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無口な彼とおしゃべりな彼女

五月十六日。私こと春野天が一六歳の誕生日を迎えて約一ヶ月後のこと。

 私はそれまで生まれ育った街を離れ、地方の田舎町へと引っ越していた。

 理由としては大したことはない。ただ父親の仕事の都合で、転勤になっただけのことだ。それに、私とお母さんが便乗してついてきた。それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけ。

 お父さんは泣きながら転勤になったことを謝っていたけど、正直言って大げさだと思う。今の時代、携帯もスマホもネットもあるのだから、あっちの友達と連絡を取るのなんて簡単だ。寂しくない……と言えば嘘にはなるけど、だからといってお父さんを恨んだりといった気持ちも全然ない。

 むしろ、私はこれからの新しい生活を想像して、胸を躍らせていた。

「おお……ぼろい」

 新しく暮らす家を前に、私は開口一番にそんな感想を漏らす。お父さんが後ろでははは、と乾いた笑いを漏らしていた。が、私がお父さんに謝ることはない。私はただ、思ったことを言っただけだ。

「どうだい、天。新しい我が家の感想は」

「んー……」

 感想は今言った通りなのだけど、たぶん別の感想を求められているのだろう。

 それはそうだ。第一印象でぼろい、と言われたこの家にとっては、かなりやるせない気分になっただろうから。

 だから私は必死に考えた。ぼろい以外の感想を。

「……でかい」

「前の家もそこそこ大きかったけどねぇ」

「前の家とはなんか……雰囲気が違う」

「まー、前の家は二階建てだったから。ここは平屋だし」

「そうねぇ」

 お父さんとお母さんが勝手に納得した。納得したのなら、別に私どうだっていい。

 それに、ぼろいとは言ったが嫌いではない。このお化け屋敷のような雰囲気は。

 外装が剥がれていて、中の土が見えている。前の住人がやったのだろうか、ところどころ新しい箇所があって、時代の移り変わりが目に見えるようだった。

 古くてぼろくて、でも新しい。とても素敵だと思う。いい家だ。

 こんな家をチョイスしてくれたお父さんと紹介してくれた不動産屋さんに感謝しないと。

 私はお父さんの背中へと手を合わせた。お父さんは不思議そうな顔をしていたが、私は種明かしをすることなく、靴を脱いで家の中へと入って行く。

 家の中も、なかなかにぼろぼろだった。

 そこら中に虫食いの痕があって、ふすまやガラス戸は建てつけが悪いのか動きが鈍い。がんがんと何度かチャレンジしないと開かなかったりして、割と体力が必要なようだ。

 大丈夫だろうか? いきなり壊れたりしないよね、この家。

 今更ながら、そんな不安に駆られる。駆られていても意味がないから、これ以上は考えないことにした。

 一通り家の中を見て回る。と、一際怪しい雰囲気を醸し出している部屋があった。

 ふすまを開けると、そこは仏間だった。前の住人の物だろうか、仏具セットがそのまま置かれていた。さすがに写真とかはなかったけど、その薄気味の悪さは一級品と言っていいレベルだ。

 私はぞくぞくぞく、と背筋に悪寒が走るのを感じて、パタンとふすまを閉じる。

 ぎぎぎぎぎ、と方向転換し、お父さんたちのところへ戻った。

「おっ? どうしたんだい、そんな怖い顔をして?」

 お父さんが変な顔で訊いてくる。そんなことを言われるなんて、私はお父さんよりよほど変な顔だったのだろう。

「……何でもない」

「あっ……そうなんだ」

「それより、お母さんは?」

 お母さんの姿が見えず、きょろきょろしてしまう。

「ああ、先に家の中を探検して来るって言って入って行ったよ」

「…………」

 似た者親子。確かにあのお母さんならやりそうだ。

 私は思わずくすりと笑ってしまっていた。なんだか、さっきまで怯えていたのが嘘みたいだ。……別に怯えてなんかないけど。

「手伝うよ」

「ありがとう。それじゃあそっちの小さい奴を台所へ運んでくれるかい?」

「うん。わかった」

 私はお父さんに言われた通り、小さな荷物を抱えて再び家の中に戻った。

 

                     ◆

 

「……ふー、まあ大体こんなものかな」

 お父さんは中年のおじさんみたいなことを言って、腰をとんとんやっている。このくらいで弱音を吐くなんてだらしないなぁ。

「天はまだまだ元気そうだね」

「ま、私はこの家で一番若いし」

「ははは、そうだね」

 お父さんが快活に笑う。するとなんだか、一気に家の中が明るくなったような気がした。

「一番の年寄りはこの家だよ」

「おお、天はいいこと言うなぁ。この家に比べたら、僕なんてまだまだひよっこなんだろうなぁ」

 お父さんが柱に触れつつ、しみじみとそんなことを言う。だからおっさん臭いって。

 私が苦笑していると、お父さんはダンボールを丁寧に折りたたみ、部屋の隅に置いた。

「大きい家具とかは明日、業者の人が届けてくれるはずだから。ベッドはまだ届いてないな。今日は布団になるけど大丈夫かい?」

「うん。別に平気。……問題はお母さんだよ」

「そうだね。お母さん、こういうの好きだから」

「今日は興奮して寝れないかも」

 お母さんはホラーとか心霊特番とかは割と好きな方だ。そういうのを見て、きゃーきゃーと騒ぐのが楽しいらしい。

「さっき、すごく不気味な仏間を見つけたって喜んでいたよ」

「……あっそ」

 あそこには二度と近づかないようにしよう。

 私は密かにそう決心し、何事もなかったかのように作業を再開した。

 そうして約三十分程が経過して、何とか家の中はそれなりに形になった。

 何だろ……それまでただのお化け屋敷だったのが、急に人の住んでいる家っぽくなったというか。調度品のお陰かな?

 私は昨年の夏にお母さんがどこかから仕入れてきた謎の部族の置物を眺めて、ぼけっとそんなことを思う。確かこれ、お母さんの友達が旦那さんと海外旅行に行った時のお土産って言ってたっけ。ナントカって国のナンチャラとかいう少数部族の置物。全部手作りだから、年間五個くらいしか出回らない超レアアイテムとかなんとか。

 私はお母さんが得意そうに言っていたそういうあれこれを思い出し、くすりと笑う。

 おかしいな。別に笑うようなことじゃないと思ったんだけど。

「どうしたんだい、天?」

「ううん、何でもない。それよりお腹空かない?」

 くぅーっと、お腹が小さく鳴ったお腹を抑え、私はお父さんに訴えてみた。

 するとお父さんもお腹が空いていたらしい。そうだね、と同意してくれた。

「じゃあ……どうしようか。何か食べに行くかい?」

「そうだね。疲れちゃったし、今から作るとなると時間かかるだろうしね」

「決まりだね。じゃあお母さんを読んで来よう。ずいぶんと広い家だから迷子になっているかもしれないよ」

「それは……お母さんならありえるかもしれない」

 あの人ほど後先を考えない人も珍しいだろう。時々、どうしてお父さんとお母さんは結婚したのだろう、と不思議になる。そのお陰で私が生まれたのだから、文句を言うつもりはないが。

 私とお父さんはお母さんを探すために、廊下に出た。

「おかぁーさぁーん」

 呼んでみる。けど返事はなく、私の声だけが反響する。

 シンと静まり返った廊下。私とお父さんは顔を見合わせ、首を傾げた。

「どうしたんだろ、お母さん?」

「わからない。まだあの仏間にいるんじゃないかな?」

「えっ……あそこに行くの?」

「怖いのなら、ここにいなさい。何、すぐに戻ってくる」

「べ、別に怖くなんかないし」

 お父さんが歩き出すのに合わせて、私もお父さんの背中を追った。

 本当に怖い訳じゃない。ただ、不気味なものが嫌いなだけだ。

 私は沈鬱な気分を抱えながら、例の仏間へと向かった。

 建てつけの悪いふすまを開け、部屋の中へと視線を走らせる。と、すぐにお母さんは見つかった。

「もう、何しているの、お母さん」

「外に食べに行こうって天と話していたんだ。まだこのあたりのことはよくわからないし、散策がてらにどうかと思って」

 私たちが声をかける。けど、お母さんからの返事はなかった。

「……? お母さん?」

 私は仏間に入り、トンとお母さんの肩を叩いた。すると、ぐらりとお母さんの体が傾く。

「えっ――」

 バタンとお母さんが倒れ込んだ。私はぎょっとして目を見張った。

「お母さん!」

 慌ててお母さんを抱える。何度も呼びかけるが、反応はない。

「お父さん大変! お母さんが……!」

「落ち着きなさい、天。大丈夫だよ」

「大丈夫って何が……」

「お母さんをよく見てみなさい」

 お父さんが苦笑して肩を竦める。こんな時に、一体何を言っているの、お父さん。

 私はお父さんに言われた通りに、もう一度お母さんの顔へと視線を落とした。

 まるで眠っているような、お母さんの安らかな顔に。

「……えっと、まさか」

「そのまさかだよ。眠っているんだ。よほど疲れたんだろう。長時間車での移動と着いてからずっと荷物の整理。疲れたとしても無理はないよ」

「ま、そうだね」

 今日のところは外食はお預けだ。

 私はホッと胸を撫で下ろしつつ、がっかりした。

 パシンと、軽くお母さんの額を弾く。

 

                      ◆

 

 学校は次の日から始まった。

 高校生になって始めての登校。それも、中学時代の友達なんて一切いない、全く新しい環境でのスタート。どくんどくんと心臓が高鳴り、爆発しそうだった。

 なんて挨拶をしよう。顔、引きつってないかな? メイクは大丈夫?

 頭の中で、不安を煽るような言葉がぐるぐると渦巻く。

 私はそれを払拭しようと、何度可深呼吸をした。手の平に人の字を書いて、五回は飲み込んだ。

 それでも緊張は晴れず、どきどきと鼓動が周りに聞こえそうで、かなり恥ずかしかった。

 顔から火を吹きそうとは、まさに今この瞬間の私の状態を言うのではないだろうか。

 私はとんとんと二度、胸を叩いた。

 扉の向こうで、今朝紹介された担任の先生の声が聞こえてくる。名前は確か、畑山毬先生。なんて言っているのかまではわからなかったが、彼女の言葉に反応してか「おおー!」とか「美人? 可愛い?」とかいう男子の声が聞こえてくる。止めろよ、ハードル高くするな。

 畑山先生がみんなを諭してくれたのか、一気に教室が静かになった。

 それに反比例するように、私の胸の鼓動は更に勢いを増す。

 沈まれ、沈まれ。私自身に言い聞かせる。けど、心臓は言うことを聞かず、なお激しく脈打ち続ける。

「じゃあ春野さん、入って」

「え……?」

 いつの間にそこにいたのか、畑山先生が扉を開けて、私の前に立っていた。

 先生の優しげな眼差しに見つめられ、私は顔を俯かせて先生のあとに続いて教室へと足を踏み入れる。

 歓声が起こった。男子女子ともにだ。そのあとにどよめきがくる。

 みんな、期待していた美少女じゃなくてがっかりしただろうか? 何だか申し訳ないな。私がもうちょっと可愛かったらきっと、彼らは手放しで喜べただろうに。

 がやがやと囁き声が聞こえてくる。パンパンと、畑山先生が手を打って静まらせてくれた。

「ほら、静かに。それじゃあ春野さん、自己紹介してくれる?」

「は、はい!」

 緊張のあまり、思わず声が引きつってしまっていた。

 それを聞いてか、くすくすと笑い声が漏れ聞こてくる。かーっと全身が熱くなってしまう。穴があったら入りたいとは、現在の私の心境の時に使う言葉なんだろう、きっと。

 思い切って、顔を上げてみよう。

 私は意を決して、俯かせていた顔を上げる。すると、クラスメイト全員が私に注目しているのがわかる。いや、当然か。

 ん? ……一人だけこっちを見ていない人がいる。何だろ、あの男子。私に興味ないのかな? それはそれで寂しい気がするな。

「え、えと……春野天です。『天』って書いて『そら』って読みます」

 うわ、うわうわうわ。私、今どんな顔してる? 前のとこじゃ、こういうのって絶対にやらなかったから知らなかった。

 私、人前に出るのって結構苦手だったんだ。始めて知った。

 名前は言った。あとは何を話せばいいんだろう? 頭の中が真っ白になる。

 助けを求めて、畑山先生の方を向く。先生はにこりと微笑んだだけで、具体的に何を言いなさいとか、そういうのは教えてくれなかった。

 私が困っていると、ビシッと綺麗に挙手する男子がいた。

「はい、俺から質問いいですか?」

「えと、どうぞ」

 学級会か何かか。

 私が心の仲でツッコミを入れると、その男子は勢いよく立ち上がり、バンと机を叩いた。

「天ちゃんは彼氏とかいるの!」

「は? はぁ……彼氏、ですか」

 まあ定番といえば定番だろう。でも、一番最初の質問がそれってどうなの? なんてことを考えている暇はない。ここは慎重にかつ大胆に返答しないと。彼がくれたチャンスを無駄にしてはいけない。

「彼氏は……いません。いい人がいればその内欲しいなー、とは思ってます」

「へー、そうなんだ。ちなみに俺、中学時代まではサッカー部だったんだ」

「ほらそこ、無駄なアピールはしない」

 畑山先生がその男子を注意する。と、あははは、とクラス内に笑いが起こった。

 男子もぺこぺこと何度もお辞儀をしながら座り直し、クラス中に朗らかな空気が満ちる。

 よかった、みんないい人そう。ここなら何の問題もなくやっていけそうだ。

 クラスメイトの笑顔を眺めて、私はホッとした。案外簡単にみんなと友達になれるかもしれない。なんて考えていると、ふと一番後ろの例の窓際の席の男子が目に入った。

 一人だけ、笑っていない。それどころか、ずっと窓の外を見てる。

 まるで、私に興味がないどころか、みんなに興味がないかのような感じ。みんなもそれをあたり前のことみたいに受け入れてる。

 どうして?

 私の心に、一つの疑問が浮かんだ。もちろん、彼のことだ。

「まああとはおいおい知っていけばいいとして、当面の春野さんの席はそこね」

「はい、わかりました。……あの」

「ん? どうしたの、春野さん?」

「……いえ、何でもないです」

 余計なことを言って、第一印象悪くしたら最悪だ。

 私はわたわたと手を振り、先生が示してくれた一番前から二列目の席へと腰を落ち着ける。

 窓の外を見ていた彼とはだいたい反対の位置だ。

 ちらりと反対側の彼を見やる。やはり、私に対してなんら関心がないみたいだ。

 別にいいんだけど。でも何か、気にかかる。

 午前の授業は、私のせいでほとんど授業にならなかった。

 クラスメイトの大半は私に視線を注ぎ、その内何人かは先生がいる前で普通に話しかけてくる始末だ。

 その中には、自己紹介の時に私に質問をしてきた男子もいた。

 名前は……何だろ。そういえばまだ知らない。

 その男子だけじゃなくて、クラスメイト全員の名前とか、まだ。

 そして昼休み。というか授業が終わると同時に、私の周りに人が集まって来た。

 矢継ぎ早に質問攻めにされる。私はそれに答えつつ、こちらからも一定の質問を返した。

 名前とか、誕生日とか訊いた。あと電話番号とメールアドレス。

 みんな、すんなり教えてくれた。まあ警戒される理由もないし、当然か。

 私もみんなに、自分の番号とメアドを教えた。だいたいの人とは交換できたと思う。

 昼休みの大半は、そうして過ぎていく。半ばを過ぎると、みんなどこへ小走りに行く。

「……みんな、どこ行くんだろ?」

「購買部だと思う。早くしねえと、昼休み終わっちまうしな」

「あっ……えと、そうだね。えーと」

「ああ、自己紹介がまだだったな。俺は冴羽舜。一応クラス委員ってことになってる」

「さっき私に彼氏がいるか訊いてきた人だよね?」

「その通り。どう? もしいないんだったら俺と」

「ええと、今はいいかな」

「あー、そっかー」

 本気で言っていた訳じゃあなかったのか、冴羽くんは特に残念そうでもなく呟く。

 あっ、そりゃあそうか。もし本気だったら、あんな場やこんなところで告白なんてしないはずだもんね。恥ずかしい。

 私はかーっと、自分の顔が熱くなるのを感じた。

 ぶんぶんと首を振って、その考えを頭の中から追い払う。

「えっと、じゃあこれからよろしくね、冴羽くん」

「ああ、よろしくな、天ちゃん」

 私と冴羽くんは握手を交わす。

 何はともあれ、これで一人、友達はできた訳だ。

 私はその事実を確認すると、ホッと胸を撫で下ろした。

「あっ……」

「え? どうしたの、天ちゃん?」

「……ううん、何でもないよ」

 いつの間にか、あの人がいない。どこへ行ったんだろ? 購買部かな?

 私は最後尾窓際の彼の姿が見えなくなっていたことに首を傾げた。

 何となく意識はしていたつもりだったが、気づかなかった。忍者?

「ねえ、ちょっと聞いてもいい?」

「いいよ、何?」

「あそこの席の人のことなんだけど」

「……ああ、あいつね」

 ん? 何だ、今の妙な間は。

 冴羽くんは困ったというように苦笑いをして、首に手をやる。なんて言ったら上手く誤魔化せるだろうかと考えている顔だ、それは。

 ここで、私はようやく彼は浮いているのだなと理解した。

 浮いてるクラスメイトはなかなか説明しずらい。私にも覚えがある。

 感じのいいように言ったら、なんかバカにしているように思われるし、かと言ってよく知りもしない人を悪く言うのも気が引ける。

 つまるところ、なんて言ったらいいのかわからなくて、口籠もってしまうのだ。

 だから私は、話題を変えることにした。

「窓の外、なんか見えるの?」

「えっ……と、どうして?」

「あの人、ずっと窓の外を見てたから。珍しいものでも見えるのかなって」

 あまりに露骨な話題変換は気を遣わせることになる。

 何となく関連性がるふうを装いつつ、その実全く関係のないことを訊いてみた。

「あー……そうだね。俺たちにとっては普通だけど、天ちゃんにとってはきっと珍しいものだと思うよ」

 彼のことではなく景色のことについて訊かれて、冴羽くんがホッとしたのがわかった。

 そのことについては、私も同意見だ。下手に妙な空気にはなりたくない。

「ふーん」

 と、私はさして気のない返事をする。学校の窓から見える景色なんて、大概どこも一緒だろうと思うから。

「ところで天ちゃん、お昼は食べなくていいの?」

「んー、どうしよっかなぁ……お弁当あるけど」

「食べないと午後は持たないよ?」

「ま、そうだね。じゃあ……って冴羽くんは?」

「ああ、俺はもう食べたよ」

「そうなんだ。早いね」

 言いながら、私は鞄のから黄色い包に入ったお弁当箱を取り出す。

 それを机の上に広げ、お母さんお手製のお弁当にはしを伸ばした。

「まあな。みんなが天ちゃんを取り囲んでいる間に喰った」

「それはよかったよ。私のせいでお昼を食べ損なったなんて言われたらたまらないもん」

「そんなことは言わないが……なあ、天ちゃん」

「ん? ほぁに?」

 私は口の中に卵焼きを放り込み、もぐもぐと咀嚼しながら冴羽くんの継のせりふを待った。

 冴羽くんはどこか照れくさそうに頬を掻きつつ、言った。

「今日の放課後って暇か?」

「ごくん……放課後? うん、まあ暇と言えば暇かな。どうして?」

「えーと、だな……ちょっと校内を案内しようかと思って」

「それってクラス委員の仕事なの?」

「あー……言われてみれば違うかもしれないけど、こういうことは早めがいいと思って」

「ふーん? まあいいや。うん、暇だよ。お願いしてもいい?」

「もちろん」

 冴羽くんは快活に笑って頷いてくれた。

 ちょうど、あの隅っこの男子とは正反対な性格だなぁと思う。ただの印象だけど。

「それじゃあ、また放課後な」

「うん、わかった。ありがとー」

「いいてことよ」

 言って、冴羽くんがどこかへと行ってしまった。

 クラス委員と言うだけあって、色々と大変なんだろな。中学時代はサッカー部で高校性になってクラス委員になって。あれだけ明るくて面倒見もいい。

 さぞ女子にモテるんだろな、彼は。

 冴羽くんがクラス中の女子から取り囲まれている姿を想像して、思わずくすりと笑ってしまう。想像の中の彼は、すごく慌てていて、あまり女の子慣れしていない様子だ。

 実際はどうなんだろ? また一つ、疑問が増えた。

 こんな感じでこの先、不思議に思うことが増えては消え、消えては増えて行くんだろうな。そうやって、みんなのことを知って、友達になっていく。

 あるいは、もっと別の関係に……、

「いやいやいやいや」

 まだ私には早いし、実際にそんな余裕はない。

 今は、早く友達を作って、一緒に遊んで友情を深めて。そして、まあそこそこ充実した青春を過ごす。それでいいかな。

「ふんふんふーん」

 今後訪れる、幸せな私自身の高校生姿。そんなものを妄想して、ご機嫌になる。

 ああ、なんて単純なんだろ、私。

 我ながら、自分の単純明快さが嫌になる。けど、そんなところがまた私らしいと思える部分でもある。

 だから、無理に変える必要はない。私は私らしく、私のままでいいんだ。

 ご飯の上に乗っている梅干を口の中に放り入れながら、そんなことを考える。

 すっぱーい!

 

                     ◆

 

 そして放課後。西日の指す教室は赤く色づいていて、とても神秘的だった。

 今まではこんな時間まで学校に残ってる、なんてことはほとんどなかったから、単純に新鮮だと思えるだけなのかもしれない。

 どちらにしても、私にとってはあまりない経験だ。だから、貴重と言えなくもなかった。

「……まだかなー」

 放課後に校内を案内してくれる約束だったのに、遅い。

 そりゃあクラス委員なら、それなりに仕事もあるだろう。けど、そんな時は連絡の一つでもしてくれたらいいのに。……あ、そうだ。冴羽くんだけ連絡先交換してなかった。

 あとは窓際の彼か。

 彼……名前はなんて言うんだろ。なんでみんな、彼のことを避けているんだろ?

 一体何者なんだろうか。もしかして、夜の学校で起こる怪異を人知れず退治する系の人だったりして。なーんて。

 なんて、私が勝手な妄想を繰り広げいていると、教室の前の方の扉が勢いよく開いた。

「ごめん、遅くなっちゃって。……ってあれ? どうしたの、そんなににやついて」

「べ、別ににやついてないし!」

「お、おう……ごめん」

「……いや、私こそごめん、大声出して」

 私はしゅんと肩を落とし、謝罪の言葉を口にした。

 冴羽くんは最初こそきょとんとしていたが、すぐにもとの通りの朗らかな笑顔を浮かべる。

「別にいいさ。俺は気にしてないよ」

「え……? ほんとに?」

「ほんとほんと。そんなに俺との校内デートを楽しみにしてくれていたんだって思うと、むしろ嬉しくなる」

「ははは、別にデートじゃないでしょ?」

「そうだけどね。デートだって思った方が俺も気合い入れて案内できるし」

「えー? やらしいところに案内するんじゃないよね?」

「そんなことはしないよ。というか、学校内でやらしいところってどこだよ」

「うーん……さあ?」

 そう改めて訊かれるとわからないけど。

「それじゃあ行こうか」

「うん」

 私は鞄を肩に抱え、教室を出た。

 冴羽くんががちゃりと教室の鍵を閉める。ちゃんと施錠されたことを確認するため、二度軽く扉に触れる。

「うん。それじゃあ行こうか」

 冴羽くんが右手を差し出してくる。私は「うん?」と首を傾げた。

「荷物、持つよ」

「えぇ……大丈夫だよ、そんなに重くもないし」

「そう? ならいいんだけど」

 冴羽くんが右手を引っ込める。無理強いしたり、押しつけたりしてこないあたり、いい人だなぁと思う。

「それで、どこへ向かうの?」

「そうだなぁ……職員室はわかっているだろうし、最初は図書室がいいかな」

「図書室? どうして?」

「調べ物をする時に便利だし、何より静かだから。俺は結構気に入っているんだ」

「へー、そうなんだ。こう言っちゃなんだけど、冴羽くんってあんまり図書室とか行かなそうだと思ってたんだけど」

「はは、よく言われる。けど俺、実は結構読書家なんだよ?」

「そうなんだ、意外」

 言い合いながら、私たちは図書室へと向かう。

 図書室は三階にあって、私たち一年生の教室は一階にある。だから、階段を登らなくてはならないんだけど、私は体力には実のところ自信がない。

 中学時代も同じような作りだったが、結局図書室には一度も足を運んだことがなかったほどだ。体育の成績も中の下くらいだったし。

「……ふぅ、結構遠いんだね」

「ん、まあ俺たちのクラスのちょうど真反対だからね」

「階段……段差高くない?」

「そう? そんなことはないと思うけど。天ちゃん、ちょっとは運動した方がいいんじゃない?」

「いや、平気だから……」

「そんな呼吸を荒くして言われても説得力ないよ?」

 やっとのことで三階にたどり着く。あれー? 私ってここまで体力なかったんだろうか。

 自分の体力のなさに愕然としつつ、額の汗を拭う。中学時代はここまでじゃなかった気がするんだけど、相当やばいな、これ。

「もう少しだよ、頑張って」

「わ、わかってる……」

 私が吐く息荒くしているからだろう。冴羽くんが励ましてくれる。だからという訳ではないが、私は額の汗を拭いつつ、顔を上げた。

 そして、私たちは図書室へと向かった。

 確かに、図書室は静かだった。多少騒がしいとさえ言える教室とは違い、人の気配はほとんどなく、精錬とした雰囲気がある。

 なるほど、これなら本が好きという訳じゃなかったとしても、通ってしまうのもわかる気がするなぁ。

 この肌を撫でていく、冷たい空気は確かに気持ちがいい。

 私は四人がけの読書スペースに腰を下ろし、突っ伏する。

 ひんやりとして、気持ちよかった。サァーッと窓から入り込んでくる風が、すごくいい感じだ。

「どう? 気に入った?」

「うん……いいよ、ここ」

「それはよかったよ。俺のお気に入りの場所を天ちゃんにも気に入ってもらえて」

「冴羽くんが本好きっていうのは信じられないけど、この場所が好きっていうのはわかるかも」

「ははは」

 冴羽くんは苦笑して、頬を掻いた。

「ところで、誰もいないようだけど」

「ああ、まあみんなあんまり本とか読まないから。活字離れって奴だよ」

「活字離れ……ねぇ」

 せっかくこんなにいい場所なのに、もったいない話だ。

「私もあんまり本、読まない方なんだ」

「へぇ……それは意外だね」

「そう? 割と見たまんまだと思うけど」

「俺、天ちゃんって読書肌だと思ってたよ」

「私のどこを見たらそう見えるの?」

 眼科にでも行ったらいいよ。

 私が戸惑っていると、冴羽くんも同じように戸惑っていた。

 何と言ったらいいのかわらないらしく、口元に手を当ててうーんと唸っている。

「なんて言ったらいいかな。第一印象は大人しい子だなって思ったし」

「私は冴羽くんのこと、空気の読めないデリカシー皆無のバカ野郎かなって思った」

「ひどくね?」

「だってそうでしょ? 緊張してる私にあんなこと言ったんだから」

「……まあ考えてみればそうかもしれないね」

「でも、なんか今は違う。まだ顔を合わせて一日も経ってないんだけど、私の抱いた印象は間違ってたってわかったよ」

「ふーん? どんなふうに?」

 冴羽くんが私から目を逸らす。

 それは夕日のせいなのか、それとも全く別の理由からかはわからなかった。

 けど、冴羽くんの顔が真っ赤に染まっていたのは、この角度からよくわかる。

 冴羽くんはどうにか隠そうとしているらしいけど、隠しきれていない。口元がにやついていて、なんだか嬉しそうだった。

「君は空気の読める人で、デリカシーの塊みたいな人で、他人を思いやることができる人なんだなって」

「…………それはどうも」

 冴羽くんが体ごと完全に向こうを向いた。だから、私からは彼の表情は見えない。

 彼が今、どんな気持ちでいるのか、私にはわからなかった。

「どうしてそっちを向いてるの?」

「ちょっと今はそっち向けない」

「なんで? 散々私の目を見て話していたのに、今更だね」

「それは……そうなんだけど、今は無理」

 どうしたんだろう? よくわからないな。

 まあ無理というのなら無理をさせるのも気が引ける。

 私は冴羽くんにこちらを向かせること諦めて、机から顔を離した。

 ひんやりとした感覚がなくなり、かわりにサァーッと私の顔を涼しい風が撫でていく。

 思わず髪を抑えた。乱れた髪を手櫛でサッと整える。

 次の瞬間には、冴羽くんがこちらを向いていた。

「もういいの?」

「ああ、もう大丈夫だ。ごめん」

 冴羽くんは誤魔化すように笑って、謝ってくる。何を謝られているのかさっぱりわからなかったけど、まあいいか。

「どうする? まだここにいる?」

「ううん、次に行こう」

「わかった。さて、次はどこを案内しようか」

 うーん、と冴羽くんが悩ましげに唸る。私としては、ここみたいな静かなところがいい。騒がしいのも嫌いじゃないけど、そういうのは教室にいる時だけで十分だ。

 なんていう私の希望が通じたのか、冴羽くんが何か思いついたようにポンと手を打つ。

「保健室に行こう。学校生活の中で必要だろう?」

「ああ、確かに。怪我した時とかにどこに保健室があるかわからなくてうろうろする、なんてことになったら面倒だし」

「だね。じゃあ早速行こう」

 冴羽くんが出入り口へと向かう。私も立ち上がり、彼のあとに続いた。

 廊下はやはり人気がなく、遠くから運動部の元気なかけ声が聞こえてくる。

 こういうの、いいな。なんか青春してるって実感する。ババ臭い?

「どうして一番初めに思いつかなかったんだろう、保健室」

「どうして?」

「いやー、実は保健室って真反対にあるからさ、ちょっと遠いんだ。俺はいいとしても、体力的に天ちゃんにはきついかなーっと思って」

「私今、バカにされてる?」

「そんなことないよ」

 小さく手を振る冴羽くん。

 なんだか、笑って誤魔化されたような気がした。深くは考えないけど。

「大丈夫だよ。ちゃんと休んだし、別に校舎の反対側に行くくらい大したことないって」

「……ま、天ちゃんがそう言うのなら俺はいいんだけど」

「なんだよ、やっぱバカにしているんだろ?」

「だから、そんなことはないって」

 私はじとーっと冴羽くんを睨みつけた。冴羽くんは慌てた様子もなく、愛想よく笑っていたただけだった。

 たぶん、クラスでも人気者なんだろう。男子からも女子からも慕われていて、頼りにされている。だからクラス委員なんて仕事もしてるんだ。

 誰か押しつけられたりしたんじゃなく、自分から進んで。

「……ねえ、冴羽くん」

「何? どうしたの?」

「冴羽くんってさ、彼女とかいるの?」

「……えーと、ほんとどうしたの、急に?」

 私の突然の質問にびっくりしたのだろうか。冴羽くんは振り返って、私を見る。

 私の、目を見つめる。目と目が合う。じーっと、見つめ合う。

「言いたくないんだったらいいんだけど……」

「……俺の方からも質問いい?」

「何?」

 まだ私の質問には答えていない。なんて文句じみたことを言いそうになって、喉のところで引っ込める。

「あーと……天ちゃんは、どんな人がいいなって思う?」

「えー? 何それ」

「いいじゃん、教えてよ、参考までに」

「何の参考? ……まあいいけど。そうだなぁ、まずかっこよくて、頭がよくて優しくて背が高くて」

「うわ、なんて強欲なんだ」

「うるさい。それでいて……私にしか見せない一面を持ってる人、かな?」

「天ちゃんにしか見せない一面……?」

「そっ」

 みんなに優しくて、頼りになる人が実は甘えん坊だったり、普段は気を張っている人が私の前だとひどく気弱になったり。

 実際は面倒臭いのかもしれない。嫌になるかもしれない。

 それでもきっと、他の人には見せないそういう部分を見せてくれるというのは、特別なことのような気がする。から、私は面倒だと思っても、そういう人を嫌いになったりしない。……実際に男子とつきあった経験なんてないからわからないけど。

 たぶん、そういうことだ。私の中ではそうなっている。

「……ふーん、そうなんだ」

 冴羽くんはくるりと私に背を向ける。と、また保健室目指して歩き出した。

 あれ? 私の質問への回答は?

 私は思わず首を傾げた。今じゃないということなのだろうか。

 よくわからない。わからないから、とりあえず保留にしておこう。

 その内、折を見てまた訊いてみよう。その時には絶対に逃がさないと心に誓って。

 今日の学校案内は、図書室と保健室の二箇所で終了した。まあいっぺんにたくさん教えられても私じゃあ覚えきれないだろうし、ちょうどよかった。

 保健室の見学を終え、私と冴羽くんは校門のところで別れた。

 冴羽くんはいい人だ。あんないい人とつきあうとなったら、彼の彼女になる人はきっと幸せな人なんだろう。もちろん、クラスメイトもいい人バカりだった。

 今後の学校生活、上手くやっていけそうだ。

 私は軽くステップを踏みつつ、我が家を目指すのだった。

 

                        ◆

 

「なんでこんな微妙な時期に転校してきたの?」

「実は何か大きな事件を起こして、前のとこ追い出された、とか?」

「片親で、この辺に実家があるって本当?」

 クラスメイトの半分以上が私を取り囲み、そうしたアテの外れた質問を繰り出してくる。

 いっぺんに質問され、私は返答に困ってしまっていた。

 あっちの問いに答えようとするとこっちから問いが飛んでくる。こっちに応答しようとするとまた別の方向から的外れな質問がなされてくる。と、そんな具合だ。

「ちょっと、待ってよみんな……別に私は」

「ねえ、答えてよ」

「どうして教えてくれねぇんだよ?」

「どうなの? ねぇってば」

 だから、そんなに一度にたくさん質問されたって答えられないってば。

 私はよろよろと後ずさった。ようやく、教室の扉のところまで後退する。

「あっ、逃げた!」

「追えー!」

 素早く振り返り、脱兎のごとく走り去る。背後から、怒号にも似た声が飛んできてすごく怖かった。

 逃げてどうしようというのだろう。こんなことをして、更にみんなからの疑いを濃くするだけじゃあないの?

 それに、地理的な問題もある。

 ここは私にとって、まだ慣れない校舎だ。いくら昨日案内してもらったとはいえ、それでもまだ図書室と保健室しか知らない。

 彼らから隠れられるような場所はないのだろうか。

 私は走りながら、左右を見回す。が、特にそれらしいものは見当たらない。

 そろそろ体力の限界だ。

 私は曲がり角に身を隠し、呼吸を整える。と、少し離れた場所から私を呼ぶ声が聞こえてくる。

 足音からして、こちらへ向かって来ているようだ。体力的に、もう逃げ回ることはできないだろう。

 ああ、これから質問攻めに遭うんだ、私。

 私はそう、半ば諦めかけた。まさにその時だった。

「こっちだ」

「へ――」

 後ろの空き教室の扉が開いたかと思うと、中へと引きずり込まれる。

 体力を消耗していたことと、あまりに突然の出来事に私はとっさの対応ができなかった。

 尻餅を突いて床に倒れ、目の前で扉がぴしゃりと閉じられるのが見えた。

 かちり、と鍵が締められる。鍵を閉めた張本人は真下しゃがみ込んだ。

「そのままじっとしていろ」

 しーっと、ジェスチャーで私に黙っているよう命じる。え? 何こいつ?

 よほど文句を言ってやろうかと思った。が、教室の外で話し声が聞こえてきたので押し黙る。

「……確かにこっちに来たと思ったんだけど」

「ああ、俺も見たぜ。間違いない」

「けど、どこにもいないよ?」

「そのようだな。ここも鍵がかかってるし」

 ガタンガタン、と扉が揺れる。開けようとしたのだろうが、さっき内側から鍵がかけられたのだから開けるのは不可能だ。

「……別のところを探した方がよさそうだな」

「そうね。きっとまだ近くにいるわ」

「手分けして探そう」

 タタタタッと、足音が遠ざかっていく。

 私はふうと吐息して、胸を撫で下ろした。

「えーと、助かった。ありがと」

「……別に。大したことはしていない。それに、あいつらはちょっとやり過ぎだ」

「ふーん? 君もそう思うんだ。……ええと、名前ってまだ聞いてなかったよね?」

「何だっていいだろ、別に」

 そいつはふいっと私から目を逸らした。

 な、何なんだこいつ! 私がせっかく歩み寄ろうとしてやってるのに。

「と、とにかくありがと。じゃあね」

「…………」

 私が教室から出て行こうとすると、ガッと首根っこを掴まれた。

「ぐへっ」

 なんて、およそ女の子らしくない声が出てしまう。

「何をする!」

 ブォォン! と風きり音がするほど素早く(少なくとも自分ではそう思っていた)拳を振り回す。

「けほっ……何をする!」

「……別に」

 彼は難なく避け、しれっと言ってのける。私はムカーッと頭に血が昇るのを感じた。

「別二じゃないでしょ! 他人にあんだけ酷いことしといて!」

「酷いこと……ねえ」

「むっ……何? 何か言いたいことでもあるの?」

「ま、おまえがいいんだったらいいんだけど」

 彼はやれやれといった様子で首を振り、背中を向ける。

 何? 何が言いたいの、こいつ。もしかしてやべー奴なんじゃない、本当は。

「……何が、言いたいのさ」

「いや、いいんだ。おまえがそれでいいというのなら、出て行ったらいい」

「あーそう。言われなくったってあんたみたいなのと一緒にいられないから出て行くし!」

 なんなの、こいつ。

 私はムカッ腹を立てながら、再度教室から出て行こうとする。

 かちっと鍵を開け、ゆっくりと開く。

「おい、なんかこっちの教室から音がしなかったか?」

「何言ってんの? そっちはさっき調べたでしょ」

 慌てて身を隠す。

 やべー、あぶねー。危うく見つかるところだったよ。

 どきんどきんと高鳴る心臓をどうにか押さえつけ、私は彼らが去っていくのを待った。

 足音はすぐに遠ざかっていく。ホッと息を吐いて、へなへなとその場に座り込んだ。

「……くそ、油断も隙もねーな」

「当たり前だろ。バカか?」

「ああん?」

 なんだよ、こいつはさっきから。他人のことバカにし過ぎじゃない?

 私は目の前の彼を睨みつける。が、彼は気にした素振りもなく、平然としたものだった。

 ちくしょう、このやろー。

「どうしよう……授業が始まるまでに戻らないと」

「なんでだ? サボればいいだけだろ」

「だめに決まってるじゃん。つーかあんたもそんなこと言うなんて、実はサボりの常習犯?」

「……間違ってはいない」

 彼は私の隣に立ち、薄く扉を開ける。どうやら、外の様子を確認してくれてるらしい。

 口は悪いけど、案外いい奴なのかもしれない。まあそこまでいい奴ともいえないが。

「さて、俺がなぜおまえを助けたと思う?」

「し、知らないよ、そんなの」

「ま、だろうな」

 彼は小さく肩をすくめた。にやりともせず、こちらを向く。

「どうして私を助けてくれたの?」

「おまえ……あいつとはどういう関係だ?」

「あいつ? ……って誰?」

「あいつだ。クラス委員の」

「ええと、冴羽くんのこと?」

 彼の表情が苛立たしげに歪む。まるで、冴羽くんの名前を毛嫌いするみたいに。

「……まあ、教えてもいいけど。でも」

「でも?」

「三つくらい条件がある」

「……おまえ、ふざけてるのか?」

「ふざけてるのはそっちでしょ。いきなり偉そうにして」

 どんな奴が嫌いかと訊かれて、たぶんこいつほど嫌いな奴もないと思う。

 不遜とか不敬とか失礼とか、そんな言葉じゃ足りないくらい、この男は普通じゃない。

 端的に言って、大っ嫌いな人間だ。

「……まあいい。それで、俺に何をさせようと言うんだ?」

「別に大したことじゃないけど。まず名前を教えて」

「名前? そんなの聞いてどうする?」

「どうするって、まず名前がわからないと不便でしょ?」

「不便なことはない。こうして滞りなく会話も成立している。必要ないだろ」

「ぐっ……なかなか頭の硬い奴」

 なんか、見るからに根暗そうな奴だし。こんな態度を取ってくる奴だ。絶対友達いないぞ、こいつ。

「……名前、ねぇ」

「どうしたの?」

「名前……他人に名乗ることなんて今まであまりなかったからな。自己紹介なんて何を言ったらいいのかわからん」

「……はぁ?」

 何それ? 意味わかんない。

 私は思わず、目を点にしてしまっていた。

 自己紹介の仕方がわからない? なんで? 普通ありえないでしょ。

「そんなんで今までよく生きてこれたね?」

「別段、困ったことはなかったからな」

「絶対に彼女とかいないでしょ?」

「必要なのか、それ?」

 きょとん、とした様子で、彼が訊ねてくる。

 え? 嘘でしょ? まじで言ってんの、こいつ。

「……だって、みんな思うでしょ? 彼氏欲しいとか彼女欲しいとか」

「そうなのか?」

「……ありえない」

 どうやら、本気で言っているようだ。おかしいでしょ、それ。

「……まぁいいや、価値観は人それぞれだもんね」

「ああ、その通りだ。わかったらさっさとあいつとの関係を教えろ」

「その前にまず名前」

「だから、どうして……」

「価値観は人それぞれ。それはいいけど、今は私の価値観が優先。名前がないと不便だし」

「……はぁ、わかった。言えばいいんだろ、言えば」

「わかればよろしい」

 何となく勝ったような気分になって、私は胸を張った。

 彼は不慣れと言う割には、照れた様子もどもったりすることもなく、淡々と自己紹介を開始した。

「俺は相楽光だ」

「……え? それだけ?」

「他に何が必要だ?」

「ほら、あるでしょ。例えば、ええと……そう、趣味とか」

「趣味……? そうだな、強いてあげるとするなら料理、とかか」

「料理? 得意なの?」

「得意というほどではないが……いや、俺のことはいい。名前は教えたんだ。俺の質問にも答えろ」

「条件は三つって言ったはずだよ。あと二つ残ってる」

 二本の指でブイの字を作り、相楽の前に差し出す。なんか、こいつを「○○くん」って親しげに呼ぶのは抵抗あるな。

「じゃあ相楽、二つ目だ」

「ずいぶんと威圧的な言い方をするんだな」

「当たり前だろ。おめーにはこれで十分だ」

 相楽は不満そうだったが、だからと言って意義を唱えてくることはなかった。たぶん、このまま言い合いになっては話が進まないと思ったのだろう。いい判断だ。

「じゃあ二つ目だけど、ちょっと待って。今考えるから」

「考えてなかったのかよ」

「ほとんど勢いで言っちゃったし。ええと……ああ、そうだ!」

 天啓を授かったかのように二つ目の命令を閃いて、私はポンと手を打った。

「こういうのはどう? クラスのみんなと友達になるの」

「却下だ」

 にべもなく遮断だれる私の意見。

「どうして? みんなちゃんと話を聞いてくれると思うんだけど」

「……あいつらの様子を見てそう言えるおまえの神経を疑うな」

「……むー」

「……何だよ?」

 相楽は怪訝そうに眉を寄せていた。その表情がまた腹立たしい。

「おまえじゃない、ちゃんと名前で言って」

「……はぁ、おまえの名前なんて知らない」

「知らないって……ちゃんと自己紹介したと思うけど?」

「聞いてなかった」

 当然だろ? というように、あっけからんと言い放つ相楽。

 むきー! 腹立つー! 何なのこいつ、まじで!

 私が万感の思いを込めて行った自己紹介を聞いてなかったって。極刑に値するでしょ、これ。

「……何をそんなに怒っているんだ?」

「相楽、あんたそれ本気で言ってる?」

「ああ、当然だろ?」

「は、はぁ……?」

 何言ってるの、こいつ。

 相楽は本当にわからないといった様子で、わずかに首を傾げた。

 私は頭痛がするような気がして、頭を押さえる。

「どうした? 頭でも痛いのか?」

「……いや、いい。大丈夫」

 相楽は私に手を差し伸べ……たりはしないけど、口の上では私を気づかってくる。

 でも、それが本当に心からの言葉なのかと言えば、違う。この短時間ではっきりとわかった。この男は私のこと、というより誰のことも心配していない。

 心配していないということは誰に対しても関心を持っていないということ。ただそうした方が世間の風当たりが弱いからとか、そんな理由で物事を判断する。

「……静かになったね」

「そのようだな」

 ……そろそろ、時間的にも教室に戻らないと授業に遅れる。

 本当にまずい。

「私……そろそろ戻ろうと思うんだけど、どうする?」

「当然、授業に出ない」

「でも一時間、暇じゃない?」

「何とか時間を潰すさ」

 相楽は扉を開け、教室を出た。私も、彼に続いて廊下に出る。

 彼は私たちのクラスとは真逆の方向へと歩いていく。そして私は、彼とは逆の方向へ。

 しばらくして、あっと気がついた。

 鍵……どうしたらいいんだろう?

 

                        ◆

 

 その日の授業を全て消化して、帰路につく。と、クラスメイトの女子数人が私を取り囲んだ。

「え、えと……」

「春野さん、このあと暇?」

「え?」

 リーダー格の女子が私に話かけてくる。

 私は何と返事をしていいのか迷い、結局は頷いてしまう。

「うん、暇だけど」

「よかったわ。実は私たち、あなたと仲よくなりたいなって思ってて」

「本当? 私も是非そうなりたい」

「嬉しいわ。それで、これから駅前のファミレスでちょっとお話でもと思ってお誘いに来たのよ。来てくれるかしら?」

「嬉しい! 絶対に行く!」

 今日はあの相楽のせいで気分が悪いからね。このくらいの気分転換は許されるだろう。

「よかった。決まりね。じゃあ早速行きましょう」

「うん、行こう行こう」

 私は彼女たちに混じって、駅前を目指した。

 駅前のファミレスまでは徒歩三十分くらいだった。ほとんどシャッターの降りた商店街を抜け、三叉路を左に曲がると駅が見える。

 そのすぐ側に、私たちの目指すファミレスは存在した。

 殺風景な駅周辺の景観には似つかわしくないくらい、オシャレな雰囲気の店だった。

「ほへー」

 今からこんなところに入るのか。私は思わず感心して、ぼけーっとその店の看板を見上げる。

「どうしたの、春野さん? 早く入ろうよ」

「あ、ああ、うん。ごめんね」

 彼女たちに呼ばれて、小走りに入口へと駆けていく。

 うちではほとんど外食なんてしない。ファミレスなんて、中学校入学以来来ていないかもしれなかった。それくらい、全くと言っていいほどこういうところに来た記憶がなかった。

 どきどきしながら自動ドアを抜けると、来客を告げる音が鳴り響く。

 それに伴い、店の奥から万点の営業スマイルで私たちを出迎えてくれるスタッフ。

「いらっしゃいませー。四名様でいらっしゃいますね? 禁煙席のご利用でよろしかったでしょうか?」

「はい、お願いします」

「ではこちらのお席へどうぞ」

 店員さんが私たちを案内してくれる。前の二人は慣れたような足取りで指定された席へと向かうが、私はおのぼりの田舎者よろしく物珍しさに負けて店内を見回していた。

「どうしたの、春野さん。そんなに珍しい?」

「え? いや、えと……こういう場所ってあんまり来ないから」

「へー、そうなんだ」

「うち、あんまり外食とかしなくて」

「じゃあファミレス来るの始めて?」

「始めて……ではないけど、三回目くらいかな」

 どうだったらだろう。とはいえ、多くても四、五回くらいしかなかったと思う。あまりよくは覚えていないが。

「そうなの。どう? このお店は」

「なんて言ったらいいんだろうね。……なんか、よくも悪くもファミレスって感じがする」

「でしょう。そこがいいのよ」

 よかった。最初声をかけられた時はどきっとしたけど、いい人そうだ。

 私たちは指定された席へと腰を下ろし、小さく吐息した。

「さてと、改めて自己紹介しておこうかしら。私は真野縁。よろしくね」

「え、えと……春野天です」

「はは、知ってるわよ」

「だよね。ごめん」

「いいってことよ。それでこっちの二人が……」

「よろしくねー」

「よろしくー」

 真野さんの両隣に座る二人がそれぞれ自己紹介をしてくる。

 私は彼女たちの名前を忘れないように、しっかりと頭に刻み込んでおく。

 各自簡単な自己紹介も終わり、ドリンクバーを頼んで楽しく談笑していた。

 どれくらい経っただろう。窓の外を見ると、日が傾き初めて帰路に急ぐ人々の姿がよく目につくようになる。

「あたし、もう帰らないと」

「あーしも」

 真野さんの両隣の二人が立ち上がる。

 真野さんが一旦席を立ち、その二人を見送った。

「はー、帰っちゃったわね」

「残念だったね。もうちょっと話、したかったんだけど」

「……ところでさ、春野さん」

「ん? 何?」

 真野さんの雰囲気がちょっと異質な感じに変化した。何だろ、声もドスが利いていて、邪悪なオーラがびんびん伝わってくるというか。

「昨日、舜と一緒にいなかった?」

「へ? 舜って……冴羽くんのこと? まぁ一緒にはいたけど」

「ふーん……そうなんだ」

 真野さんの持つカップがカタカタと揺れる。え? なんで?

「何……してたの? 二人で」

「何ってこともないけど。ただ学校内を案内してくれるって言うから」

 クラス委員だし、彼。そのへんは気を使ってくれたのだろう。

 つーかなんで真野さんこんなに動揺してるんだろう。……まさか!

「ええと、間違ってたらすごく恥ずかしいんだけど、真野さんって冴羽くんのこと……」

「いやぁぁぁ! それ以上は言わないで!」

 ガシャンッと頭を抱えて額を思い切りテーブルに打ちつける真野さん。この反応ってそういうこと、だよね?

「あの、真野さん、頭を上げて。見てる、みんな見てるから」

「うう……なんでそんなこと言うのよ。私なんかじゃ無理ってこと?」

「何も言ってないよ、それに顔を上げて」

「わかってるわよ、私と舜じゃ釣り合わないってことくらい。でも、でも……」

「だから、顔を上げて。ほら、他の人超見てるから」

「どうしたらいいのよ、私は。どうしたら……」

 ぶつぶつと独り言をつぶやき続ける真野さん。ああもう、どうしたらいいの、この状況。

「そうだ、一つ質問していい?」

「……何よ? 言ってみないさいよ」

「ええと、相楽……くんって友達いないの?」

「相楽ぁ? 知らないわよ、あんな奴」

「あんな奴って……」

 まぁ確かに愛想がいいというほどではなかったとは思うけど、何もそこまで毛嫌いしなくても。私は好きないタイプとかでは全然ないんだけど。

「春野さんは知らないかもしれないけど、私と舜は中学時代……舜は小学校も一緒って言ってたと思うわ。そのぐらいから私たちはあいつを知ってる。けど、少なくとも私はあいつが誰かと仲よくしていた場面なんて知らないわ」

「そうなんだ。それじゃあだめかな」

「何? 春野さんってあいつみたいなのがタイプだったりする?」

「ううん全然全くこれっぽっちもありえない」

「あ、うん……だよね。でもそこまで否定しなくても」

「ただ、ちょっと気になって」

 今日、相楽と離したことは言わない方がいい気がする。何となく話がこじれそう。

「……ま、私たちはもう慣れたものだけど、他所から来たバカりの春野さんからしたら妙に映るかもしれないわね。何せあいつ、変わってるし」

「ははは」

 変わってるどころではないと思う。他人との接触を拒み、友達入らないとか大口を叩くのだから、相当な変人だ。

 私なら、ありえない。

「ま、中学時代から変わっていたけど。何が原因とか私にはわからないわ。四六時中見ていた訳でもないしね」

「まぁそうだよね」

 好きでもない、どころか毛嫌いしていた相手をずっと観察しているなんて、それこそありあえない話だ。

 私はなんてバカなことを口にしたのだろう。今の会話の流れから、そんなことはわかり切っていただろうに。

「ま、あいつには関わらないことよ。ろくなことにならないわ」

「……う、うん」

 真野さんの言い草は、まるで害虫か何かを指して言っているように聞こえてくる。

 私は何と言ったらいいかわからず、曖昧に頷いただけだった。

「あいつに関しては……あんまり話したくないんだけど、春野さんの今後のために話しておいた方がいいわよね」

「今後?」

「あのクラスで一年過ごすのなら、知っておいて損はないはずよ」

 真野さんはテーブルに両肘を突いて、その上にあごを乗せる。

 にやり、と不敵に笑って、話を始めた。

「あいつがどうして友達を作ろうとしないのか、もっと言えば他人との関わりを拒否する理由は何か。そんなのは私はしらないわ。けど、一つ言えることは」

「い、言えることは……?」

 ごくりと唾液を飲み下す。何か、とても深刻そうは話だ。

 これは、しっかりと聞いておかなくてはならない。

「入学式が終わってすぐのことよ。三日後くらいかな。とある事件が起きたの」

「とある事件?」

「そ。私たちは血の校庭事件って呼んでるわ」

「血の校庭事件……」

「まんま、うちの学校の校庭で乱闘騒ぎがあったってだけの話だけどね」

 冗談めかして肩をすくめる。けどその実、彼女の瞳は全く笑っていなかった。

「それで、どうして相楽……くんが?」

「あいつ、その時の騒ぎの真ん中にいたのよ。三対一っていう不利な状況で、それでも相手を三人、倒しちゃったの」

「それは……すごい、のかな?」

「さぁ? 私にはよくわからないわ。けど、それ以来よ。彼が校内から恐れられるようになったのは」

 真野さんは思い切り、背もたれに体重を預ける。

 私は真野さんの話を聞いて、うーんと唸った。

「けどそれって仕方のないことなんじゃない? 売ったのか売られたのかわからないけど」

「……そう言うのも仕方のないことだわ。実際に見ていないのだから」

 スッと、真野さんが立ち上がる。もう帰るのだろうか。

 私も彼女に続いて、席を立った。レジへと向かう傍ら、話を続けてくる。

「けど、そう簡単に物事は割り切れるものじゃないのよ。……あれほど恐ろしいことは、それまで何不自由のないただの中学生だった私たちにはなかった。悪鬼とか鬼人とかって言葉は、きっとあいつのためにあるんだわ」

 思い出したくもない光景だったのか、表情を歪ませる真野さん。

 私は言葉を挟むことすらできず、ただ彼女の話を聞いているしかなかった。

「事情はどうあれ、あいつは三対一のケンカに勝った。その事実は、瞬く間に校内に広がり、私たちはあいつを避けるようになった。これが事実よ」

 会計を済ませ、店を出る。すっかりあたりは暗くなっていて、人も車の通りもまばらだ。

「あいつのことは、たぶん誰もが嫌っているはずよ。いや、嫌っていると言うよりは恐れている、怖がっていると言った方が適切かもしれない」

「それは……わかる気がする」

 いつ爆発するかもわからない爆弾が目の前にある状態は誰だって怖い。それが実際に爆発を起こすかどうかはさておいて、そういう状況に置かれているという事実だけで、ストレスが溜まる。

 下手に触れれば、きっと大爆発を起こす。そんな憶測が飛び交うのも理解できる。

 しかし、だからといって今の状態のままでいいはずがない。相手は人間なのだ。爆弾じゃあない。

 きっと悲しんでいるだろう。事情があってしたことで、ここまで他人から嫌われたり、避けられたりしているなんて。

「どう? わかったら、あいつには近づかないことね」

「……よくわかったよ。ありがとう」

「ま、いいのよ。これから一年、一緒に生活する仲間だもの」

「…………うん、そうだね」

 真野さんは、おそらく親切心から忠告をくれたのだろうと思う。

 でも、私は彼女の話のおおよそを理解していながら、その実全く納得できていなかった。

「じゃ、またね」

 ファミレスの前で真野さんと別れる。その後、とぼとぼと我が家へと帰宅した。

 

                      ◆

 

 何となく気分が重い。すっかり散ってしまった桜の花びらを踏み締めながら、私は一人てくてくと学校への道を歩いていた。

 昨日、真野さんから聞いた話を思い出す。血の校庭事件。事件と言いつつ、実際はただのケンカらしかった。ということは、双方に非があると考えていいと思う。

 でも、真野さんを始めとする学校中が相楽を悪者にしていた。それはなぜか。

「悪鬼……鬼人」

 真野さんが口にした言葉を言ってみる。

 それほどまでに、その時の相楽の姿は恐ろしかったのだろうか。

「……確かに、あいつはいい奴とは言えないけど」

 けど、そこまえ毛嫌いするほどだろうか。ケンカなんて、男子なら普通にすることだろう。というより、男子女子関係なくあたり前に起こりうることのはずだ。

 相楽の一体何が、みんなをそこまでの恐怖に駆り立てるのか。不思議でならなかった。

 調べてみようか。しかし真野さんのあの様子を見る限り、話を聞いて回るのは得策じゃあないと思われる。

 どうしたら……? と、私が思い悩んでいると、後ろから声がかけられた。

「おっはよー、春野さん」

「……ああ、真野さん。おはよう」

「どうしたの? なんか元気なさそうだけど」

「そう? 普通だけど。……ただ、朝は弱いからなぁ、私」

「そうなんだ。低血圧?」

「うんまぁ……そんなとこ」

 真野さんが私の顔を覗き込んでくる。

 私はどうしたものかと視線を泳がせ、考えを巡らせた。

 今、下手に言い訳をしたところで上手くはぐらかせる自信はない。なら、このまま本当のことを言ってしまった方が得策だろう。

 私はそう考えて、自分の心境を吐露しようと口を開きかけた。

 と、その間際、間がいいのか悪いのか、冴羽くんが話に割って入ってきた。

「おお、二人とも早速仲よくなってるんだね」

「そ、昨日ファミレスで仲よくお話してたのよね」

 ねー、と真野さんが同意を求めてくる。別に何一つとして嘘は言っていないと思うのだが、どうしてだろう。彼女の放つ雰囲気が凄まじく威圧的だ。

 何だか、絶対に頷かないといけないという気になってくる。

「う、うん……そう」

「そっかそっか。それはよかった。ほんとはちょっと心配だったんだよね」

「心配……って私が?」

「うん。根拠はないんだけど、天ちゃんってあんまり人づきあい得意そうじゃないから」

「私、そんなに根暗そうかな?」

「そういう訳じゃないんだけど、いつも何かビクビクしている印象があるというか」

「ビクビク?」

 そんなつもりは全くなかったけど、冴羽くんにはそういうふうに見えているのか。

「そんなことないよ、ねえ春野さん」

「え? ああ、うん。そんなことないよ」

「そう? ならいいんだけど」

 うーんと冴羽くんが唸る。きっと、他の人から見ても、今彼と同じような印象を持つんだろうな。

 ビクビクしている。つまりは怖がっているということで、恐れているということ。

 私が? 何を? そりゃあ友達とかできなかったらどうしようとか不安はあった。けど、こうして早速二人もできた。だから、私の中に不安はそこで解消されたんだ。

 何も、不安に思うことはない。怖がることもない。

「じゃあ俺、早く行かないといけないから」

「クラス委員の仕事?」

「そそ、これが大変なんだよね。じゃまたあとでね、二人とも」

 冴羽くんが小さく手を振って、駆けて行く。

 私と真野さんは遠ざかる彼の後ろ姿を目で追いつつ、考える。

 怖い……私が怖がるとしたら友達ができるか、学校生活が上手くいくかどうかという一点のみだろう。そして、その部分は概ねクリアされたと言っていい。

 なぜなら、クラス委員の冴羽くんと真野さん。この二人と早速知り合いになれたのだから。どこにも、心配をする要素はない。

「ほら、早く行こう」

「うん」

 真野さんが私の手を引っ張ってくる。私はなされるがまま、彼女のあとに続いて早足になった。

 

                      ◆

 

 教室にたどり着くと、がやがやと騒がしかった。

「どうしたんだろ?」

 真野さんが首を傾げる。私が聞きたい。

「何かあったんじゃない?」

「そうかも。とりあえず入ってみよう」

 教室の入口付近を塞いでいる隣のクラスの人たちを押し退けて、教室に入る。

 と、入った直後、妙なものが視界に飛び込んできた。

「え、ええと、何……あれ?」

「わ、私に訊かれても困るわ」

 私と真野さんが揃って愕然とする。

 なぜなら、私たちの目の前、黒板にでかでかととある文言が書かれていたからだ。

 黒板一面を使って『冴羽舜は死ね』――と。

 子供のいたずらのような、しかし確実に悪質なそれは、私たちのみならずクラス中どころか他所のクラスまで震撼させるほどの効力を持っていた。

「は、早く消しなさいよ! 舜が来てしまうわ!」

「そ、そうだね、早く……」

 黒板の近くにいた女子生徒がその字を消そうとした、まさにその時だった。

「何してるの、みんな」

 バッと、一斉に振り返る。突如として注目を集めたことに驚いたのか、冴羽くんは目を丸くしていた。

「ええと……俺、何かしたかな?」

「ううん、何も。ただみんな、ちょっと驚いただけよ」

 真野さんが冴羽くんの真正面に立った。ちょうど、黒板が隠れるような場所だ。

 私を含め、その場の全員が頷く。冴羽くんは優しく微笑んだ。

「そう? ならいいんだけど。それより、そこを退いてほしいな。教室に入れない」

「始業まではまだ時間があるわ。少しお話しましょうよ」

「それは構わないけど、何を話すの?」

「そうね、何がいいかしら。例えば、私は今日の夕食を何にしようか悩んでいるわ。それについて、舜の意見を聞かせてもらえる?」

「いいよ。そうだなぁ……」

 冴羽くんが考え込むように視線を逸らした。そのタイミングを見計らって、真野さんアイコンタクトを送る。

 真野さんの意思が通じたのか、アイコンタクトを受け取った黒板近くの女子はうんと一つ頷き、急いで黒板に書かれたその文字を消していく。

「ハンバーグなんてどうだろう?」

「いいわね。でも私、今日は何だかお魚が食べたい気分だったりするの」

「魚かぁ……なら、刺身とか? あとは煮物も美味しいよね」

「そうね。その線で考えてみるわ。あとは付け合せだけど、お魚と言えばというのは何かある?」

「付け合せ……何がいいと思う?」

「へ? 俺? ええと」

 チラッと黒板の方を見やる。あと一文字で、全て消し終える。

 私はホッと吐息し、さて会話を終わらせるために助け船を出そうと試みた。

「煮魚だったら味噌汁がいいと思う。野菜たくさんの」

「おお、それは名案だ。どうだろう、真野」

「ええ、いいわ。ありがとう、春野さん」

「どういたしまして」

 よし、これで時間稼ぎは十分だろう。

 私はそう伝えるために、真野さんの制服の袖口を引っ張った。私の意図が通じたのか、真野さんはふと後ろを振り返る。

「……時間を取らせてごめんなさい。ありがとう、舜。とても助かったわ」

「それはよかったよ。じゃあ中に入れてくれるかな?」

「ええ。どうぞ」

 真野さんが冴羽くんのために道を開ける。

 黒板の文字は完璧に消された。だというのに、わずかに緊張してしまうのはなぜだろう。

 私はぎゅっと、制服の胸のあたりを強く掴んだ。ありえないことだとわかってはいたが、冴羽くんが黒板に書かれた文字に気づかないようにと祈る。

 当然、今はもう存在しない文字なんて冴羽くんには気づきようがなく、彼は何ごともなかったかのように自分の席へと荷物を下ろす。

「どうしたの、みんな? 何だか変だよ、今日は」

「いいえ、どうもしないわ。いつも通りよ、私たちは」

「そうだぜ、何もないさ」

 はっはっはっは、と不自然な笑い声を漏らすクラスメイトとその他。演技下手か。

 明らかに冴羽くんは訝っていたが、だからといって原因にたどり着くなんて不可能だ。

 私は安堵とともに自分の席へと向かう。と、背後からざわめきが聞こてきた。

 何だろう、と振り返ると、ちょうど相楽が教室に入ってきたところだった。

 彼が入口で立ち止まる。すると、ちょうどモーセの十戒を彷彿とさせるように、同級生たちが一斉に道を開ける。しかしその様子は冴羽くんの時とは全く違っていて、みんなどこか恐れている……というより近寄りがたいと感じているようだった。

 ポスッと、相楽が自分の机へと荷物を置く。中身が入っていないのか、かなり音が軽い。

 それから椅子に座り、頬杖を突いて窓の外を眺める。それがいつもの所作だと言わんバカりに、自然な流れだった。

「……おい、てめーだろ!」

 クラスメイトの一人(名前、まだ覚えてない)が相楽に詰め寄る。

 相楽は彼の声なんて聞こていない様子で、ボーッとしていた。

「おい、聞いてんのか!」

 ガッと、彼が相楽の胸倉を掴んだ。そこでようやく、相楽も彼が自分に用があるのだと認識したようだ。

相楽の視線が彼に向く。と、彼は一瞬怯んだようだったが、すぐに元の威勢のよさを取り繕った。

「てめーが犯人だろ!」

「……何のことかわからないな」

「惚けんじゃねえよ! てめーが黒板に……」

 言いかけて、言葉が止まる。

 理由としては、真野さんが彼の肩に触れたからだ。それでハッとしたのだろう。これ以上口にしてしまえば、みんなで隠した意味がなくなると。

「何だ?」

 相楽の表情は変わらない。怒鳴られて、理不尽な怒りに晒されたとしても、何一つとして変化がない。

 それはつまり、現状に感心がないということだ。自分が怒られる理由がないのだから、こんなことは無駄なことだ、無関係なことなのだと思っているのだろう。

 ふと、胸にちくりとした痛みを感じる。その痛みは私の心中を蝕み、ざわざわと騒がしい葉擦れの音を響かせる。

 私はほとんど無意識に、彼を押し退けた。

 相楽の前に立ち、じっと彼を睨み据える。

「あなたが犯人?」

「違う。俺じゃあない」

「なら、どうしてすぐに否定しないの? そんなの、犯人だって思われても仕方がないよ」

「……どうだっていいだろ、そんなこと」

 相楽は私から視線を逸らし、窓の外を見やった。

 私は、相楽のその行動の意図がわからなくて、ますます苛立ちを募らせる。

「私を見て、私の目を見て」

「……なぜだ? 仮に俺が何らかの犯人扱いされようと、おまえには関係のなことだ」

「関係の……ないこと?」

「ああ、そうだ。わかったらさっさと席に着け」

「何をいい子ぶってる訳? ふまじめなくせに」

「悪いか?」

「悪いに決まってる、私が何のためにこんなことをしているのか」

「少なくとも、俺のためではないだろ?」

「うっ……」

 確かに、私は相楽のために言っている訳じゃない。かといって、全く相楽のことを考えていないという訳でもないけど。

 比率にして大体九割自分のため、といったところだろうか。

「そんな奴がよく偉そうなことを言えたもんだな」

「な、何を……そりゃあ多少は自分のためっていうのもあるけど」

「いいんだよ、わかってるから。だから、もう俺には関わるな。バカが感染る」

「感染る訳ないよ!」

 ひらひらと手を振る相楽に、私は思わず怒鳴ってしまっていた。

 ハッとして、周囲を振り返る。みんながどこか恐ろしそうに、私たちを見ていた。

「……ま、いいよ。証拠がある訳じゃないし、今日のところは見逃しすよ」

「そいつはどうも。けど、間違っているのはおまえたちだ。俺じゃあない」

「それはどうかしら?」

「真野さん?」

 背後から真野さんが口を挟んでくる。

 私は後ろを振り返り、彼女の声を聞いた。

「あなたが犯人であるという証拠を必ず見つけてみせるわ」

「……あっそ。まあ頑張ってくれ」

 興味もない、と言わんバカりに、相楽が手を振る。真野さんは苛立ったように、眉間に皺を寄せた。

「……ふん!」

 真野さんは大きく息を吐くと、彼に背を向ける。自分の席にどかっと腰を下ろすと、頬杖を突いて目を伏せた。

 シンと静まり返る教室内。どうしたらいいのかわからないのだろう。クラスメイトや隣のクラスの人たちがざわざわと騒いでいた。

 私は冴羽くんへと目を向ける。と、彼もまた私に視線をやっていたのか、こちらを見ていた。

 私たちの視線がかち合う。私が困ったというサインを送ると、冴羽くんは理解してくれたのだろう、一つ頷いて、パンと大きく手を叩いた。

「さて、何の話だったのか俺には全くわからなかったけど、とりあえずは決着がついたみたいだ。そろそろ先生が来るからみんな席についていた方がいい。ほら、おまえらも自分の教室に戻れ」

 冴羽くんに言われて、みんな各々自分の席に座ったり、教室に戻ったりする。

 私もみんなに習って、自分の席へと座った。

 座ってから、チラと斜め後ろを振り返る。――相変わらず、ボーッと窓の外を眺めている相楽の横顔を。

 さっきの彼の言い方を思い出して、腹が立つ。どうしてあんな言い方しかできなかったのか。あれでは、みんなの怒りを増す結果になることは明白だと思うのだが。

 もっと、上手なやり方なんていくらでもあっただろう。

 私は一人、勝手に憤りを感じつつ、前を向いた。

 ちょうど、担任教師の畑山先生が入ってくる。教卓の前に立ち、出席簿を開いて出欠を取り始めた。

 と、半ばまできたところで、ようやくクラス内の雰囲気の変化に気がついたのだろう。畑山先生が眉を潜めた。

「……冴羽くん、何かあったんですか?」

「え、ええと……実は俺にもよくわからなくて」

 たはは、と愛想笑いを浮かべて誤魔化す冴羽くん。そりゃあ、彼には気づかれないようみんなで一致団結をしたのだ。気づかなかったとしても仕方がないだろう。

「そうですか……じゃあ気のせいかな?」

 畑山先生は怪訝そうに首を傾げていたが、すぐに気を取り直して出欠取りを再開する。

「えー、みなさん元気そうで何よりです。それでは、今日も一日張り切っていきましょう」

 畑山先生のとびきりの笑顔が妙に眩しかった。

 けど、みんな今朝の騒ぎのせいでどこか沈鬱だ。私だって、先生の言う通り張り切って学校生活をエンジョイしたい。しかし、今の私にそれが可能かどうか定かではなかった。

「……それでは、わたしは一旦これで。一時間目は移動教室ですので、みなさん遅れないようお願いしますね」

 私たちの放つ雰囲気がどこかしら異様だと感づいたのだろう。畑山先生はあせあせとい慌てて、教室から出ていった。

 今朝のことがあるからだろう。先生が出て行ったあとでも、教室の中は騒がしくならなかった。シンとした静観な雰囲気が、逆に気味が悪く感じられる。

「さあみんな、先生も言っていただろう。最初は移動教室だ。準備しないと」

 冴羽くんが立ち上がり、みんなに呼びかける。のろのろと準備を始め、ぞろぞろと教室を出る。

 私は教室の半分ほどが退室したタイミングで、人混みに紛れて教室を出た。

 その際、チラと再び相楽を見た。相楽は授業の用意などせず、それどころか微動だにすることなく窓の外を見ていただけだった。

 あんなことをしていては、疑われて当然だ。何を考えているのだろう。

 私は彼から視線を外し、移動教室先を目指すのだった。

 

                     ◆

 

 結局のところ、相楽は授業には出席しなかった。

 どこで何をしていたのか、まるで見当がつかない。

 ほんと、何しているんだか。

「今日ほとんどいなかったわね、あいつ」

「真野さん……あいつって相楽……くんのこと?」

「そ。やっぱり何かしたんだわ。じゃなかったら、堂々としていられるはずだもの」

「んー、でも本人は違うって言ってたし」

「……何? 春野さんはあいつの味方するの?」

「いや、味方っていうか……ただ私は」

「ん、あー……ごめん、ちょっと言い過ぎたわね」

「別に大丈夫だよ」

 真野さんがぺこりと頭を下げてくる。私はそれほど気にはしていなかったが、彼女にとっては大したことだったらしい。

 というより、件のあいつ……相楽のことを心底嫌っているような、そんな印象を受ける。

「真野さんは相楽……くんが犯人だったらいいと思ってる?」

「何よ、突然。……別にそんなこと、思ってないわよ。ただ、あいつが犯人であることは間違いようながないんだから、さっさと誤ったらいいと思うだけ」

「ん……まあ確かにそうだよね。もし相楽……くんが犯人だったら、さっさと謝ればいいのに」

 とはいえ、謝ったところで収集のつく問題なのだろうか。

 冴羽くんはみんなからの人気者だ。その彼を貶めて、ただで済まされるとは到底思えない。何らかの制裁があると考えるのが妥当ではないだろうか。

 だったら言い出せないのも納得はできるけど、道場はできないなぁ。

 そもそも自業自得だし。

「そう言えば、どうして?」

「ん? 何が?」

「何がって……どうして相楽……くんは否定しなかったのかなって。あのままにしたら好き勝手言われるのは目に見えてるのに」

「だから、それこそがあいつが犯人であるという証拠よ。自分がやったことだから下手に否定できなかったんでしょ。そのあたりはまだ人間らしいと言えなくもないわね」

「そう……だね」

 本当にそうなのだろうか。

 私は真野さんに意見に、いまいち賛同できなかった。短い時間、少し話をしただけだったけど、あの相楽がそんなふうに思うなんてちょっと考えられないなぁ。

 私はうーむと唸っていると、真野さんは面白くなさそうにふんと鼻を鳴らした。

「ま、春野さんはまだ転校してきたバカりだからね。これから、あいつの性悪ぶりを嫌でも思い知ることになるわ」

「う、うん……」

 性悪ぶり……と言われてもピンとこない。もちろん、あの相楽がいい奴とも思えないけど、それにしたってあんな悪質ないたずらをするような奴にも見えなかった。

 私は立ち上がって、鞄を肩にかけた。

「私、そろそろ帰るね」

「ええと、私はもう少しここに残るわ」

「え? どうして?」

「あーと……まあちょっと。舜が来るから」

「んん? そう?」

 舜が来るから……とは一体どういう意味なのだろう。

 私は首を捻り、頭も捻ってみたけど、何もわからなかった。

 冴羽くんはクラス委員だから、きっとそれ関係の用事なのだろうと推測してみる。何となくありそうな話だと思ったので、それで納得しておく。

「わかった。じゃあまた明日ね」

「ええ、また明日」

 私は真野さんに手を振り、教室を出た。

 真野さんの態度に違和感を覚えつつも、帰路についた。

 

                        ◆

 

 家に帰ると、まずは鞄を床に放る。押入れから布団を引っ張り出して、枕に顔を埋めた。

「はぁぁぁ……なんかどっと疲れたぁ」

 今日は色々あったなぁ。

 私は今朝からの出来事を思い出して、そうひとりごちた。

 何とか冴羽くんにはあの落書きのことは知られずにすんだけど、それでもクラス内の雰囲気は最悪に近い。もちろん、相楽がやったなんて思ってる訳じゃないけど、あの授業中の態度といい移動教室の際に全く動かなかったことといい、凄まじく怪しいのは事実だ。

 証拠もなしに言うことではないのかもしれないけど、率直に言って私も彼が犯人なのではないかと思っている。

「……ああもう、止め止め」

 考えるのは一先ず止めよう。今は疲れを取ることに集中だ。

 私はごろんと寝返りを打ち、天井を見上げた。

「……そう言えば、何だかすごく静かだけど。お母さんいないのかな?」

 ゆっくりと上体を起こす。耳をすませてみるけど、お母さんの声は聞こえてこない。

 どうしたんだろ?

 私は布団から立ち上がり、廊下を覗く。

 シンと静まり返った家の中からはお母さんの声は少しも響いてこなかった。

 買い物にでも行ってるのかな?

 私は単純にそう思い、台所へと向かう。

 小腹が空いたなと冷蔵庫を開ける。何か食べられる物はないかな。

 しかし、冷蔵庫の中は見事なほど空だった。これでは、簡単に何か作って食べる、なんてこともできなさそうだ。私、料理とかできないけど。

 私ががっかりしつつ、冷蔵庫を閉める。と、ちょうどそのタイミングで、玄関の方から呼び鈴の音が聞こえてきた。

「はーい」

 お父さんは今、仕事中のはずだ。お母さんがいないとなると、あと出れるのは私くらいしかいない。

 私は小走りに玄関へと向かうと、勢いよく戸を開けた。

 ガラガラッと妙な音がする。

「あ、どうもこんにちは」

「こんにちは」

「シロイヌ宅急便でーす」

 緑とオレンジの制服を来たお兄さんが爽やかな笑顔で言ってくる。

「お引っ越しの荷物をお届けに来ました」

「はい、ありがとうございます」

「こちらにサインかハンコをもらえますか?」

「ええと、ここですね」

 サラサラと用紙にサインをする。

「はい。では、ありがとうございました」

 お兄さんはぺこりと一礼して、トラックへと乗り込んでいった。

 ブロロロロッとエンジン音を響かせながら、砂埃とともに立ち去っていく宅配業者。

 ……え? ええと、待って。

 私は目の前に置かれた大量のダンボール箱を見つめながら、小首を傾げた。

 これ、全部自分たちでやらないといけいないの?

 心の中に疑問符が満ちる。が、答えをくれそうなお兄さんは既に立ち去ってしまったあとだ。どうしようもない。

 私はとりあえず、お父さんを呼んで来ようと家の中へ取って返した。


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