と言っていいのかもしれない。

 そう思わせるくらい、奥深くまでやって来た。ここまで、変な生物や毒へびなどに出会わなかったのが不思議なくらいだ。

 不意に、相楽が立ち止まる。私は相楽のところまで行き、激しく肩を上下させていた。

「……どうしたの?」

「……なんだ、着いて来ていたのか」

「当たり前でしょ。あんた一人にする訳にはいかないし」

「ふん……まあいい。それよりこれを見ろ」

 相楽が目の前のあるものを指差す。私は相楽の肩口から首を伸ばして、それを見やった。

「え……?」

 大きく目を見開く。驚きと、何より疑問とが頭の中を支配する。

「お母さん! なんで!」

「やっぱりか。見慣れない奴だと思ったが」

「え? どうして……?」

 私はお母さんと相楽の顔を交互に見比べた。けど、相楽は私の疑問に答えようとはしなかった。

 ついには焦れて、私は相楽を押し退けた。倒れ込んでいるお母さんの側に膝を突き、頭を抱える。

「お母さんお母さん! 返事して!」

 何度呼びかけても、返事はなかった。私は胸の奥にふつふつと沸き起こるそれを自覚し、目の端に涙が溜まるのを感じた。

「相楽……お母さんが!」

「安心しろ。無事だ。ただ眠っているだけだ」

「眠っている……? どうしてそんなことがわかるの?」

「俺はこの地元の人間だ。毒へびに噛まれたとか、そういう症状は見たらわかる」

「……ほんと?」

「ああ、だから安心しろ」

 相楽の言い方は、ひどくぞんざいだった。でも、それがかえって、私を落ち着けてくれる要因になったのは確かだ。

「よかったぁ……」

「ま、とはいえいつまでもここにいるのは得策じゃあないのは確かだな。さっさと出るぞ」

「う、うん……よいしょ」

 私はお母さんを背中に背負って、来た道を戻ろうとした。

 けど、来た道がわからず、困惑する。

「……えーと、どっちから来たんだっけ?」

「こっちだ。着いて来い」

 相楽が言って、私を先導する。今度は来た時のように勝手に進んだりせず、私に合わせてゆっくり歩いてくれた。案外気遣いとかできるんだと感心してしまう。

 それでも、気を失った大人一人担いで歩くのは、私のような体力のない人間には至難の業だが。

 たっぷりと、たぶん入った時の倍以上の時間をかけて林から抜ける。

 私はがっくりと地面に崩れ落ち、額を流れる汗をどうにか拭う。

「はあはあ……ぐぅ」

「だらしがないな。あのくらいでへたれるなんざ」

「だ、だったらあんたがおぶってくれてもよかったでしょ」

「そのつもりだったんだがな。おまえが勝手に背負ったんだろ。ま、自業自得とはこのことだな」

 相変わらず、憎たらしい言い方だ。

 私は力なく、相楽を睨みつけた。けど、それ以上の暴言を吐く気はなかった。

 こいつのお陰で、こうしてお母さんは見つけられたんだから。そのへんは感謝しないと。

「……まあとりあえず、ありがとうと言っておく」

「ふん、別にいらない。何だったら金をくれって話だ。そっちの方が感謝されるよりよほどいい」

「他人が……せっかく言ってやってるのに」

「それより、一応念のため病院に連れて行くことだな。連絡手段はあるか?」

「……これでお父さんに連絡する」

「あっそ。じゃあ俺はこれで帰るから。ま、今度からは精々気をつけることだな」

 相楽はにこりともせず、私を嘲笑するでもなく、何の未練もなさそうに振り返った。

 そのまま、どこぞへと姿を消す。どこぞとは言っても、自分の家だろうけど。

 その後、お父さんに連絡をした。お父さんはすぐに駆けつけてくれて、お母さんは病院に行ったが何事もなかったようだ。

 まあそのまま一週間は検査入院という運びになったのだが。

 

                       ◆

 

 翌日。私は相楽の姿を探してきょろきょろしていた。

 鞄の中には、私が昨日作ったクッキーが入っている。

 ……まあ一応、お礼のつもり。昨日ありがとうとは言ったけど、改めて。

「天ちゃん、どうしたの?」

「あっ、冴羽くん。ちょうどよかった」

 後ろから冴羽くんに声をかけられ、私はなんだか助かったような気分になった。

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」

「ん? うん、いいよ。何?」

「あーっと……相楽、くん知らない?」

「相楽……」

 相楽の名前を出したとたん、冴羽くんの表情が曇った。

 まああいつは嫌われ者だし、仕方のなことだけど。それにしても、冴羽くんまでこんな顔をさせるなんて、ほんとに何をしたんだか、あいつは。

「あー……天ちゃん、相楽を探しているの?」

「ん、まあね。ちょっと昨日、お世話になって。お礼言っとこうと思って」

「そうなんだ。大事だよね、お礼」

「ま、日本人としては当然だよね」

 あくまでそれ以上でも以下でもないということを言外に伝える。そうしないと、もしかすると私まで迫害の対象になり得る可能性があるからだ。

 果たして、私の作戦が功を奏したのか、冴羽くんの顔色が元に戻る。

「相楽なら、今日は休みだと思うよ」

「え? どうして?」

 まさか、昨日の一件で変な病気にかかったとかじゃないよね?

「何でも、昨日私有地に入り込んで遊んでいたらしいから。三日間の近親だってさ」

「あ、ああ……なんだ、そうなんだ」

 毒へびに噛まれたとかじゃなくてホッとする。

「そう……だから安心していいよ」

「安心……うん、わかった」

 それ以降、私と冴羽くんの間で相楽の話題が出ることはなかった。

 他愛のない、取るに足らない世間話が続く。

 昨日何してたとか趣味の話とか。夜ふかしして眠たいとか、そんなくだらないこと。

 くだらないことを言い合うのが、楽しかった。普通だなと感じた。

 ああ、これが幸せなんだなと実感できるほど、人生経験を積んでいる訳じゃあないけど。でも、なんとなくわかる。こういうのを幸せと呼ぶんだってことは。

 そのくらい心地のいい朝だった。こんな朝を、私は毎日感じている。

 家族や友達や……近所の人と一緒に。

 あいつは、どうなんだろう。あいつはこんな実感の伴わない、ただ心地いいだけの幸せを感じたことはあるのだろうか。

 わからない。

 ほどなくして、冴羽くんと別れる。クッキーは、あとで渡そう。

 鞄の中に直したそれを頭の中に思い浮かべて、ほんの少し浮かれる。

 相楽はきっと、喜んでくれるだろうと。そう思って。

 一時間目は、体育だ。男女は別で。

 

                      ◆

 

「はぁ……相楽くんの家の住所、ですかぁ?」

 私が相楽の家の住所を訊ねると、畑山先生は不思議そうな顔をした。

 まあそれはそうだろう。相楽の現状を知っている身としては、当然の反応だ。教師としてはあまりそのへんは表に出せないだろうから、大変だなと思う。

 教えてくれるだろうか。不安だ。

「いいですよぉ、ちょっと待ってくださいねー」

「ずいぶんあっさりですね」

「彼には友達が少ないですからねー。こうして家を訪ねたいと言ってくれる生徒は希なんですよー。だからちょっと嬉しくなっちゃうなぁ」

 ああ、そうですか。

 おそらく、私は畑山先生の期待には答えられないだろう。私は、彼とは友達にはなれないだろうから。

 そしてそれは、きっと相楽だって同じことだ。相楽も私と友達になるつもりなんて毛頭ないはずだから。

「できましたぁー」

 畑山先生がサラサラーッと相楽の住所を書いてくれた。たぶん私がもともといた学校じゃあこんなことは絶対にありえないことだ。

 私は相楽の家の住所が書かれたメモを受け取り、職員室を出た。

 そのメモを眺めつつ、考える。

 今から相楽の家に行く。その目的はお礼のクッキーを渡すことだ。

 それ以上でも以下でもない。無理に関わるつもりもない。

 かといって毛嫌いする理由もまた、私にはないのも事実だ。そのあたりは困った。

 クラスメイトや同級生と同じように、相楽を嫌えるだけの理由があったなら、それほど難しくはなかっただろう。

「……さてと、行きますか」

 私は鞄を肩にかけ直して、昇降口へと向かう。

 上履きから外履きに履き替えて、校門へと足を向ける。と、何やら人影が私に手を振っていた。

「おーい、春野さん」

「ああ、真野さん。どうしたの?」

「何でもないんけど、一緒に帰らない?」

「……あー、私これから行くところがあるから」

「行くところ?」

 真野さんは瞳をぱちくりさせ、首を傾げる。まあそれはそうだろう。私だってそうだ。

 まさか自分たちが嫌っていると思っている相手の家に行くなんて想像もしないだろう。

「私もついて行っていいかしら?」

 だから、この発言にも深い意味はない。ただ思ったことを行っただけ。

 ここで、私はがだめと言ったらそんな顔をするだろう。

 悲しい顔? 驚いた顔? 憤慨した顔?

 どれも正しい気がする。どんな顔をされたところで、私は驚かない自信がある。

 なぜなら、どっちを選んでもそう違った未来にはならないからだ。

 だから、私は全く別の案を採用する。

「お婆ちゃんのところ。ちょっと具合が悪いんだって」

「あら、そうなの。遠いのかしら?」

「ううん。そんなには。電車で二駅くらい」

「そう……なんだ。ごめんなさい。だったら今回は遠慮するわ」

「うん、ごめんね」

「いいのよ、またの機会に一緒に帰りましょ」

「うん」

 私と真野さんは手を振り合い、それぞれ違った道を歩き出す。

 真野さんは自分の家へと向かって。私は相楽の家を目指して。

 振り返ると、もう真野さんの姿は見えなかった。

 ちくりと胸が痛いんだ。友達に対して嘘を吐いた罪悪感からだろうか。そうだといいなぁと思いつつ、再び歩き出す。

 私にも、罪悪感なんて感じる心があったんだなぁとしみじみする。

 再び、メモへと目を落とす。ここから歩いて十五分くらいの場所だ。

 私はメモを丁寧に折りたたみ、制服の胸のポッケへとしまった。

 鞄を持ち直し、相楽の家を目指す。

 

                       ◆

 

「…………」

 相楽の家は、案外綺麗だった。もっとこう、ごみ屋敷的な有様を想像していただけに、若干がっかりする。

 ま、いいんだけどね。汚いより綺麗な方がいいし。

 私は腑に落ちない部分を感じつつ、インターホンを押した。

 ピンポーンッと定番の音が鳴る。鳴って……全然人が出て来ない。

 ちょっと待ってくださーい、とも声がかからない。

「留守……なのかな?」

 でも相楽は三日間自宅謹慎のはずだから、ご両親がいなかったとしても相楽はいるはずだ。つーことは、だ。

「居留守だな」

 確定。

 ピンポンピンポンピンポンピンポンッと連続でインターホンを鳴らし続ける。

 どれくらいそうしていただろうか。そろそろ諦めようとした、その矢先だった。

「うっせーよ! 居留守使ってるのがからないのかよ!」

 怒鳴り声とともに、相楽が出て来た。やった、作戦成功だ。

「よっ」

「……なんでおまえがここにいる?」

「畑山先生から住所聞いて来た」

「……あの野郎……常識がないのかよ」

 相楽はチッと舌打ちすると、扉を締めようとした。ので、私はとっさにそれを阻止した。

「な、何するんだ離せ!」

「離さない。ちょっとでいいから上がらせてよ」

「なんでだよ! 意味わかんねーんだけど!」

「いいから上げろって。悪いようにはしないから」

「なんだよ悪いようにはしないって。こえーんだよ、おまえ!」

 私と相楽との間で格闘が続く。この光景、近所の人に見られたらすごく恥ずかしいけど、今は我慢だ。

 そうやって私たちが必死に死闘を繰り広げていると、ドアノブを握る相楽の手から力が抜けた。お陰で私は勢い余って半歩後ろへ下がり、転びそうになる。

「おい」

 転びそうになって、転ばなかった。

 相楽が私の手を掴んでくれたから。私はそれを支えにして、何とか耐える。

「……大丈夫か?」

「うん……ありがとう」

 いや、つーかこいつが変に抵抗しなかったら起こらなかった事態なんだけどな。

 しかし、これはチャンスだ。

「じゃ、お邪魔しまーす」

「おい、この野郎」

「野郎じゃねーよ」

 私は相楽の隙を突いて家の中に上がり込んだ。

 相楽は何だかすごく嫌そうだったけど、そんなの関係ねぇ。

「……お父さんかお母さんいないの?」

「二人とも仕事中だ」

「ふーん?」

 キッチンやリビングを覗き込んで、人影がないことに驚く。

 私の家は、普段はお父さんもお母さんも家にいるため、どんな時でも一人になるということがない。

「寂しくないの?」

「……小さい頃からずっとだからな。これが当たり前だ」

「私だったら寂しくて泣いちゃうだろうな」

「あっそ。というか、帰れよ」

「そだ、これ」

 本日の来訪の目的を思い出して、私は鞄の中からクッキーを取り出した。

「何だ? ……板か?」

「板じゃねーよ。……一応手作りクッキーってことで」

「はぁ? なんで俺に」

「……この前、お母さんを見つけてくれた時のお礼がまだだったでしょ」

「ああ、なるほど。いらねーんだけど」

 相楽は指の間にクッキーの包を挟んで、ぷらぷらさせる。彼の表情は、本気で迷惑そうだった。

「むっ……だったら返してよ」

「くれると言うんだったらもらっておいてやる」

「くそ、何その腹の立つの言い方」

「……お茶くらいなら出そう」

 相楽はキッチンへと行き、お湯を沸かし始める。

 私はぽかーんとその場に立ち尽くしていた。

「何しているんだ? 座ってろ」

「う、うん……」

 相楽に言われるまま、リビングのソファに腰かける。何だか、ひどく落ち着かない。

 少しして、暖かいお茶とお茶菓子を持って相楽が私の前にくる。

 相楽はお盆をテーブルの上に置くと、どっかと床の上に腰を下ろした。

「それ飲んだらさっさと帰れよ」

「うん……」

 私は差し出されたお茶を一口すすって、お茶菓子を一つ、口の中に放り込む。

 それから、視線を彷徨わせる。

 相楽の家のリビングは実にシンプルだ。私の家と違って調度品が少なく、家電もテレビなどの必要最低限しかなかった。オーディオ機器などは、全く見当たらない。音楽聞かないのかな?

「……ねぇ相楽」

「何だ? つまらないことを言ったら叩き出す」

「あの落書きってさ……相楽がやったの?」

「……俺には何の話をしているのかさっぱりだが、一応違うと言っておく。どうせ信じやしないだろうがな」

 相楽はクール振って、つまらなさそうにそう吐き捨てた。

 彼の横顔は、どこか寂しそうだと感じたのは私の気のせいだったのだろうか。

「だったらもうちょっとちゃんと違うって言った方がいいんじゃない?」

「別にいいさ。俺のせいにしておいてあいつらの気が休まるのなら、それで」

「いいわけないよ!」

 がしゃん、と湯呑を思い切りテーブルに叩きつける。その際、中身が少し溢れて熱かった。

「……ったく、何なんだよ、おまえは」

 相楽は立ち上がって、テッシュを貸してくれた。

 私はそれで手元を拭きつつ、思ったことを語る。

「みんなさ、相楽のこと嫌ってるみたいだった。でも、私は相楽がそんなに悪い奴には見えないんだ。みんなが言うほど、嫌いにはなれない」

「……そいつはどうも」

 相楽が一瞬、驚いたように目を見開く。それから、照れたのか視線を逸らした。

「そんなことを言われたのは……始めてだ」

「だろうね。だからこそ、ちゃんと違うって言うべきだよ。みんな、相楽のせいだと思い込んでるから……」

「言っただろ。それであいつらが幸せならそれでいい。別に俺は誰かと交わりたいなんて思ってねーしな」

「そんな……」

 どうして、そんな寂しいことを言うの? 悲しい、辛いことを平然とした顔で。

 私は胸の奥がぎゅーっと締め付けられるような感覚に、息苦しくなった。

 このまま、何か見えない手で心臓を握り潰されてしまうのではないかと不安になる。

「おまえも俺の家に来たと知れたらどんな顔をされるかわかったものじゃない。精々黙っていることだな」

「そんな……私は」

 私まで、そんなふうに相楽を避けるようなことはしたくない。相楽はいい奴だ。それは間違いようがなく、私の中では相楽は既にそうなっている。

 私はどうしたらいいのかわらず、困惑する。

「……相楽は、それでいいの?」

 わからなかったから、つい意地悪な質問をしてしまう。

 相楽はきっと、自分から望んで今の立場になったんじゃない。何か、仕方のない事情があったに違いない。

 その事情を知ることができたなら、私はたぶん、今後も相楽の味方でいられると思う。

 だから、教えて欲しい。一体、相楽やみんなに何があったのか。

「……もういいだろ、帰れよ」

 相楽は立ち上がり、私に背中を向ける。どうやら、教えてはくれないみたいだ。

 それはそうか、と苦笑する。そんなに簡単に教えてくれるようなことだったら今頃、ここまで深刻な事態にはなっていないだろう。

 時間が解決してくれるような、そんな問題じゃないんだ、きっと。

「……わかった」

 私も立ち上がり、玄関まで行く。

 相楽は……見送りには来てくれなかった。

 私はお邪魔しましたも言わず、無言で相楽の家を出た。

 目的は果たした。お礼のクッキーも渡せたし、話をすることもできた。

 なのに、なぜだろう。すごく、胸の奥がもやもやする。

 何か、とてつもないことを見落としているような、そんな気になる。

「……あんたは一体、何がしたいの?」

 相楽の家からちょっと距離を取って、振り返る。

 視線の先に佇む相楽の家は、どこか荒廃したような、寂しげな雰囲気を醸し出していた。

 

                    ◆

 

 校内は騒然としていた。それというのも、私が相楽の家に行ったという噂が広まっていたからだ。

 何? クラスメイトの家に行くのがそんなにおかしい?

 私は何だか腹立たしくて、ギロッと周囲を睨みつける。すると、私の方を見てひそひそと話をしていたクラスメイトの大半が顔を背けた。

「一体何なの……?」

 とんとんとんんとん、と指先で机を叩く。いらいらするなぁ、もう。

「何? 私の顔に何か付いてる?」

「あっ……いや」

 近くにいた男子に声をかける。が、男子は顔を背け、そそくさとその場を離れた。

 ふん、意気地のない奴だ。

 私はその男子が廊下に消えていくのを見届けると、再び不愉快な気持ちを抱えて頬杖を突いた。

「……どうやら、大変なことになったようだね、天ちゃん」

「冴羽くん? ……まさかここまとは思わなかったよ」

「一応、いろんな人から忠告はあったと思うけど?」

「あったあった。でも、ここまで露骨だと逆に感心するね」

「はは、それは何よりだ」

 冴羽くんは愉快そうに肩を揺らした。

「そう言えば冴羽くんはいいの?」

「ん? 何が?」

「その……私とこんなふうに話をして」

「ああ、そのことなら大丈夫。俺は特別なんだ……と、何だか変なのが来たよ」

 冴羽くんに言われて、扉の方を向く。と、ずんずんと肩をいからせてこちらに歩み寄ってくる真野さんの姿があった。

「どういうこと?」

 だん! と机に手を突いて、ずいっと顔を寄せてくる真野さん。

 私は質問の意図が上手く掴めず、思わず顔をしかめた。

「どういう意味?」

「昨日、あいつの家に行ったんだって?」

「……ああ、そのこと」

 私はうんざりして、肩を落とした。

 誰も彼も、そんなことばかり訊く。私としては、いい加減他の話題を提供して欲しいところだ。

「答えて」

「本当だよ。だったら何?」

「何って……散々話をしたじゃない。あいつには近づいちゃだめだって」

「それはみんなと相楽の間に話であって私には関係のないことだよ」

「……春野さん、それは本気で言ってるのかしら?」

 真野さんの眼光が鋭くなる。本当に、何があったんだろう。

「当然だよ。だって、みんなと相楽の間の問題に、私は何の関係もないんだから」

 私はじっと、真野さんの瞳を見つめ返した。

 真野さんはしばらく私を見つめていたが、やがてあきれたように溜息を吐いた。

「……あっそ。わかったわ。なら好きにするといい」

 スッと、真野さんの顔が私から離れる。 

 自分の席にどっかと腰を下ろし、苛立たしげに腕を組んでいた。

 そういう顔をしたいのは私の方だ。全く、訳がわからない。

「大丈夫、天ちゃん?」

「ああ、ええと……うん、大丈夫。そろそろホームルーム始まるよ?」

「ああ、本当だ。じゃあ俺、自分の席に戻るから」

「うん、ありがとう」

 冴羽くんが自分の席へと戻っていく。

 そのタイミングを見計らったかのように、畑山先生が教室に入って来た。

「はぁい、みなさん出欠を取りますよぉー」

 教卓に立ち、生徒名簿を開く畑山先生。一人ずつ名前を呼んでいき、最後の一人になる。

 最後は、相楽だった。先生が相楽の名前を呼ぶ。が、返事が返っていくことはない。

 ちらと背後を振り返る。私の、ちょうど対角線上の席。

「相楽くんは今日はお休みですかー。もう謹慎は終わりのはずなんですけどねー」

 先生が少し残念そうに声を沈ませた。

 畑山先生は知らないのだろうか。このクラスで起きている、異常な事態に。どうなんだろう。何だかおっとりした感じの人だしなぁ。

 先生は出席簿をパタンと閉じて、ニコッとみんなに笑顔を向ける。

「さあ、今日も一日頑張りましょうねー」

 えいえいおー、と畑山先生の合図とともに、クラスの全員がかけ声を出す。

 私は、その様子を横目で静観していた。

 

                     ◆

 

 私が実はとんでもない事情を抱えていたという噂は、ものの見事に消え去っていた。

 かわりに、私と相楽が実は付き合っているのでは? という根も葉もない捏造話が飛び出しているようだが、この際それは無視しておこう。どうでもいいわけではないのだが、今は気にしても仕方のないことだ。

 私は「はぁ」と溜息を吐くと、疲労を感じ、天井を仰ぐ。

「……何だってみんな、くだらいことを気にするんだろ」

「ま、ここの人間にとって、相楽はそういう存在だってことだよ」

「……冴羽くん、いいの? 私なんかと話をしていて」

 ちらと横合いで内緒話をしているクラスメイトを見る。やはりというか、彼らは私と目が合った途端、さっと逸らした。

「いいさ。俺は特別だから」

「特別? それはどういう意味?」

「はは、内緒だよ」

 しーっと、冴羽くんが人差し指を一本立てて、口元に当てる。どうやら、教えてくれるつもりはないらしい。

 なら、強引に聞き出すのは止めておこう。それより今は、現状の打開が最優先だ。

 私は頬杖を突いて、眼前を睨み据える。

 まず、状況の整理だ。

 私は今、クラスの半分以上……はっきり言ってほぼ全員から疎まれている。その原因は相楽にあるのだけど、相楽が嫌われている理由は私にはわからない。

「ああもう、どうしたらいいの?」

「それについては、俺にいい考えがあるんだけど」

「……いい考え?」

「ああ。……ここじゃちょっと話にくいな。少し外へ出よう」

「う、うん……」

 冴羽くんに言われるまま、私は席を立って教室を出た。

 ……殺意に似た何かを感じたけど、気のせいだろう。あまり気にしないでおこう。

 廊下に出て、突き当りを曲がる。階段を昇り、二階の踊り場へ。

「うん、ここでいいだろう」

「……こんな人気のないところに連れて来て一体何の話をするつもり?」

 まさか、変なことされたりしなよね? 冴羽くんに限ってそれはないと思うけど。

 私は胸の奥にもやっとした感覚を感じて、眉間に皺を寄せた。

「それで? 何、いい考えって?」

「それね……実は、縁の協力が必要なんだ」

「縁……真野さんの? でも真野さんは私のことを」

「そう、快く思っていない。だから、縁と天ちゃんを仲直りさせる必要があるんだ」

「仲直りって……そんなことができるの?」

 ただでさえ、真野さんは相楽との一件で私を嫌っている。

 なのに、仲直りなんて……そんなの、方法は一つしかないと思うのだけど。

「ま、難しいだろうね。何せ縁は相楽のことが大嫌いだから」

「真野さんだけじゃないけどね」

「その通り」

 冴羽くんはやれやれといった様子で首を振る。

「俺としては、昔のことなんか忘れて仲よくして欲しいんだ」

「……でも、冴羽くんだってあいつのことが嫌いなんじゃ……?」

「ああ、嫌いだよ。だけど、いつまでも怨みを持っていたところで何も変わらない。時間が解決してくれるようなことじゃないんだよ」

「何が……あったの?」

 冴羽くんは肩をすくめ、苦笑した。

「何が……というほどのことはないよ。ただ……一人、俺たちの友達が死んだんだ」

「死……え?」

 ええと……今、彼は何と言った? 死んだ? 誰が? 俺たちの友達と、確かにそう言った。間違いなく。

「死んだってどういうこと? まさか、その犯人が相楽……」

「いいや、相楽は犯人なんかじゃないよ。というより、あの事件に犯人なんかいないんだ」

「……どういうこと?」

「もっと早くに話すべきだった。そうしていたら、違う展開になっていたと思う」

 冴羽くんは申し訳なさそうに、目を伏せた。

 いや、待って。急にそんなことを言われても、何が何だかわからない。

 私はずきりと頭の奥が痛んだ。こういう深刻そうな話は苦手だ。

 もっと平和的で、何事もなく平穏に暮らしていける。そんな学校生活を望んでいたのに。

 のっけからおかしなことが起こっている。

 私は、一体何に巻き込まれているんだろう?

「よく……わからない。全くわからない。何がどうなっているの? どうして相楽は犯人じゃないのに、あれほど嫌われて、疎まれているの?」

「ま、だろうね。だからそのあたりのことを、これから話すよ」

 冴羽くんはそれまで浮かべていた人のよさそうな笑みを引っ込め、真剣な眼差しで私を見つめてくる。

「昔々、俺たちの間に何があったのか。その全てを……ね」

 

                        ◆

 

 中学二年の春。一人の少女が冴羽くんたちの通う中学校へと転校して来た。

 その子はとても明るくて気さくで、すごく優しかった。

 彼女はすぐにクラスに溶け込んで、人気者になった。

 田舎の学校だ。見目もよくて性格も抜群の美少女が転校して来たというニュースは、瞬く間に学校中に広がった。彼女の在籍するクラスには全校男子生徒が集まり、ちょっとした混乱が起きていた。

 そんな彼女と同じクラスに、冴羽くんと相楽もいた。

「相楽はその時から、あまり人付き合いに興味を示すことはなくなっていた。けど、今ほど毛嫌いされていたわけじゃなかったんだ」

 一人でいることが多かった相楽を、彼女は何かと気にかけていた。そういう、優しいところが人気のあるところだったのかもしれない。

 そう語る冴羽くんはどこか悲しそうで、それを見ている私も何だか妙に胸が痛かった。

「ある日誰もいない校舎裏で相楽とそいつが話をしていたんだ。そこへ偶然、俺が出くわしてしまったんだ」

 当時、冴羽くんはサッカー部だったそうで、その時はたまたま外周から帰って来て水を飲むために水飲み場のある校舎裏に行ったところだったらしい。

「その時、二人は妙に深刻そうな顔をしていてな。……泣いていたよ」

「ま、まさか……その人が?」

「ああ、何を言われたのかまではわからなかったけど。でも、きっと相楽に酷いことを言われたんだと思う」

「まあ……」

 でなかったら、泣いたりなんてしないだろう。一体どんなことを言われたのか、想像もつかないけど。

「そのあと、その……死んじゃったの?」

「いいや。違う」

 私の質問に、冴羽くんははっきりと首を振る。

「それが直接の原因かはわからないんだ。ただ、おそらくは無関係ではないと思うよ」

「え? ええと、その人が死んじゃったからみんな相楽のことが嫌いなんじゃ……?」

「少し違うよ。相楽が嫌われている理由は、彼女の死後の行動だよ」

 神妙な面持ちで、そう言葉を続ける冴羽くん。

 死後の……行動?

「突然、自殺を図ったんだ」

「ッッ! どうして……!」

「まだ、原因はわかっていない。彼女のご両親が話すのを拒んでいるからね」

「……それで、相楽は何を?」

「お通夜や葬式に出席しなかったばかりか、彼女のことなんて最初からいなかったかのように何事もなく生活を再開しだしたんだ」

「? でもそれはそれほど嫌われるようなことなの?」

「俺にはわからない。けど、みんなは相楽のそうした態度が気に入らなかったらしい。そうして今の状態に至る……という訳だ」

 ふぅ……、と冴羽くんが疲れたように吐息した。

 思い出したくもないだろう過去を思い出したのだ。それは、もしかすると途方もない労力かもしれない。

「でも、クラスの中には同じ中学出身じゃない人だっているよね?」

「……たぶん、何となくじゃないかな。平穏無事に学校生活を送るために必要なことだと理解しているんだよ」

「…………」

 なるほど。相楽が嫌われている理由はわからない。けど、何事もなく学校生活を送るために必要な条件の一つとして、相楽に近づかないようにしている訳か。

 ある種の直感めいたものが働いていると、そういうことだ。

 全くくだらない。

 私は「はぁぁぁ」と大きく溜息を吐いた。

「まあ……言いたいことはわかったけど。でも、だからと言って私まで冴羽くんたちの妙な活動に付き合わされることはないと思う」

「それは……まあそうだね。そのあたりは天ちゃんの勝手だ」

「だったら、私はこれから堂々と相楽に接触する。彼がどんな人間なのか、見極める」

「それはいいことだ。きっとクラス中から反感を買うだろうけど、そのあたりは俺が何とかしよう」

「……いいの?」

「もちろん」

 ニコッと、冴羽くんは微笑んだ。

 さっきの話を聞いた後だと、その笑顔がどうしても裏のある腹黒いものに見えてくる。

「……何か、企んでる?」

「まさか。俺は実際、相楽とみんなが仲よくしてくれるのが一番だと思っているよ。だから、天ちゃんにはそのための架け橋になってもらえるだろうと期待しているんだ」

「期待……ねぇ。ま、あまり過大評価はしないでね」

「どうして? 今まで、天ちゃんのようなことを口にした人は誰一人としていなかった。俺を含めてね。しかし天ちゃんは俺たちとは違う。だからこそ期待する。それじゃあだめなのかな?」

「はぁ……なら、まずは差し当たって知りたいことがあるんだけど」

「ん? 何? 俺に答えられることなら何だって答えるよ」

 冴羽くんは両手を大きく広げて、喜んでいた。

 少なくとも表面上は、そう見える。

「そう怖い顔をしなでくれよ。俺は別に、相楽や君のことを貶めるつもりはないよ」

「……そう」

 無意識に、表情が強ばっていたらしい。

 私は冴羽くんから目を逸らすと、ふぅーっと息を吐いた。

「……ま、大体のことはわかったと思う。もう教室に戻ろう。そろそろ授業が始まるよ」

「ああ、そうだね。そうしよう」

 私は冴羽くんに背をむけて、階段を降りる。冴羽くんは私の数歩後ろを着いて来ているようだった。

 さっきの冴羽くんの話を思い出して、私はもう一度奥歯を噛み締めた。

 

                       ◆

 

 授業が始まって二時間。日本史の時間になっても、相楽が教室に姿を現すことはなかった。

 今日はこのまま、サボるつもりなのだろうか。まあ、それはいつものことだから気にしないとして。

 私はちらと後ろを振り返った。

 クラスの半分以上が私を見ていた。……ような気がする。

 私が相楽の家に行ったという噂が広まってからずっと、こんな調子だ。

 私は向けられる敵意に嫌気を感じ、さっと視線を前に向ける。

 一心不乱に板書を写す。そうしていると、授業中は気が紛れた。

「……ああ? 相楽、おまえ今何時だと思ってるんだ?」

 黒板に年代とそれに伴う出来事を書き終え、先生が振り返る。と、しかめ面で教室の後方へと向かって苛立った声を出す。

 私を含めた、教室の全員が振り返る。が、相楽は無反応に一番後ろの窓際の自分の席へと荷物を下ろした。

「……全く」

 先生が呆れた様に目を細めた。私は相楽から視線を外し、再び板書を写していく。

「えー、つまりだ。アレクサンドロス大王が戦った期間というのは……」

 何事もなかったかのように授業は進行し、私たちは黙々とノートを埋めていく。

 それから十分ほどが経ち、ようやく授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。

 先生が軽く挨拶をして、教室から出て行く。

 すると、教室内に一種の弛緩した空気が流れた。

「ふー、やっと終わったー」

「飯だ飯。腹減ったぜ」

「ねー、どこか別の所で食べようよ」

「そうだな。ここじゃちょっと……」

 みんながちらちらと私と相楽を交互に見てくる。何? 感じ悪いなぁ。

 私はあえて、みんなを無視しようと顔を逸らした。と、真野さんと目が合ってしまう。

「……ふん」

 真野さんは私から視線を外し、他のクラスメイトと一緒に教室を出て行った。

 私ははぁと溜息を吐いて、仕方なく一人で購買にでも行こうと立ち上がる。

 そんな私の背中へ、冴羽くんが声をかけてきた。

「天ちゃん、ちょっと待って」

「冴羽くん? ……ええと、何か用?」

「用はないんだけど、購買に行くんでしょ? 俺も一緒に行っていい?」

「それは……いいけど、いいの?」

 彼の背後でひそひそと何事かを話している女子の一団を見つけて、不安になる。

「大丈夫だよ。前にも言ったけど、俺は特別だから」

「特別ってどう特別なの?」

「それは内緒」

 シーッと、冴羽くんが口元にヒ素差し指を当てる。

 内緒……内緒か。だったら仕方がない。その内聞ける機会があるかもしれないし、今はこのままでいいや。

 私は冴羽くんと並んで、一回の購買部へと向かった。

 とはいえ、私たちのクラスからはそう離れてはいない。ものの五分ほどで、すぐにたどり着く距離だ。

 にも関わらず、購買部は他人で溢れていた。

「……すごい人の数だね」

「まあ、内は運動部が多いから」

「それって理由になるの?」

「部活前のおやつ用に買う奴が多いんだよ」

「ふーん? 冴羽くんもそれくらい買うの?」

「中学の頃は割と食べてた方だったかな。今は全然だけど」

「部活してたりしてなかったりの関係でそうなるのか」

「たぶんね」

 そんなことを話していると、ようやく人混みが薄れてきた。

 私と冴羽くんは押し合いへし合いしている列の最後尾に並び、大人しく順番を待つ。

 なんか、ちゃんと買えるか不安になってくるなぁ。

「いやー、ちゃんと買えるか心配になってくるね」

「あっ……私も今、おんなじこと考えてた」

「本当? それはすごいや」

 冴羽くんがニコッと笑う。それは嬉しそうに。

 んん? そんなに嬉しい事だったんだろうか。……そうだったんだろう。まぁ。

「ところで、さ」

「ん? どうしたの、天ちゃん?」

「あー……こんなこと言ったら冴羽くんは嫌かも知れないけど」

「何? 遠慮せずに何でも言って」

「今朝、話してくれたことについてなんだけど」

「あー、あれね」

 冴羽くんが苦い顔をする。そりゃあそうだよね。あれだって本当は話したくないことだったんだろうし。

 私のことを考えて話してくれたことを、蒸し返す様なことして。面倒な奴と思われても当然だ。

 けど、それでも訊かないといけない様な気がしたから、訊く。

「どんな事情があったのか、私にはわからないけど。それでも今の状況は間違っていると思う。……だから、ええと」

 上手く言葉が出て来ない。だから、何だ? 間違っていると伝えて、私は一体何が言いたいんだ? 何を伝えたいんだ?

「だから……その」

「わかるよ」

 列が一つ、前に進んだ。

 それに合わせる様に、冴羽くんが言葉を続ける。

「俺だって、いつまでもこのままというのは嫌だ。何とかしたいとは思うけど、どうにもならないんだよね、これが」

「……ま、難しいかもね」

 それまでずっとそうだったものを、いきなり変えるのは至難の業だ。

 それが例え、暗黙のルールだったとしても。

「だから、正直天ちゃんが転校して来てくれて助かったと思ってるよ」

「私? どうして?」

「だって天ちゃんは俺たちの事情を知らない、それでいて俺たちのルールにも全く縛られない人だからさ。何かしら変えてくれるんじゃないかと思ってるんだ」

「つまり、私頼りってこと?」

「ははは、まあそんなところです」

 冴羽くんが照れた様に笑う。頬を掻き、たははと。

「……それで? 私に一体何をさせたいの?」

「その言い方は人聞きが悪いんじゃないだろうか。別に俺は天ちゃんにああしろこうしろと言うつもりはないよ」

「? でも、冴羽くんの目的は」

「そう。みんな仲よく。だからと言って無理矢理にそうしたって意味がないし、長続きしないのは目に見えてるからね。俺が天ちゃんに期待しているのは、なんとなくでいいからそういう流れを作ってくれないかということだよ」

「流れ……と言われても、一体何をしたらいいやら」

「何もしないたっていいさ。ただ、天ちゃんの思うように行動してくれたらそれでいいと思うよ。たぶん、それが一番だから。……おっと、俺たちの番だね」

 そんな話をしていると、いつの間にか列に並んでいた人数が半数近く姿を消していた。

 私と冴羽くんは購買のおばちゃんの前に進み出て、それぞれ注文を口にする。

「はいよ。そっちのお兄ちゃんが焼きそばパンとカレーパンだね。お嬢ちゃんはクリームパンとコーヒー牛乳が一つずつと。全部で六百二十円だよ」

「はい。千円からお願いします」

「じゃお釣りは三百八十円ね。まいど」

 おばちゃんからお釣りを受け取って、冴羽くんが列を離れる。

 私も彼に続いて、列を離れた。

「お金、払うよ」

「いいよ。俺の分買うついでだったし」

「でも……」

「ふむ……じゃあ一つ、お願いしていいかな?」

「何?」

「ま、大したお願いじゃあないよ。……ただ、縁と仲直りして欲しいと思ってね」

「……えーと、それは」

 思ってね、と言われても困る。

 なぜなら、真野さんとはケンカをしているわけじゃないからだ。ケンカをしているのだったら、そりゃあ仲直りの余地もあるだろう。けど、私と真野さんはそうじゃない。

 真野さんが一方的に私を嫌っている状態なのだ。往々の原因は相楽だけど。

「私には無理」

「うーん、それは困ったな。今度の改革にはぜひとも彼女の力が必要なんだけど」

 冴羽くんは困ったとばかりに唸り、腕を組む。

 私はそんな彼をじっと見つめて、はぁと溜息を吐いた。

「わかったよ。善処はしてみるけど」

「本当? それは助かるなぁ」

「助かる?」

「ああ、いや。何でもないよ」

 冴羽くんがわたわたと手を振る。なんだか妙に怪しい気がするけど、気のせいかな?

 私が首を捻っていると、冴羽くんはさっさと教室へと戻って行く。

「どうしたの? 早く戻ろう」

「……私、今日は一人で食べるから」

「どうして?」

「そんな気分の日もあるよ」

 私は冴羽くんに背を向けて歩き出す。

 どこへ行こうというのは、全然決めていなかった。ただ、一人になりたかった。それだけが、今の私を動かす原動力だった。

 ちらと背後を振り返る。冴羽くんは……当然だけど付いて来てない。

 そのことに、私はホッとした。

 

                      ◆

 

 お昼ご飯をどこで食べるのか、とう差し迫った問題を解決するために、私はむむう、と頭を悩ませていた。

 どこで食べても、一人になれるとは限らない。今は、誰とも交わらずに一人になりたかった。

 ほんと、どこで食べようかな。

 しばらく悩んでいると、足音が聞こえてきた。

 振り返る。……と、相手の驚いたような顔が視界に飛び込んでくる。

「……おまえは」

「相楽? なんでこんなところに」

「…………」

 相楽は無言で振り返り、立ち去ろうとした。

 本当なら、ここで私は彼を見逃すべきだったんだろう。今彼と接触しても、なんらも進展はない。そんなことはわかりきっていたから。

 けど、この時の私はそんなことはしなかった。自分でもなぜ、あんなことをしたのか理解に苦しむ。

 私は彼の背中を呼び止めた。

「待って!」

 けど、彼は立ち止まることなく階段を降りて行く。私は相楽の後を追い、階段を駆け降りた。

 いくら私に体力がなかったとしても、あっという間に追いついた。

 相楽の肩を掴み、立ち止まらせる。

「待てって言ってるでしょ!」

「……なんだよ、一体」

 相楽が鬱陶しそうに私を返り見る。私はどんな言葉を口にするべきか特に考えていなかったので、返答に窮してしまう。

「あの……ええと」

「……何も用がないのなら、話してくれ」

「そ、そういう訳にはいかない!」

「……なんでだよ」

 相楽の呆れたような顔つきに、むっとする。しかし相楽の言うことはもっともだ。

 昼休みの時間は決まっている。何も用がないのにいつまでも引き止める訳にはいかなかった。

 私は仕方なく、相楽から手を離す。相楽は一瞬、私の握っていた肩のあたりを一瞥したが、だからといって何をどうするということもなく、私に背中を向ける。

「……待って」

 立ち去ろうとする相楽を、また止める私。

 私は、一体何がしたいのだろう。自分でもわからなくなる。

 今度は、相楽は振り返らなかった。けど、背中からあふれるオーラだけで、かなり鬱陶しがっていることはわかる。

「い、一緒にお昼を食べない?」

 ついさっきまでの冴羽くんとの会話が頭の片隅に残っていたのだろう。私はとっさに、そう口にした。

 自分でもびっくりだった。まさか、私が男子相手にこんなことを言う日が来るなんて。

 まさに恋する乙女だ。相楽のことは全然好きじゃないけど。

 それでも、返事を待つ間はどきどきする。転校初日の頃とは別種の心臓の鼓動の高鳴りを感じて、私は緊張した。

 じっとりと手の平の汗が滲んだ。すごく、不快だった。

「その……嫌、だったら全然いいんだけど」

 思わず、言葉尻が弱くなる。

 私は相楽から視線を外し、ぎゅっと右肩を抱いた。

 何だろ、この感じ。なんだかすごく変だ。

 私は今までに感じたことのない、形容し難い感覚に戸惑う。

 わかったと言って欲しい。けど、嫌だと言ってくれても構わない。そんな心境だ。

 自分でも矛盾していると思う。変だなって、感じる。

 私が相楽の返答を待っていると、相楽と視線がかち合う。

「……断る」

 一言。そう切り捨てられた。

 コツコツと足音を鳴らして、どこかへと消えて行く相楽。

 私は残念なような、ホッとしたような不思議な感覚を覚え、その場に崩れ落ちた。

「……はぁー」

 胸の奥に溜まっていた、不快な空気を吐き出す。すると、いくらか気分もよくなったように思う。

 私、一体何を口走っていたんだろう?

 自分の言動が信じれなくて、自分自身を疑う。

 よかった。相楽が乗り気じゃなくて本当によかった。今の状態でわかったと言われたとしても、事態を好転させることなんてできないだろう。

 むしろ、悪化させてしまう可能性の方が大きい。だから、これでよかったんだ。

 私は誰に聞かせる訳でもない言い訳を次から次に考え出し、無理矢理に自分を納得させた。

 納得……というほどのことではないのかもしれない。

 がくがくと震える足を叱咤し、どうにか立ち上がる。

 よかったと思うことがもう一つある。それは、今のこの場に誰もいなかったことだ。

 相楽と会話(になっていたかどうかは定かではないけど)していた状況を見られるのもよくないけど、そんなことより腰を抜かしていた方を見られるのが問題だ。

 私は下駄箱の側面に手を突いて、よろよろと歩き出す。

 どこか、人目に付かない場所でお昼を取りたい。絶対に。

 そう決心し、一人になれる場所を探すのだった。

 

                       ◆

 

 学校と体育館の間にあるわずかな空間で、私は一人お昼を食べていた。

 もちろん、さっき勝ったパンだ。もぐもぐと咀嚼して、コーヒー牛乳で流し込む。

 ごくんと飲み下し、ふうと一息。

「……なんだかなぁ」

 今朝からの出来事を思い返してみる。と、かなーり妙なことになってしまっていた。

 最終的には、相楽と仲よくして欲しいとのお願いまでされる始末だ。

 もう、私には何をどうしたらいいのかわらないよ、本当に。

 はぁ、ともう一度溜息を吐く。クラス内からも孤立して、これから一体どうしたらいいんだろう。

 私は頭の片隅に過ぎったその考えを払拭するために、ぶんぶんと頭を振った。

 ずずずず、とコーヒー牛乳を含み、パンを齧る。

「ほんと、どうしよう」

 私はただ、仲間と一緒にわいわいと楽しい学校生活を送りたかっただけなのに。一体、何がいけなかったんだろうか。

 昼食を食べ終えると、再び暗澹とした気分になる。

 そんなにたくさん食べたつもりはないけど、お腹の底が重く感じる。

「なんだろ。すごく……嫌だ」

 こんなの、私が望んでいた学校生活じゃない。私が望んでいたのは、もっとこう……あたたくて緩やかで。

 とにかく、こんなのじゃない!

 ぎりっ……、と奥歯を噛み締める。クラスで孤立して、友達もできなくて。

 一体、私は何をやっているんだろう。

「……ああ、天ちゃん。こんなところにいたんだ」

「冴羽くん? ……どうしたの?」

「大変なんだ! 教室まで欲しい!」

「?? 何があったの?」

「いいから、早く」

 冴羽くんは私の手を取り、引っ張って行く。

 私は彼に連れて行かれるままに、小走りに教室へと向かった。

 

                     ◆

 

 教室の前には人だかりができていた。

「どいてくれ」

 冴羽くんが人の群れを押し退け、教室内へと足を踏み入れる。

「――――!」

 目の前の光景に、私は自分の目を疑った。

 私たちの前に広がっていたのは、なぎ倒された机や椅子。散乱した教科書やノートの類い。

 そして、血を流して倒れているクラスメイト。

「何が……!」

「……なんだ、おまえか」

 教室の真ん中で静かに佇む相楽が振り返る。

 彼の手元は血でべっとりと汚れ、一体何が起こったのか、その全てを物語っている。

「ま、まさかあんたが……」

「ああ、その通りだ。俺がやった」

 だからなんだ? と言いたそうな相楽の視線。

 とても冷たくて、鋭利なその眼光に見据えられ、私は心の底からぞっとした。

「……おい冴羽、どうしてそいつを連れて来た?」

「彼女なら君を止められると思ったんだ、相楽」

「はぁ? 意味わかんねーんだけど」

 冴羽くんの言葉を、相楽があざ笑う。

 私だって意味がわからない。私なら相楽を止められるなんて。

 どうしたら、そんな結論にたどり着くのか。

「冴羽くん……私には、無理だよ」

 私は冴羽くんの手を強く握った。

 握り返して欲しかった。そうしたら、きっと私は冴羽くんの言う通りに相楽を止めるために手を尽くすだろう。

 けど、冴羽くんが握り返してくることはなかった。それどころか、手に込めた力を弱め、視線だけで私を促してくる。

 早く、相楽の前に出ろ、と。

「え、ええと……」

 私はどうしたらいいのかわらず、周りに視線を向ける。

 が、返ってくるのは期待と焦燥、そして敵意に彩られた感情だけだった。

 私は、すっと冴羽くんから手を離した。かくかくと体が震える。

 じっと、倒れているクラスメイトを見やる。気を失っているのか、ぴくりともせずただ苦しそうに寝息を立てているだけだ。

「なんだ? おまえも俺を悪者にするのか?」

「……なんでこんなことをしたの?」

「はぁ? そりゃあこいつらが……」

「どんな事情があったって、暴力なんてだめだよ!」

「…………あっそ」

 相楽の視線が、私から外れる。

 失望した、とばかりに溜息を吐いた。

「ま、当然の結果か」

「当然の結果? 一体何を言ってるの?」

「ああ、別に気にしないでくれ。こっちの話だ」

 ひらひらと手を振る相楽。

 何を……言いたいのかわからない。

「彼は一体……何を言っているの? ねぇ、冴羽くん!」

「ただの言い逃れだよ。耳を貸す必要はない」

「だけど、俺を悪者にするのかって言ったよ」

「それこそだよ。事情を知らない君を困惑させようとしているんだ」

 冴羽くんが冷たく言い放つ。

 私はどちらの言葉を信じればいいのかわからず、途方に暮れる。

「私……は」

「俺は別におまえたちのことなんて信じいちゃいない。だから、気にすることはない」

 私はもう一度、周囲を見回した。

 けど、私の味方になってくれそうな人はおろか、この場限りの助け船を出してくれる人もいない。

 私はあたふたと右に左に視線を飛ばすだけだった。

 全く状況は改善しない。それどころか、余計に悪化しそうな雰囲気さえあった。

 具体的には相楽と冴羽くん。この二人のお陰で。

「それで? おまえたちは一体何がしたいんだ?」

 ぎろりと相楽が私を睨みつける。私だけじゃなくて、冴羽くんや他のみんなも。

 みんなはそんな相楽を恐れたのか、一歩たじろいだ。唯一、冴羽くんだけが前に出る。

「天ちゃんの言う通り、どんな理由があれ暴力はだめだ。みんなに誤ってくれ」

「謝る? どうして俺が?」

「どうしてって……それがわからないほどバカじゃないだろう、君は」

「……前々から思っていたが、おまえは詰めが甘いよな」

「何を……」

「こっちの話だ。それで、なんだって?」

「だから、みんなに謝罪をしてくれ」

 冴羽くんが語調を強めて相楽に詰め寄る。

 相楽はふぅと疲れた様に吐息すると、やれやれといった様子で首を振った。

「この状況でよくそんなことが言えるな」

「それはこっちのせりふだ」

 誰かが野次を飛ばす。と、相楽がそちらを睨んだ。

 途端に静かになった。意気地のないことだ。

「ほら、天ちゃんも何か言ってやって」

「わ、私は……」

 何と言えばいいのだろうか。全く思い浮かばない。

 誰かに助けて欲しい気分だった。けど、この状況でそれは期待できない。

 私は必死に頭を働かせて、考える。

 この場で、一体何を言えばいいのかを。

「……えーと、様するに私は、ええと」

「……冴羽、そういうのはよくないと思うぞ?」

「相楽、君に言われたくないな」

「ふん、相変わらずいい子ぶりだな」

 相楽が小さく鼻を鳴らす。それに対して、冴羽くんは面白くなさそうに口を結んだ。

「大体、君が悪いんじゃないか!」

「俺? はっ……いいよな、おまえは」

「何が言いたい?」

 相楽は呆れた様に肩をすくめ、ニッと嘲る様に笑んだ。

「何でも俺のせいにしてたらいいんだから、楽だよな?」

「はぁ? 何を言ってるんだ? 俺は何の根拠もなく、君のせいにしたことなんて……」

「ああそうだ。おまえは何の根拠もなく俺を悪者にしたことはない。ただし、いつもそれだけだ」

「どういう……意味だ?」

「いいさ、わからなくたって」

 相楽はすっと私たちの脇を通る。

 私には、一度も目を向けず、教室を出ようとした。

 私が振り返る頃には、相楽の姿は人だかりの向こう側に消えていた。

「相楽……」

 私は、なんだかひどく恥ずかしい気持ちになった。

 相楽を傷つけてしまったのではないかという不安。そして、彼と冴羽くんの間に横たわる私の知る由もない過去の因縁。

 中学校時代に死んでしまったという、彼らの同級生。

 彼女と何かしらの因果関係でもあるのだろうか。

「……冴羽くん、相楽と何があったの?」

「…………」

 黙り込んでしまう冴羽くん。

 おそらく、クラスの半分以上が彼と同じ中学の出身なのだろう。俯き、無言でいるクラスメイトと、戸惑った様に囁き合う人たち。

「こわーい」

「全く……これだからあいつは」

「何を考えているんだかわからないな」

 みんなが口々にそう言い合う。

 私は彼らの言い分を正しいとは思えなかった。

 否、言っている事自体は正しいことなのだろう。

 でも、何かが違うと思った。

「……冴羽くん」

「何、心配する必要はないよ、天ちゃん。俺が着いてる」

 冴羽くんがニコッと笑う。

 おそらく、冴羽くんは私は不安がっていると思ったのだろう。だから、私を安心させるためにあえてそう口にしたのだろう。

 けど違う。私は冴羽くんが思っているほど可憐な少女じゃない。

 ただの……バカだ。

 

                      ◆

 

 騒動の後、相楽は午後の授業を欠席した。

 数学と古文の先生は何も言わなかった。たぶん慣れてるんだ。

 他のみんなも。

 けど、私は違う。

 授業の終わり際、ちらりと背後を振り返る。座るべき人のいない、空席を見る。

 ……帰っちゃったのかな?

 心の中にざわざわとしたものを感じながら、私はそんなことを考えた。

 考えて……どうしようもないことに思い至った。

 どうして、相楽はあんなことをしたんだろう。

 倒された机と椅子。散らばった教科書やノート。

 一時間以上前の出来事を思い出して、頭の中がもやもやする。

 相楽の気持ちがわからなかった。相楽はなんで、暴力に訴える様なことをしたのか。

 あの一場面が、映画のワンシーンの様に思い出される。

 私はあの場しか見ていない。事情を知らなければ、そもそもの原因もわからない。

 あれは、本当に相楽がやったのことなのか。たぶん、それは間違いないと思う。

 でも、もしかしたらやられたからやり返したとか、やられそうだから先にやったとか。そんなことがあったかもしれない。

 もちろん、だからと言って暴力が正当化されるわけじゃあないけど。でも、だったら私の気持ち的にちょっとは楽だ。

 多少は、相楽の味方になってあげられるかもしれない。

 なんて考えが脳裏を過ぎり、ぶんぶんと頭を振る。

 バカバカしい。考えるな。

 私は先生が黒板に書いたことを、一生懸命にノートに取る。

 取って、家に帰って復習して。テストでそこそこの点数を獲得する。

 それが、出鼻をくじいてしまった私ができる、もっとも普通なこと。

 ……なんて考えていると、キーンコーンと終業のチャイムが鳴り響く。

 先生が黒板を軽く消して、荷物をまとめて教室から出て行く。

 そして放課後へ。ホームルームが終わり、クラスメイトたちはぞろぞろと帰路につく。

 昼休みの騒動が相当応えているらしく、誰も残ろうとはしなかった。

 私はじっと、席に座ったままみんなが帰る様子を横目で見ていた。

 冴羽くんが声をかけてくれたけど、私は首を横に振る。少し残念そうに微笑む冴羽くん。その後ろで、私を恨みがましく睨みつける真野さんと目が合った。

 なんだか気まずく感じて、目を逸らす。冴羽くんと手を振り合い、別れた。

 それからは、ただじーっとしていた。何をするでもなく、ぼけっと。

「畑山先生……どうしたんですか?」

「あら、春野さん」

 畑山先生は割と大荷物を抱えて教室に入って来た。

 一体、どうしたんだろ?

「いえ、実は明日の準備をしていまして」

「準備? ……というと、何かあるんですか?」

「何か……というほどことはありませんよ。ただの授業です」

 先生はニコッと微笑むと、荷物を教卓の上に置き、ふぅと小さく吐息した。

「何か手伝いますか?」

「ありがとう。なら、ちょっとお願いします」

「任せてください」

 私は立ち上がると、先生の指示で黒板に字を書いていく。

 何でも、明日開催予定のレクリエーションの準備らしい。

「これ、一人でやるつもりだったんですか?」

「ええ、まあ」

「大変ですね」

「でも、春野さんが手伝ってくれたお陰でだいぶ早く終わりそうです」

「そうですか。それはよかったです」

 先生は少し嬉しそうな声を出した。

 まあ用事が早く終わるのは誰だって嬉しい事なんだろう。私だってそうだ。

「……先生」

「なぁに? 春野さん」

「先生は、なんかこう、大変そうですよね」

「まあそうですねぇ。けど、好きでやってることですからねぇ」

「好きで……先生って仕事がですか?」

「そうですよぉ」

 先生は、本当に心の底から楽しそうに、頷いた。

 弾んだ先生の声が、耳に心地よく響く。

「……春野さん、どうかしたんですかぁ?」

「どう……とは?」

「うーん……上手く言えないんですけどぉ」

 先生はあごに手を添えて、考え込む様に天井を見上げる。

「みんなが笑っていて、楽しそうにしているのを見るの、昔から好きだったんですよ」

「へー、素敵だと思います」

「えへへ、ありがとうございます」

 畑山先生は気恥かしそうに頬を掻いた。

 楽しそうにしているのを、か。

 先生のその言葉を聞いて、私は内心でがっかりしていた。

 確かにみんな楽しそうだ。朝、友達と会って挨拶して。喋ったり騒いだり。

 けど、それはただ表面を見ているだけだ。先生は結局のところ、私たちのことを少しも理解してないない。

 何となく、そう思う。……悪いな、私って。

「でも、何でもそうなんですけど、上手くはいかないものですねぇ」

「は? ええと、それはどういう意味ですか?」

「んー、あまり上手く言えるか自信がないんですけどぉ」

 先生は目を閉じて、むむむ、と唸る。

 私は黒板にチョークを走らせる手を止めて、先生の言葉を待った。

「……ああ、そうだ。みんな、なんだかぎくしゃくしているなーって思うんですよ」

「ぎくしゃく……?」

「ええ。特に相楽くん。彼は色々と問題のある生徒ですからね。浮いちゃうのもわかるんですけど」

 言って、先生は悩ましげに眉根を寄せた。

「なんとかならないものですかねぇ」

「あれは……まあなんともならないと思います」

「……ですよねぇ」

 はふぅ……、と溜息を吐く先生。なんとかしたいのは山々なんだけど、私には無理だ、あれは。

「まあわたしのこといいんですよ。それより春野さん」

「え? なんですか、先生」

「何かお悩みでもあるんですかぁ?」

「は?」

 作業を再開しようとして、手が止まる。

 ついでに思考も。あとなんだか息苦しかった。

「え、ええと……どうして?」

「わたし、教師になってまだそんなに長くないんですけど、最近なんとなくわかる様になってきまして。そんなわたしの勘が言っているんです。春野さんは何かお悩みがあると」

「……えと、なんと言ったらいいか」

「ええ、わかります。色々と考えてしまって、上手く言葉にならないんですよね」

「……先生もそんなことがあったんですか?」

「そりゃあ、わたしだって学生だった時期がありますから」

「はは、それはそうですよね」

 先生だって学生だった頃がある。私と同じ様に学校に通って、誰かのことで思い悩んだ時期があった。

 当然のことだ。人の人生は大まかなところで同じだ。

 生まれて学校に通いそして死ぬまで生きる。

 人の歴史とはそうやって作られてきた。と、そこまで大げさに言うつもりはないが、それでも私は大体の人が似たような人生を送るものだと思う。

 そうして、普通とは作られていくのだと。だからこそ、私は普通がいいと思う。

 これは理屈ではなく感覚の話だから、違うという人もいるだろう。まあそういう人たちを避難したりするつもりは毛頭ない。が、私の意見を違える理由もない。

「これは、私のことですから。先生に相談する様なことじゃ……」

「そうですか。無理にとは言いません。けど、覚えておいてください」

「……何を、ですか?」

「あなたは一人ではありません。同じように春野さん、あなたの幸せを願っているのもまた、一人ではありません。そして何より、あなたがあなた自身の幸せを望まなくてはなりません」

「……生まれた人間には幸福になる義務がある、とかそんな話ですか?」

「いいえ、違います」

 先生は小さく、けどはっきりと首を振った。

「これは願いであり希望であり、そして先生からの命令ですよ」

「命令……ですか」

「ええ、その通りです」

 先生が優しく微笑む。私は、そんな先生の顔を真っ直ぐに見返すことができなかった。

 私は今、どんな顔をしているだろう。私は今、自分自身の幸せ願えているだろうか。

 ぐるぐると頭の中でそんな不安が過ぎる。私は、どうしたらいいんだろう? わからなかった。

「義務なんて大げさなことを言うつもりはありません。ただ、先生は……いいえ、あなたの周囲にいるあなたを大切に思っている人全てを代表して命じます」

 パァッと、周りが明るくなったような気がした。

 窓から入り込む夕日の光に照らされて、先生の顔はよく見えなかった。

 だから、先生がどんな顔をしていたのか、私にはわからない。

 でも、先生の声は楽しげで、そしてどことなくか細い。

「春野天さん。楽しいことをしてください。嬉しいことをしてください。悲しいと思うことも苦しいと思うことも、全てを体験してください。そして――」

 そして――先生はたぶん、ニコッと微笑んだ。言いかけて、言葉を止めたその意味を考える。

 先生の言いたいこと。先生が私に伝えたかったことを。

 どれくらいが経っただろう。五分くらい?

 私と先生は見つめ合ったまま、お互いに無言でいた。

 やがて、先生がゆっくりと口を開く。

「幸せになる、あらゆる努力をしてください。そうしたら、あなたはきっと素敵な女性になれるでしょう。誰にも負けないくらい、素敵な人に」

「……私に、そんなことができるんですか?」

 今も相楽を傷つけて、真野さんやクラスメイトから嫌われている。

 中学時代はそれなりに上手くやっていた。友達や、そうじゃない人と適切な距離を保てていた。

 けど、今は違う。今は……適切な距離感がよくわからなくなっていた。

 私は、一体どうしちゃったんだろう。

 畑山先生は教卓の上にまだ残っていた荷物を下ろすと、私に歩み寄ってくる。

「ふふ、可愛いですね」

「先生……私はまじめに言ってるのに」

「すみません。でも、悩むよりまず行動ですよ」

「そんなの……わかってますよ」

「『何よりもまず、自分に嘘を吐いてはならない』……ですよ」

「なんですか、それ?」

「シェイクスピアの有名な一節ですよ」

 畑山先生は楽しげに微笑んだ。何がそんなにおかしいのかわからなかったが、なんだかその言葉には少しだけ、温かみがあるような気がした。

「自分はどうすればいいのか、あなたはよくわかっているはずです。なら、あとは行動するのみ。……ですよね?」

「……はい!」

「いいお返事です。では作業を再開しましょうか」

 畑山先生は荷物を持って、教室の後ろの方へと行く。

 私は先生の後ろ姿を少しの間見つめていた。そうしてから、黒板に向き直る。

「『自分に嘘を吐いてはならない』……か」

 その通りだ。私は自分に嘘を吐いていたのだ。

 だから、弱気になる。嘘なんて、なれないことをしたものだから。

 よーし、明日から私はいつも通りの私に戻ろう。

 

                       ◆

 

 翌日、まず私が行ったことは朝の挨拶だった。

「おはよー、冴羽くん」

「ああ、おはよう天ちゃん。どうしたの? なんだか今日は元気だね」

「何言ってるの? 私はいつだって元気だよ?」

「あはは、そうなんだ」

 冴羽くんを笑い飛ばし、くるくると小躍りしながら教室に入る。

 自分の席に荷物を置くと、今度は真野さんのとこへと向かった。

「おはよう、真野さん」

「……何? 私に何か用かしかしら?」

「ううん。全然用はないよ。ただ、ちょっとお話がしたくて」

「話? ……別段あなたと話す用事はないわ」

「まあまあ、そう言わずに」

「……勝手に目の前に座らないでもらえるかしら」

 私は真野さんの言い分をスルーして、目の前の席に座った。

 真野さんは若干鬱陶しそうにしていたが、気にしない気にしない。

「ねえ真野さん」

「気安く呼ばないで」

「じゃあ縁ちゃん」

「どうしてそれならいいと思ったのかしら? バカなの?」

「ゆかりん」

「やめて、それ」

 はぁぁ、と真野さんが深く溜息を吐く。

「はっきり言ってあげる。私はあなたのことが嫌いよ。だから金輪際、私に話しかけたりしないで」

「ええー! 私は別に嫌いじゃないんだけどな、真野さんのこと」

「私が嫌いだって言ってるの! あなたの意見なんてどうだっていいわ!」

 ガタンッ! と椅子から立ち上がり、声高に叫ぶ真野さん。

 私はそんな彼女の瞳を、まっすぐに見据えた。

「うっ……何よ、その目は」

「何でもいいと思うよ。ただ、私は真野さんと仲よくなりたいと思ってる」

「……ふん、別に私はそんなことを思ってなんてないわ」

 真野さんがそっぽを向く。と、横合いから冴羽くんが口を挟んできた。

「縁、別に話くらい聞いてあげてもいいんじゃないかな?」

「なっ! 舜はこいつの肩を持つの!」

「肩を持つとか持たないとか、そういう話じゃなくて……」

 冴羽くんが困った様に笑って、頬を掻いた。

 真野さんはぐぬぬ、と考え込む様に眉間に皺を寄せていた。が、やがてダンッと一度机を叩くと、ぎろっと私を睨みつけてきた。

「いいわ。今日の放課後に話をしましょう」

「ありがとう、真野さん」

「勘違いしないで欲しいわ。私は舜に頼まれたから話を聞くのであって、断じてあなたのためではないわ。そのへんはわきまえておいてね」

「わかってる。それでも嬉しい」

 心からの言葉を言ったつもりだった。

 けど、真野さんには届かなかったらしく、すとんと椅子に座り直した。

 窓の方を向き、私を見ない。

 仕方がないか。昨日今日でどうにかなることじゃないし。

「……ありがとね、冴羽くん」

「気にしないで。俺だって二人が仲よくしていた方がうれしいからね」

 冴羽くんにお礼を言って、私も自分の席へと戻った。

 ちらっと、相楽の席を振り返ってから。

 相変わらず、主のいない席は空っぽだった。

 

                     ◆

 

 そして放課後。私と真野さんは約束通り、誰もいなくなった教室で互いに見つめ合っていた。

「……で?」

「で? とは?」

「何か用があったんでしょ? 手短に済ませて欲しいわ」

「ああ、だったらまあ簡単だよ」

 私はニコッと、意識して笑って見せた。そうすることで、少しでも真野さんの心を解きほぐすことができたらいいと考えたのだ。

 効果は……薄かったみたいだけど。

「何? まさか、変なことをお願いするつもりじゃないでしょうね?」

「変なことって?」

「知らないわよ。私に想像すらできないような、とんでもなくキテレツなことよ」

 真野さんは肩をすくめ、苛立った様に息を吐いた。

 私は彼女の言っていることの意味がいまいちよくわからず、困惑してしまう。

「ええと、変なことかどうかはわからないけど、お願いっていうのは間違ってないかな」

「へぇ……私に一体何をさせようと言うのかしら?」

「まあそう大変なことじゃないよ。……ただ、私と仲直りをして欲しいんだ」

「仲直り?」

 ぴくりと真野さんの眉が動いた。

 そこにどんな感情が込められているのか、私には想像すらできなかった。が、たぶんあまりいい感情ではないのだろう。

「……つまりそれは、あの男とは縁を切るということかしら?」

「それは……ないと思う」

「はぁ? 何それ、話にならないわね」

 真野さんは吐き捨てる様にそう言って、教室を出て行こうとする。

 私はその後ろ姿に、はっきりと宣言した。

「私は……彼をクラスの仲間にするよ!」

 ぴたりと真野さんの足が止まる。一瞬どす黒いオーラが彼女から出た様な気がしたけど、すぐに消え失せた。

 すぅーはぁー、と大きく深呼吸をする真野さん。

 ゆっくりと、こちらを振り返る。

「ひっ……!」

 私の方を見た真野さんの表情を目の当たりにして、私は思わずのどを詰まらせた。

 なぜなら、彼女の表情は鬼か悪魔かというくらい、禍々しく歪められていたからだ。

「……今、なんて言った?」

「え、ええと」

「なんて言ったって聞いてるのよ」

「さ、相楽を……ちゃんとしたクラスの一員にすると言いました、はい」

「何、それ……?」

 真野さんの殺気を含んだ眼光に射すくめられ、私は肩を縮こまらせる。

 ええ、何これ。私そんなにおかしなこと言った?

 どう言い繕ったものだろうと思案していると、真野さんがずんずんと詰め寄ってくる。

 がっしと私の胸倉を掴んできた。私は恐ろしくて、泣いてしまいそうだった。

「何を考えているの? バカなの?」

「え、ええ……いや、私はただ……」

「ただじゃないわ、そんなことは私が許さない……!」

 なんだろう、もう本気で視線だけで人を殺せるのではないかと思ってしまうほど、真野さんは超怖かった。

 そこまで嫌いなの、相楽のこと。

 しかし中学時代の話を冴羽くんから聞いていただけに、真野さんのこの行動を避難することは私にはできなかった。手を離して、くらいなものだ。

 人気者の死に相楽が関わっていた。だったら、この行動と怒りに対しても納得がいく。

「……勝手にするといいわ。でも、あなたの考えはきっとうまくいかない」

「……だろうね」

 それは真野さんが私を邪魔するからとか、そんな理由からではなく、相楽の行動自体に起因するものだ。

 仕方のないことなのだろうと思う。

「私は、真野さんに協力して欲しいと思ってるよ」

「……意味がわからないわ。私が協力? どうしてそんなことをしなくてはならないの?」

 真野さんが不愉快だと言う様に眉根を寄せる。

 私はなんと言ったらいいか思い浮かばず、困惑した。

 どんな言葉も、彼女を説得する上では何の役にも立たないだろうからだ。

 だから、あれこれと曲がりくねった言い方をするのはよくないだろう。私なりの、心からの言葉を告げるのが一番だ。

 すぅーっと大きく息を吐く。一度目を閉じ、手の平を胸に当てる。

 たぶん、これを言ったら真野さんは怒るだろう。もしかしたら、殴られるかもしれない。

 それくらい、私が今から言おうとしていることは彼女にとってひどいことだ。それはわかっている。

 わかってはいる。けど、言わないわけにはいかない。

 なぜなら、このことはこれからの相楽の学校生活。ひいては真野さん自身にも関わってくることだろうからだ。

「私は、みんなが仲よくしていて欲しいと思う」

「……だったら今のままでいいんじゃないの? みんな仲よし」

「それは……そうなんだろうけど。でも私は今の状態は嫌だ」

「嫌? どうして? あいつを一人仲間外れにしてるのが気に入らないのかしら?」

「……どうなんだろう。たぶんそうだと思うけど、違うとも思う」

「はぁ……」

 真野さんはさっきまでの怒りが嘘だったかの様に、毒気を抜かれたような顔をしている。

 きっと、私の言ったことが理解できなかったんだろう。

「……春野さん、あなたは私たちとあいつの間にあったことを何も知らないから、平然とそんなことが言えるのよ」

「それは……」

 知ってる……とは言えなかった。

 もちろん、冴羽くんから聞いて知ってはいた。けど、実際にその場にいた人の、仲がよかったであろう人の気持ちを完全に理解するなんて不可能な話だ。

 そういう自惚れは、しないことにしている。

「昔、あいつは私の大切な人を殺したのよ」

「……殺した」

 冴羽くんの話では、犯人と呼べるような人はいないということだった。

 中学時代の転校生。彼女が死んだのはただの偶然で、全く疑いようもなく事故だったのだと。だから、相楽を恨んだりするのは筋違いというものだ。

 きっと、たぶんおそらく、そんなこと真野さんはわかっている。わかっていて、それでもどうにもならない感情から相楽のことを憎んでいるんだろう。

「……憎んでいても、どうしようもないよ?」

「…………わかってるわよ、そんなこと。だけど、許せるはずがないじゃない」

「それは……そうだけど」

 わかったような口ならいくらでも利ける。けど、実際にその悲しみを負った人を慰める手段を私は持っていなかった。

「あいつの……相楽のせいで由梨は死んだ」

「由梨……って中学時代の?」

「そうよ。由梨は私の親友だった。何でも悩みを打ち明けられる友達だったのよ」

 真野さんの目元に涙が浮かぶ。声が震え、今にも崩れ落ちてしまいそうなくらい弱々しくなっていく。

 私はそんな真野さんに対して、何も言えなかった。

「何? 黙っちゃって。何か言いなさいよ」

「え、ええと……」

 一体なんと言ったらいいのか、私にはわからなかった。

 真野さんはぎゅっと拳を握り、何かに耐えるように口元を真一文字に結んでいた。

 その表情があまりに辛そうで、私は自分がしでかしたことに対して後悔する。

 言わなかったらよかったな、と。

「な、なんて言ったらいいかわからないけど」

「何、今さら。なんと言われたところで、私の気持ちはかわらないわ」

「それはそうなんだろうけど、えっと……」

 空中に視線を走らせ、必死に言葉を探す。

 どんな言葉も真野さんには届かない。そうとわかってはいても私には伝えたいことがあった。

「えーと……そうだ!」

「何? 最高の殺し文句でも思いついたわけ?」

「そんなんじゃないけど……ただ一つだけ」

「……何よ」

 じとーっと、真野さんが私を見てくる。私は真っ直ぐに彼女に応じた。

「私は、真野さんと相楽の間に何があったのか知らない。でも、やるよ。真野さんや他の人がなんて言うか、大体の予想はつくけど」

「だったらやめた方がいいんじゃない? これは最後の中告よ」

 真野さんの真剣な眼差しが私を射抜く。私は一瞬それにとらわれて、絡め取られそうになった。

 けど、ぐっと踏みとどまる。しっかりと床に足をつけ、ぐらつきそうになる心を支える。

「絶対に……絶対にやり遂げてみせるよ」

「……そっ。それじゃあ頑張るといいわ。ま、無駄なでしょうけど」

「いくら真野さんたちが拒絶したって……」

「それもそうだけど、そういうことではないわ」

「えっ……?」

 それは……どういう意味だろうか。

 私は真野さんの口にしたことの意味がわからず、困惑してしまう。

「それってどういう……」

「さあね。そろそろ私は帰るから」

「あっ……待って真野さん!」

 私の隣を通り抜け、真野さんは教室を出て行く。

 あとに残された私は、ただ右手を前に出し、呆然と立ち尽くしていた。


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