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「だってお母さんはミナちゃんのお母さんだもの」
私が近所の子に意地悪をされて泣いて帰ると、母はいつもそういって、きゅうっと抱きしめてきた。頬にあたる胸は薄っぺらで、世の母親らしいふくよかな柔らかさは何もなかったけれど、それが私の母の胸で、生まれた時から馴染んできた感触で。母の細い太ももの上で二の腕にしがみつき、いつもどおりの不安定さに安心した。
母は、とんとん、と私の背中を叩く。お馬の親子だったり春よ来いだったりのリズムに合わせ、私を抱いて座り込んだままゆっくり体を揺らして、とん、とん、とん。
そうやって、いつのまにか私の頭の上で寝てしまう、そんな母だった。
前髪を眉毛の上で切り落とし、肩までさらりと流れる黒髪。化粧なんてしなくても陶磁器のように白い肌。切れ長の目じりは涼やかで。我が家の一部屋を占領しているいくつもの日本人形たちそのままの童女。この部屋は今でも少し苦手。端正な顔立ち、チリ一つかぶることなく艶光りする髪。何代も我が家とつきあいの続いている人形師が時折訪れ、手入れを重ねている。そこにある人形は、全てその人形師の一族が作りつづけているらしい。華やかな振袖をまとったその日本人形達に取り囲まれる部屋。その部屋で母は一日の殆どを過ごす。昔と一つも変わらない皺も邪気もない笑顔は、母自身がその人形達の化身でもあるかのよう。
幼稚園の友だちとのままごと遊びに入れて欲しがる母。入れてもらえなければ、ぽろぽろと大粒の涙をこぼす。
そんな母で。
私が意地悪をされる原因の大半は母のことで。
母には言えなかった。私が泣くと、訳もわからないまま一緒に泣いてしまったりする母に、なんでそんなことが言えるだろう。母が泣いてしまったときは、普通の母親をもつ友だちを妬ましくも思いながら「お母さん、一緒にクッキー焼こう?」と、気分を切り替えさせた。母は家事なんて一切する必要がなかった。使用人がいたから。だから私が幼稚園で習ったクッキーを作るのは母にとって楽しいイベントでもあるのだ。
一緒に泣いてしまう時は、私のほうが先に泣き止んだ。一緒に泣かなかったときは、母は先に寝てしまった。それでも母に抱かれるのは心地よく。
母は16歳で私を身篭った。
所謂旧家である私の家は裕福な資産家でもあり、祖父が連れてきた父は婿養子だった。しきたりなのかなんなのか、直系の女性は皆早婚で、祖母も十代で母を産んだと聞いている。祖母の顔を私は知らない。私が生まれる直前に亡くなったらしい。直系の女性は何故か早くに亡くなることも多く早婚なのはそのためかもしれない。祖父は私が中学2年の冬に亡くなった。すっかり私の縁談をまとめあげるつもりだったらしく、高校へ進学することも猛反対していた。今時高校にも行かずに縁談を組まれるなんてぞっとする。祖父が亡くなったことで縁談も流れ、申し訳ないがほっとした。遠縁の親族は私の縁談に関してなんやかんやと口を出してきていたが、父がはねのけたらしい。おだやかで口数の少ない父にしてはやるものだと驚いた。
「ねぇ、こうこうってどういうところ?」
一番のお気に入りの日本人形を抱え、首をかしげながら聞いてきた。私が物心ついたときにはもうこの人形をいつも抱えていた。手入れは十分されているし、着替えもいくつもある。母はこどもの頃からこの人形を抱えているのだろうか。いくら手入れをしていてもその割にはあまりにも新品同様にきれい。もっとも母はあまり走り回ったりするような活動的なこどもではなかったのかもしれない。今でも一番のお気に入りは、天気のいい日に庭でお茶をすることだし。
「勉強するとこ」
中学2年の冬の初めだっただろうか。確か祖父が亡くなる直前だったと思う。期末試験のための勉強をしていたところだったから。
母は寝巻きに着替えて私の部屋を訪ねてきた。勿論人形も母とそろいの寝巻きに着替えさせられている。
「ふぅん、ミナちゃん、お勉強好きなの?」
「好き、っていうか、嫌いじゃないけど」
「こうこう、行かないとこまる?」
「だって今時高校も行かないと就職だって困るじゃない。友だちも行くから行きたいよ」
わかってるのかわかってないのか、いや、わかってはいないのだろうし、この母なんだからそれは当然なのだけど、きょとんとした顔にいらいらした。母は日本人形の頭に唇つけるようにして考え込む。
「しゅうしょくってできないとこまるんだ? ミナちゃんがこまるのはこまったなぁ。こうこう、いったあとでお嫁さんになるの?」
「結婚なんて嫌だよ! 大学だって行きたいし、まだ私14歳なんだよ?!」
思わず叫んでしまって、母がびっくりしないかと一瞬心配になったが、彼女なりに真剣に考えているのか反応が無くて拍子抜けした。びっくりして泣くかと思ったから。
「だいがくってとこにもいきたいんだぁ。そっかぁ。お嫁さん、イヤ?」
「……嫌っていうか……なんでそんなこと聞くの?」
「だってお母さんだもの」
ちょっぴり頬を膨らませて、母として当然のことを話してるのだと言わんばかりの顔をしてみせてるのがおかしかった。そりゃ、うちは裕福だから働かなくても困らないかもしれないけど……。というか、よその家では、高校のランクやらで親子ともども色々と相談しているだろうに、うちは会話のスタートからして少しずれている。
母のように殆ど家からでることもなく、家事の一切もすることなく、広い庭を散歩したり、お気に入りの人形に話し掛けてみたりほお擦りしたりして過ごす毎日。母はとても幸せそうに見えるけれども。それは「母だから」楽しいのだとも思う。
「お母さん、お父さんのこと好き?」
「ダイスキ」
間髪いれずに答える母。同じクラスの女子が好きな男子の話でもするかのように頬が赤らんで輝く。祖父が連れてきたんだから、父とは見合いのはずだ。でも、母は父と出会う前に恋の一つもしたことがあるのだろうか。愚問だ。この母だもの。
父は本当に母を大切にしている。母の動作を微笑んで見守る視線は娘の私でも気恥ずかしくなるほど。今は庭のどの花がキレイだとか、天気がよかったから気持ちよくて庭で昼寝をしたとか、そんな他愛のない話をうなずきながら聞きつづける。下世話な話だけれども、この二人の夫婦生活ってものが今でも想像できない。
母は幸せかもしれない。でも私は嫌だ。私は母とは違うもの。
「そのうちお嫁さんにもなるかもしれないけど、まだ嫌」
「そっかぁ」
母は日本人形を抱きしめたまま部屋から出て行った。あくびもしてたから眠くなったんだろう。一体何しに来たのか。
詳しくはよく知らないが、父は資産の管理やいくつか経営している会社の指示を家から出している。それでも出かけることは多い。普段家にいるときは殆ど母の相手をして過ごしている。あの日本人形が飾られている部屋で、母と話してることが多い。まさか二人でお人形遊びをしてるわけでもないとは思うが、母のお気に入りの部屋だからだろう。
私は高校へ進学し、大学も卒業した。表向きは父とも親戚とも関係のない企業に就職し、ごく普通の会社員をしていた。おそらく裏で父の口利きはあったのかもしれないが。
時折顔を合わせる親戚は「まだ結婚しないのか」とせっつく。ただ、それほどではない。同僚の話を聞く限りでは、26にもなるとかなりなプレッシャーがかかるものらしいのだけど、なんといってもうちは父も母も私の縁談に無関心なのかと思うほどに何も言わないのだ。一応付き合っている男性はいる。ごく普通の人。転勤でよその土地から来た人で、私の家のことなんてよく知らない人。そろそろ頃合なのかも知れないと思う。
「お父さん、会って欲しい人がいるんだけど」
父は、隣にちょこんと座る母の肩をそっと抱き寄せた。いつもどおりの穏やかな声で、いつでも連れておいでと。なんで目を伏せながら言うのかしら。父親として複雑だというところなのだろうか。普通の家庭なら、母親が解説の一つでもしてくれそうなものだけど(ドラマではよく見る光景だ)、うちの母ではそれは期待できない。
「ミナちゃん、お嫁さんになるの?」
父の肩に擦り寄りながら、母は私の目をじっと見つめる。
「まだわかんないけど、そうなるかも……ねぇ、お父さん、反対?」
「反対? まさか」
でも、やはり父は母のほうだけを見つめている。私を見ない。
「そっか。多分、結婚、すると思うのね。……今まで、好きにさせてくれてありがとう。おじいちゃんが亡くなってなかったら、とっくに結婚させられてただろうし。親戚もうるさかったでしょう。でも、そろそろ」
父がやっと私を見た。
「だって、お母さんだもの」
何か父が言いかけたとき、母が唐突に口を開いた。いや、唐突に何か喋り出すのはいつものことなんだけど。
「お母さん、お人形さんにちゃんとお願いしたんだもん」
「え?」
「ミナちゃんがしたいことできますようにって」
にっこりと微笑んだ母の顔は、どこか、いつもと違って。そう、今まさに母が抱いているお気に入りの人形の笑顔にそっくりで。
父は母へ視線を移し、髪を撫でた。
「そうだね、親は、娘の幸せだけを望むものだから」
父は私に言っているのか、母に言っているのかわからない言葉を呟き、さぁ寝る時間だよと母を立ち上がらせ。
「……お前の縁談をはねのけたのは、お母さんだよ」
父が冗談を言うなんて聞いたことが無い。あの母にそんなことが? まさか。
彼は家の広さと古さに驚いたようだった。ソファに沈むお尻の位置を居心地が悪そうに何度も変えている。父は使用人が用意した紅茶を一口すすった。なんだか少し顔色が悪いような気がする。父も緊張してるのだろうか。
「お母さんは?」
「いつもの部屋にいるよ。……呼んでこよう。悪いけど、お待ちいただけるかな」
父は彼にそう言って部屋から出て行った。彼がふぅっと息をつく。本当に凄い家柄だったんだねと何度目かの呟き。その呟きの裏に何だか嫌な気配を感じる。逃げ出したくなったのかしら。それとも?
彼に「母のこと」を詳しく話せてない。どうしても言えなかった。こどもの頃とは違う。私は母を恥ずかしく思ったりはしてない。でも言えなかった。家のことも詳しくは話せなかった。彼は今何を思っているだろう。彼はきっと全てちゃんと話しても変わらないだろうと思った。だから彼を選んだ。そう思ってたはずなのに、なんで話せなかったのだろう。
幼い頃私に意地悪をした人たちは、今は卑屈なほどにやさしい。小学校も高学年にあがるころには、私への扱いが変わってきてた。意地悪な視線はそのままなのに、態度だけが違ってきてた。自分たちの親と、私の親との関わりを認識しだすころだ。近所の大半が、なんらかの形で父の会社と関わりを持つ仕事についていた。それに気がついたのが中学に入る前。誰もが、「私」を「私」として見てないことに気がついた。
彼は、「私」を見続けてくれるだろうか。
その日、母が彼に会うことはできなかった。母を連れて部屋に戻ろうとした父が廊下で倒れてしまったから。救急車を呼び、彼にはとりあえず帰ってもらった。鳴り響くサイレンすら聞こえないように、抱いた人形と同じ無表情で母は父の側にずっといた。父の指を軽く握った左手とは対照的に、人形をきつく握り締めた右手指の関節は真っ白で。
母はずっと何かを呟いていた。処置を待っている間の病院の廊下でも、病室でも。
はっきりと喋ったのは、病室に飛び込んできた親類に容態を説明するために席を外そうとしたとき、その時の言葉だけ。
「お父さんはだいじょうぶ。お人形さんにお願いしたもの」
「ミナさんがしっかりしないと」
わかってるわよ。
「なんだか、お客様がいらしてたそうだけど」
どこから聞いて来るんだか。叔母の芋虫みたいな指にびっちりと巻きつく数々の宝石を見つめる。
「今日はお引取り頂きました。大丈夫ですから」
「……おつき合いしてる方だったのでしょう?」
ほんとに恐れ入る。使用人に息がかかってるものがいるのだろうけど。
「お母様、なんておっしゃってた?」
いいかげんにしてほしい。
「まだ、母には会ってませんでした。その前に父が倒れましたので」
「あらぁ……そう」
何故、父がなんていってたのか聞かないのだろう。いつもそう。親戚はいつでも母の言動を気にする。そりゃ父は婿養子だけれども、家や会社を切り盛りしていたのは父なのに。今ベッドに横たわってるのは父なのに。芋虫はいっそうせわしなく蠢く。
「お母様にちゃんと会っていただかないと」
なんなの一体。父の容態を聞きにきたのではないの。
「あなたのお母様はのんびりしてらっしゃるから……だから早く決めなくちゃいけなかったのに」
のんびりもなにも何を言っているのか。決めるってなんなのよ。
「……父が気になりますので、部屋に戻らせていただきたいのですが」
「ミナさん、あなたがしっかりしないと」
「わかってます」
わかってるってば。
父はそれからまもなく息を引き取ってしまった。
通夜の間中、母はぼんやりと遺影を見つめてた。
親族だけが集まった広間で、それぞれがぼそぼそと囁き合っている。母は一人離れて、襖に寄りかかり足を投げ出して座り込んでいた。手には、自分とそろいの喪服を着たいつもの人形を持っている。
「へんね」
母が発した一言に、親族が水を打ったように静まり返った。
「ちゃんとお願いしたのに」
涙一つ見せもしない親族のうちの一人が、無理なこともあるんですよと母に近づく。
「来ないで」
ぴしゃりと母の声が響いた。
見たことの無い表情。いえ、ある。あの人形のあふれかえる部屋で。
棚に整然と並んだ人形たちと同じ表情。
静かに、見下ろす。
部屋を出ていった母を追おうとしたときに、芋虫の叔母が私の腕を引いた。
「ミナさん、あなた何も聞いてない?」
「……何をですか」
「だから、家のこととか、会社のこととか、その」
「もうそんな話ですか? やめてください」
「あなた、本当にまだ何も聞いてないのね」
「弁護士がいるでしょう。そちらからお聞きになったら?」
「弁護士なんて……」
いいかげんにしてったら。
「あ、お父さん、見つけた」
社葬は行わなかった。父はそういった派手なものを好む人ではなかったし、うちは代々お葬式はひっそりと行うしきたりでもあるらしかった。それでも親族や親しい付き合いのあった人たちが集まれば300人をゆうに超える。その告別式も終わり、弔問客がぞろぞろと去り始める頃、それまでずっとぼんやりとしていた母が嬉しそうに声を上げた。蝶を追うように、空を指差して。
弔問客はその先を見上げ、戸惑いながらお互いの顔を見合わせ、母から眼をそらす。
輝くような笑顔で空の一点を見上げ駆け出そうとする母。
いつも抱いている人形を取り落とし、両手を空に広げて。
引きとめようとしたとき、母はぴたりと立ち止まり振り向いた。
ままごと遊びにいれてもらえなかったときのように、大粒の涙をほろほろとこぼしながら。
「ねぇ、ミナちゃん、お父さんがこっち来ちゃダメって言うよ。なんでかなぁ」
初七日が過ぎても、彼からの連絡は途絶えたままだった。
彼は告別式に列席していた。
そういうこと、なんだろう。
親族がまた集まった夜、芋虫の叔母が母の様子を聞いてきた。
母は人形の部屋から出てこない。
「ミナさん、あの部屋に行ってきて欲しいの」
「何故ですか」
あの部屋は苦手なのに。なにより母をそっとしておいてあげたいとは思わないのか。
「……うちの一族がいくつも会社を経営してるのはご存知よね? お父様が亡くなっても、会社は動いていかなくちゃいけないの」
「それと母と何の関係があるんですか」
ああ、もう、だいきらいだいきらいだいきらい。みんな出て行ってよ。
「私たちは、あの部屋には入れないのよ。お母様と一緒にあの部屋に入ることを許されているのは、あなたと亡くなったお父様だけなの。だから」
手にもっていた紅茶のカップを壁に叩きつけた。
壁に薄茶の染みが流れていく。
誰一人、眉さえもひそめない。
雛人形みたい。
三人官女、五人ばやし、右大臣に左大臣。
どいつもこいつも気取った顔して。
ずっと涙一つこぼさないで。
「ミナちゃん、誰かにいじわるされたの?」
母がいつの間にか戸口に立っていた。
叔母が息を呑んだ。
「違いますよ。た、ただ、お願いしてただけで、ね、ねぇ? ミナさん」
他の親戚も口々に同意する。控えめに。
「……ミナちゃん、ほんと?」
首をかしげる姿はいつもの母と何一つ変わらない。
「ええ、何も。誰もいじわるなんかしてないわ」
「ミナちゃんにいじわるしたら、許さないんだから」
叔母の顔色が目に見えて変わっていく。脂汗まで流して。ばかばかしい。
「で、でも、もう、指示をもらえないと」
……指示? 何言ってるの。この叔母さん。
「ミナちゃん、お部屋いこ? お部屋で遊ぼ?」
母は叔母の言葉など聞こえないかのように、親族など部屋にいないかのように、私の手をひいた。
叔母達に、先ほど聞いた数字と単語の羅列を伝えた。
みんな必死に書き写し、それぞれが携帯で次々にわめき散らした。
父が、母とあの部屋で何をしていたか、ようやくわかった。
母の顔色を皆が伺う理由もわかった。
家を、会社を、全て切り盛りしていたのは母だった。
母はいつものように人形遊びをしているだけ。
でも語る言葉は。
あのいくつもの人形達に見下ろされる部屋で。
二人で向き合っているけど、母は私を見ていない。
時折、違う人形に問いかけ、私には聞こえない答えに頷き、それを呟く。
母の視線に合わせ、人形の顔を目で追う
人形は、それぞれ全く違う顔立ちをしていることに初めて気がついた。
整っていて、どこかしらよく似てはいるけども、やっぱり違う。
母のお気に入りの人形には、口元に小さなホクロがある。
今さっき問い掛けた上から2番目の棚に飾られている人形は髪の色合いが他のものと少し違う。
目元にホクロのある人形。
片目だけ二重の人形。
睫毛の長さまで、それぞれが違う。
人形は当然動きもしなければ、口を開いたりもしない。
けれども、見上げるうちに取り囲まれ、人形達がぐるぐると踊りながら私の視界をふさぐ錯覚。
その錯覚の中の人形のうちの一つは母と全く同じ顔をしている。
船酔いでもしているようなぐらつきを抑えて、母の言葉を必死に書きとめた。
母の言葉は明確な指示ではない。それだけならばただの情報にすぎない。
ほんの少し先の未来の情報。
父がしていた仕事は、その母の言葉を理解し、適切な指示に変換し、適切な場所に振り分けることだった。今は私が受け継いでいる。最初は親族の協力が必要だった。私には「適切な指示と適切な場所」がわからないから。
でももうそれも慣れた。会社は辞めた。
母とあの部屋に篭ったり、庭でひなたぼっこをする毎日にも慣れ始めた頃、ふと思い出したように母が呟いた。
「ねぇ、ミナちゃんて、お嫁さんになるんじゃなかったっけ?」
つい吹き出した。もう彼と連絡がとれなくなってから3月になる。
「うん、やめちゃった」
「そっかぁ。うん。お母さんもね、あの人のお嫁さんはやめたほうがいいんじゃないかなぁって思ってたんだ」
「……そうなの? あら? お母さん、あの人に会ってないでしょ」
「おうちにいたらわかるもん。お人形さんが教えてくれるよ」
柔らかな午後の日差し。紅茶は揺れる葉陰を映し出している。そうね。母にならわかっていただろう。母の言葉の重さは、今は私も十分理解している。
「あの人はね、ミナちゃんのおはなしを聞いてくれないよ」
「そう、うん、そうだったみたい」
「お父さんみたいな人じゃなくちゃ」
自信に満ちた表情の母の視線は、空の一点を見つめている。
そこに、父がいるのだろうか。
母は私に聞こえない言葉を聞き、私に見えないものを見る。
あの穏やかな顔で、今も父は母を見つめているのだろうか。
「私のだんなさんもおじいちゃんに任せていたら、お父さんみたいな人連れてきてくれたのかしら」
今度は母が吹き出した。人形と額をくっつき合わせて笑ってる。
「なぁに? お母さん、どうしたの?」
「お父さんを選んだのは、お母様だもの。あなたのおばあちゃま。ね?」
母は人形に同意を求める。
「なんだ。そうなんだ? じゃあ、私はやっぱり自分でお父さんのような人を捕まえなきゃいけないんだ」
「ミナちゃんのだんな様は、お母さんとおばあちゃまでちゃんと探してあげる」
「……だって、おばあちゃまって」
どこかよく似たいくつもの人形たち。
母の手にしている人形も、やっぱり部屋の人形たちとよく似ている。
そして、母も、人形たちによく似ている。
思わず自分の頬を指でなぞった。
母と私の顔立ちは、よく似ている。
だって、親子だもの。
「おじいちゃまもねぇ、おばあちゃまのお母様が選んだんだけど、しっぱいしちゃったんだって。だからおばあちゃまはお母さんのだんなさんは一生懸命選んだんだって」
母は時折手にした人形の口元に耳をもっていく。かすかに頷きながら。
「……失敗?」
「うん。お母さんねぇ、ミナちゃんのおじいちゃま、あんまり好きじゃなかったもの。おばあちゃまのお話をちゃんと聞かないし。お母さん、ちゃんとおじいちゃまに教えてあげたんだよ? おばあちゃまがミナちゃんの好きなようにさせてあげなさいって言ってるよって。でもちゃんと聞かないから、おばあちゃま、怒っちゃった」
祖母は、私が生まれる直前に亡くなったって……。
「お母さんもちょっと怒っちゃったよ。だって、お母さんはミナちゃんのお母さんだもん。ミナちゃんがこまることはこまっちゃう」
母の顔色をうかがう親族。
母の許さないという言葉に顔色を変えた芋虫の叔母。
お母さん。あなたは、何をお願いしたの。
次の年の春、私は結婚をした。芋虫の叔母が連れてきた人と。
とても優しい人。どこか父と面影が重なる。
母とあの部屋から出てくる私の髪をそっとなで、お疲れ様と肩を抱いてくれる。
2年目の春にようやく身篭ったとき、夫は嬉しそうな、どこか悲しそうな複雑な表情で祝ってくれた。見たことのある表情だと思った。夫が前に見せた表情じゃない。父が、そう、私が「会って欲しい人がいる」と告げた時の、父が見せた表情と、よく似ていた。
話によると、ぼんやりすることが増えるタイプのつわりがあると聞く。
私はそのタイプのつわりらしい。
なんだか、一日があっという間に過ぎていく。
庭の光が一段と柔らかく、透明さを増し、心地よい。
母は床についたままな日が増えていった。
枕もとには二つの人形。
いつも母が抱いていた人形と、つい先日人形師が納めていったばかりの、涼やかな切れ長の目元の人形。
床に伏せた母の顔立ちはそれでもやはり衰えることはなく、新しい人形と寸分たがわぬほどの美しさのまま。
「いつもいっしょだから。だってお母さんは、ミナちゃんのお母さんだもの」
泣きじゃくる私の手をにぎって、おかあさんは目をとじた。
「あ、ミカちゃんがかえってくるよ。泣いてるみたい」
「……そう、じゃあ、お仕事はこれくらいにして行っておいで」
おとうさんはぱたんと、テレビみたいなのがうつってる機械をたたんだ。おとうさんに髪をなでられるのはダイスキ。いってきますとお部屋のお人形さんたちとおとうさんにあいさつをしてミカちゃんをおむかえにいった。
ミカちゃんは泣き虫さん。なんでいつもお外からかえってくると泣いてるんだろう。わたしも悲しくなってしまう。いつも私といっしょのお人形さんに横にすわってもらって、ミカちゃんをおひざにのせて、抱っこして、背中をとん、とん、とんってしてあげる。
なんのうたがいいかなぁ。おうまのおやこにしようか。ちょうちょうにしようか。
ミカちゃんの髪にほっぺをすりすりするのもダイスキ。いいきもち。
「お馬の親子がいいみたいよ」
隣にすわっているお人形さんが教えてくれる。切れ長のきれいなめ。
ミカちゃんにうたってあげる。
お人形さんもいっしょにうたってくれる。
お人形さんのうたはだいすき。きもちよくて眠っちゃう。
ミカちゃんの背中をとん、とん、とん。
「ミナちゃん、おうた上手ねぇ。ミカちゃんも大好きだって。ミナちゃんのおうた」
今日もいいてんき。おひさまがやわらかくていいきもち。
ミカちゃんがきゅうっとしがみついてくるのもいいきもち。
ミカちゃん、ダイスキ。
「だって、お母さんは、ミカちゃんのお母さんだもん」




