桜子さん29歳の誕生日
桜子さん20代最後の誕生日なので恥を忍んで更新する。
扇桜子、29歳。いよいよ人生崖っぷちである。
7月20日、旧海の日は桜子の誕生日だ。何を思って夏生まれの彼女に桜の名をつけたのかは、2人の兄が梅彦、桃太郎というところから察してもらうよりほかはない。桜子はオタク気質の2人の兄に囲まれ、健全なオタク女子として育った。コスプレやゲームをよく好み、利発で器量よしの女性に育った。
18歳で女子短大に入って以降、あまり出会いの場がなかったとはいえ、人並みの人付き合いを重ねてきた桜子であるが、彼女も今年で29歳だ。
彼氏も恋人もいないまま、とうとう29歳だ。
いよいよ、人生崖っぷちであった。
「結婚……、しようと思うんですが」
桜子がぼそっと言ったのを聞いて、一朗がちらりと顔をあげる。
「良いんじゃないかな」
そう言って、顔を下げる。彼はソファに腰かけたまま、桜子の淹れたコーヒーを片手に、タブレットで新聞を読んでた。いつもの一朗の、いつもの光景だ。桜子の打ち明ける一大決心に、さして興味はなさそうであった。
「それだけですか?」
「桜子さん、7月に入ってから妙にそわそわしていたから。言うんじゃないかとは思っていた」
「むー……」
日付は7月19日、時刻は深夜である。カチカチと秒針が時を刻むたび、桜子の焦燥は大きくなりつつあった。もうすぐ20日が来る。20日が来れば、28歳から29歳になる。20代最後の1年が始まるのだ。
結婚なんてそう急ぐものでもないと思うのだが、正直、今しなければ永遠にしないような気もしている。このまま5年、10年と時が嵩んで、40歳の自分を想像してみる。意外としっくりメイドをやっていることが用意に思い込んで、ついでに言うと、そこには老いなど一切感じさせない一朗の姿もあって、桜子はげんなりしてしまうのであった。
婚活をしよう。桜子はそう決めた。
今までだって、実はしようしようと考えてきたが、サボっていたのが婚活である。だって正直、知らない人と結婚とかなんか怖いし。
それに、だ。
「結婚したら、辞めなきゃいけないですよねぇ……」
「ん、僕は構わないけど。一般論ではまぁそうじゃないかな。住み込みだしね」
「うう……」
現職場の理想的な環境を手放すのにも、躊躇があった。
食材はすべて経費で好きなものを買い放題だし、家の中のゲーム設備は使い放題だし、当然給料も良い。ちょっと前まで一緒にゲームをやってくれることもあまりなかった雇い主は、最近は一緒によく遊んでくれる。結婚すればこれが総て失われるのだと思うと、当然、婚活に求めるラインも高くなってくるわけで。一時期ネットでよく見た、『自分を客観的に見れないで相手には高年収を求めるイタいアラサー』みたいになってしまう。
それくらいなら、もういっそ、結婚しなくてもいいんじゃないかな、とすら思う。しかしその惰弱な考えを受け入れて、1年後に後悔をするのも自分だ。29歳と30歳の間に隔てられた壁は大きく、溝は深い。
「桜子さん、すごい顔してるね」
「なりますよそりゃあ……。だって、その、私が相手に求める条件、すごく高くなりそうで……。妥協した方が良いとはわかってるんですけど……」
「そんなこともないんじゃない?」
一朗はテーブルの上にタブレットを置いて、両手を組む。
「桜子さんには、相手の条件を吊り上げるに足る立派なステータスがある」
「えっ、そ、そうですかっ!?」
「僕の家の使用人ということだ」
「うわー」
特に自信をみなぎらせるわけでもなく、さも当然のように言ってのける一朗を見て、桜子は久々にドン引きの表情を見せる。そう言えば彼はこんなことを言う男だった。
「そう嫌な顔をするものでもない。桜子さん、僕が結婚を世話したい女性がいると言えば、是非と言う人は多いと思うんだけど。老若男女を問わず」
「いや、えーっと。とりあえず男性だけで良いです」
「声かけてみようか?」
「あ、う、うーんと、はい。お願いします」
それって一種の政略結婚では? と思わないこともなかったが、そもそも婚活を始める時点で恋愛結婚ではないのだ。今更な話ではある。
一朗はスマートフォンを弄り始めていた。一朗のツテで拾ってくる縁談なら、確かに生活水準が落ちることもないだろうし、そんな悪い人ということもないだろう。そのまま結婚して人生イージーモードだ。多少の苦難はあれど、幸せな老後に向けての道が開けるには違いない。
違いないのだが。
平然と連絡を取る一朗を見て、なんとなく釈然としないものを感じてもいた。
「一朗さまは、私が結婚するの寂しくないですか?」
「ナンセンス」
いつもの調子で、いつもの言葉を一朗が吐く。
「別に死ぬわけでもないし、会えなくなるわけではない。関係に決定的な変化が生じることは間違いないけど、それは今回に限ったことではないし」
「はー。まーそりゃーそーですよねー」
桜子はテーブルに両肘をついて、唇を尖らせた。
「それをさておいて、桜子さんが僕の元から去るというのは損失だから、それについての懸念はある」
「まぁ、それくらいは思ってもらわなきゃやってらんないですけどね」
一朗はどうせ結婚しないだろうし、焦りもないんだろうな、と桜子は思った。お嫁さんくらいもらったらどうですか、とからかってみれば、『僕は生物として完成しているので結婚に興味はない』などと気持ちの悪いことを言う。まぁそのからかいも最近はしなくなった。カウンターの『桜子さんはお嫁に行かないの?』という返しが、深刻なダメージになってきたからだ。
「しかし、結局私の価値は一朗さまに依存することになっちゃうんですかねぇ……」
「そこで卑屈になる必要はないよ。桜子さんは家事ができるし、それに――」
言葉を区切り、一朗は天井を見上げる。
「美人だからね」
「おー」
桜子はそこで驚き、身を乗り出した。
「一朗さまにそう言われたの初めてですね」
「僕の主観の話ではあるけどね」
「そう言われると一気に自信を失くしますね」
一朗は、いくらかの知り合いに連絡をつけたようだった。タブレットに一覧を作成して、桜子に見せてくる。目眩がするような、名だたる政界財界の大物が、ずらりと名前を連ねていた。もちろん日本人に限らない。老若男女と言ったが確かに年齢も幅広い。
「え、これ……全部そうですか?」
「一応ね」
最初は呆然とし、そしてしばらく真剣に眺めていた桜子だが、なんだか急に面倒くさくなってきてしまった。
どうもここに並んでいる名前と結婚し、家庭を持つというのがピンと来ない。思考を働かせて必死にビジョンを思い浮かべようとするのは、実に億劫な作業だった。どんな環境であっても、それなりにやっていく自信はあるし、生活水準が下がらないのであれば文句はない。遊び相手だって、探せばなんとかなりそうではある。
桜子はここでようやく、結局自分は何か理由をつけて婚活をサボりたいだけなのだと理解した。
「………」
「どうかな、桜子さん」
「……あと半年は、焦らなくていいやって気がしてきました」
あとやっぱり知らない人と結婚とかなんか怖いし。
「ん、わかった」
一朗はそう言って何故か笑うと、桜子の突き返してきたタブレット端末を受け取る。
「その、さもありなん、みたいな顔するの、やめてもらえません……?」
「ナンセンス。実際にさもありなんと思ったんだから仕方がないね」
その見透かしたような顔はいつも通りに腹立たしくて、桜子は少し安堵する。
一朗はタブレット端末を弄りながら、桜子をちらりと見る。
「桜子さん、シャドバやる?」
「やりましょう!!」
「即答だね」
「このモヤモヤを吹き飛ばせるなら、たとえボコボコにされるとわかっていてもやりますよ! えーっと、部屋番はですねー……」
言いかけた直後、壁にかけていた時計が日付の移り変わりを告げる。桜子はスマートフォンを片手に、びくりと肩を震わせた。
「……桜子さん、誕生日おめでとう」
「あ、はい。ありがとうございマス」
「気持ちはわかるけど、あと1年、悔いの残らないように生きた方が良いよ」
「な、なんせんすッ!」
桜子はびしっと立ち上がり、スマホを勢いよく一朗に向けて突き付ける。
「20代最後の1年、幸先の良いスタートを切るために、まずはシャドバで一朗さまをボコボコにします!!」
「ん、結構」
いきり立つ桜子の態度は、どうやら一朗にとっては偉く愉快なものであるらしかった。
なお、その後の顛末については割愛する。筆者としても、桜子の20代最後の1年、いきなり泥を塗りたくはないのだ。




