異世界の先輩
「有難う御座いました。」
三人の女性客が出て行くと店内は一段と静かになった。
「俺は昨日まで福井の方に取材に行ってたんだけどよ、飲み屋で話してた兄ちゃんが妙な先輩がいるって言ってて、まぁ変な奴なんてのはどこにだっているし、最初はどうせ苦手な野郎の悪口だろうと思ってたんだ。ところがどっこい、話は本当に妙なものだったんで、今日ここに寄ったって訳だ。」
その古びた居酒屋は常連客と思しき人々で賑わっていた。
色褪せた手書きのメニュー、水着姿で微笑むアイドルのポスター、小型のテレビには野球中継が映っている。
譲二はカウンター席で昨日も隣り合わせた地元の青年と話していた。年の頃なら20代前半といったところだろうか、ニッカポッカを履いたその青年は唐突に話を変えた。
「俺バカだから、最初はふざけてるんじゃないかと思ったんすよ。でもあの人基本真面目だし、嘘つくようなタイプの人じゃないし、でもそんなことある訳ねーだろって…」
酒が入っているせいか、青年の話は要領を得ない。
「なんだよ、歯切れが悪ぃな。愚痴でも聞いてやるから要点をまとめて言えよ。」
青年は瞼の下がった視線を譲二に向けると、水割りを煽って言った。
「先輩は他の世界から来たって言うんすよ。」
「ケッ…くだらねぇ。」
譲二は青年の言葉を聞くや否や、コイツはその先輩に担がれたなと思った。枝豆に手を伸ばすと片手で口の中へ弾き飛ばす。
「と、思うじゃないっすかー。俺も他の奴からそんな話聞いたらぜってーそう思うけど、西井さんはそんな人じゃないんですって!ホントくそ真面目で仕事熱心だし、冗談とか言わないカタブツで…」
「まぁいいわ。じゃあなんでそんな話をお前ぇにしたんだ?」
譲二は絶えず枝豆を口に運び続ける。
「さぁ?寂しくなったからとか?そこら辺はなんも言ってなかったけど3年くらい前、朝起きたら知らない部屋にいて、西井さんになってたらしいっす。それからずっと西井さんとして今の仕事続けてきたとかなんとか。」
「んじゃあ、その西井さんは4年前は西井さんじゃなかったと?」
「らしいっす。」
「へっ…!」譲二は馬鹿にしたように笑ってかぶりを振る。
「いやいや、とりあえず最後まで聞いてくださいよ。今まで考えたこともなかったけど、西井さんの話聞いて俺なんかコワくなってきて…だって3年前のその日までは東京でリーマンやってて、フツーに奥さんとか子供とかいて、木本って苗字だったっていうんすよ?それがある朝起きたら顔も名前も違う、全く知らない男になってて、奥さんも子供もいなくて、仕事だって違ってて…お前だったらどうする?って言われて、もうなにがなんだか…。すんません!水割りもう一杯。」
青年はグラスを上げて注文すると、残った水割りを飲み干した。
「あ、俺もビールね。」
譲二は青年に便乗して注文するとようやく話に興味を持ち始めた。
「確かにおっかねーわな。けどその先輩ってのは精神病かなんかじゃねぇのか?」
「それ、俺も聞いたけど病気とかは見つかんなかったって。だから俺、その話聞いた後、それとなく他の先輩にも聞いてみたんすけど、3年くらい前に初めて西井さんが無断欠勤して、それからなんとなく雰囲気が変わったって言ってました。相変わらず真面目な奴だけど、話し方とか仕事のやり方が違うって。」
「ほぅか。けど、それが何で他の世界から来たってことになんだ?誰かと入れ替わったってんなら分かるけどよ。」
枝豆に飽きた譲二は、焼き油揚げに醤油を掛けながら問う。
「西井さん、すぐに東京行って奥さんとか子供さん探しに行ったんすよ。けど、家族に辿り着くどころか、自分の住んでた近くの駅がなかったんで途方に暮れたって。電話も掛けたけど繋がんなくて、住所自体そんな地名がなかったって言ってました。」
「はい!焼酎水割りとビールね。」
|恰幅≪かっぷく≫の良い店員がグラスとジョッキを二人の前に置く。
「どうも。それから西井さんは元の自分のことを調査会社に依頼して調べてもらったり、思いつく限りのことはしたっつってましたけど、そんな奴存在しないし、そもそも歴史とか違うことだらけだったって。色々違ってること教えてくれたけど、俺定時制卒だから歴史とかさっぱりで。でもさすがに日本初の総理大臣が坂本龍馬だったってのは笑ったっす。」
譲二もビールを吹きそうになるのをどうにか堪えた。
「坂本龍馬が暗殺されねぇで総理大臣になってたら、どんな世の中だったんだろうな!」
「よくわかんねーっすけど、こっちの世界のが色々進んでるみたいっす。便利過ぎるくらいだって。でも世の中がどうでも西井さんはやっぱ子供や奥さんがいる元の生活に戻りたいって言ってました。」
「だろうな。その話が本当なら戻れるといいな、その兄ちゃん。」
青年は水割りを飲みながら譲二を見る。
「あ。戻りました。…多分。」
「あんだって?!」
「いや、最近また西井さん無断欠勤して親方に叱られてて、それから昔の西井に戻ったってみんなに言われてて。俺にはなんかよそよそしいっつーか。そんで俺、ああ西井さんは木本さんに戻れたんだな~って思って。でもこの話俺しか知らないみたいだったんで、なんか寂しいっつーか。時々西井さん、あ、木本さんか。どーしてんのかな~とか思ったりして。」
「ふーん。ま、本人にしてみりゃ戻れて良かったわな。実際どうかは知らねぇけど。」
「ホントそこです。またどっかで別の人になってたりして…とか考えるとコワくないっすか?」
「ああ。まぁな。でも有り得るかもな。真相は藪の中だ。」
「どうせなら良い方に考えたいっすけどね。ただ俺、西井さんに言われて一番コワいと思ったのは、“お前が普段見たり、聞いたりして当たり前だと思ってることが真実とは限らないぞ?明日も朝日が昇って夕日が沈むって誰が保障してくれる?学校で教わらなかったことがいくらでも起こり得るんだ”って言われたことっす。だってそんなこと誰も考えないっすよね?だから毎日そんなこと考えてたら疲れそうっすねって言ったら笑ってました。でも、だったら考えなくてもいいけど、当たり前のことに感謝しろって。給料少ねぇとか、女にモテないとか小さいことうだうだ言ってないで、自分を生きてることに実感を持って感謝しろって。」
自分で言うだけあって、頭が悪そうだと思っていた青年から妙に哲学的なことを言われて譲二は驚いた。
「ま、確かに四六時中そんなこと考えてたらキリがねぇが、先輩の残した教訓としては良かったんじゃねぇの?」
「自分もそう思うっす。多分一生忘れない。」
青年は視線を前に向け、静かに笑うと、ゆっくりと水割りを口に運んだ。
「そうきましたか。神隠しの様に人が消えるお話は度々聞きますが、どこかからやって来るパターンは珍しいですね。」
店主の言葉に糸川も頷く。
「面白かったです。結局その先輩がどうなったのか気になるけど、話してくれた人にとっても貴重な体験だっただろうし…あ~、でもその人どうなったかやっぱ気になります!」
「糸川さんならこのお話、どれにします?」
店主はメニュー表を持ち上げる。
「そうだな。来店記念におネエちゃんが決めてくれよ。」
譲二も糸川の方に身体を向ける。
「え!私的には全然ケーキでオッケーだと思いますけど、採点甘いですか?」
店主と譲二はくっくと笑う。
「甘ぇな!」
「いえいえ、今日はそれでいきましょう。不思議な体験は時に体験者を成長させるきっかけとなります。そういう意味でも聞き応えがありました。」
店主はケーキのメニュー表を譲二に渡し、伝票にαと記入した。
「おぉー!今日はツイてんな。じゃ、モンブラン。」
「かしこまりました。」
「ちなみにマスターだったらどれでしたか?」
今更ながら正解を求めて糸川が尋ねる。
「正直考え中でした。迷ったので糸川さんにご判断頂いた次第です。」
「え~じゃあ譲二さんは?甘いって言ってたけど、自己採点だとどれくらい?」
「そうだな~。今日の糸川ちゃんと同等じゃねぇか?ドリンクと飴。」
「そうなんですか?私の話微妙でしたけど。」
「そんなことないですよ。確かにご来店記念で甘めでしたが。」
「うう…やっぱ来店記念っていうのがデカイですよね…なんかツラい。」
「今後のお話も楽しみにしています。」
糸川に向けて微笑むと、店主はトングを取り出し、またバッグヤードへと入って行った。
「まぁ、そう落ち込むなって。俺もマスターの満足いく話を持って来んのが趣味みたいになってんだ。だから言ったろ?俺だって未だにキャンディーのこともある。それだけにこういう日があると嬉しいんだ。」
譲二は新聞を片手に身振り手振りを大きくしながら糸川を慰めた。
「まいどー。」
ドアベルが鳴ると同時に段ボール箱を抱え、前掛けを着けた中年女が入って来た。
「よう。今日は早ぇーな。」
「量が少なかったからね。なっちゃーん、アイスティーちょうだーい!」
女はカウンターに段ボール箱を置くと、店員に声を掛けた。
「あら、どうも!」
糸川に気付くと笑顔で会釈する。
「こんにちは!」
糸川も慌てて頭を下げる。
「商店街で問屋やってる良子さんだ。こっちは今日が初めての糸川ちゃん。」
譲二が簡易的にそれぞれの紹介をすると、良子は快活に言った。
「あら!いいじゃない!若い女性のお客さんが増えるなんて楽しくなりそう!」
「はぁ…持って来た話はイマイチでしたけど。」
「いいのいいの。若い娘が増えれば賑やかだわ。あ、マスター今日の分ね。」
カウンターに戻った店主に視線を移すと、段ボールの脇をポンポンと叩く。
「ご苦労様です。」そういって店主は譲二の前にモンブランを置いた。
「あらー!すごいじゃない!やったわね。」
今度は譲二の背中を叩く。
「へへ。たまにはな。」
「お待たせしました。」
「はい、ありがと。」
店員の夏美は良子の前にアイスティーを置くと、段ボールを抱えてバッグヤードへと消えて行った。
「ねぇねぇ、キリがいいなら私も一ついい?」
ストローから口を離すと思い出したように手を挙げる。
「もちろんです。お二人も宜しいですか?」
「はい、是非。」
糸川が前のめりに頷く。
「さぁ、行ってみよう!」
譲二も軽快にフォークを振る。
店の外では5時を知らせるメロディーが流れ始めた。