23.おかし
貯金通帳に記された数字を眺めていると、自然と溜息がこぼれる。毎日見ても決して増えることはないのにもう習慣になってしまっていた。
「数字というのはどうしてこうも毅然としていて美しいのだろうか。人間のことなど知るかと言わんばかりに揺るぎなく存在し、ただ事実だけを突きつけてくる」
「はぁ、そうだな」
意味不明なことを口走る凛に適当に相槌を打ってヒメは朝食のカップラーメン塩味に向き直る。ヒメの今の感心は目の前にある砂時計の砂が落ち切った瞬間に蓋を開け、中身を貪り尽くすことのみである。
あと少し。あと少し。
落ちた。
ビリリリ。
まぜまぜ。
ずるずる。
もぐもぐ。
ごっくん。
「んっはあぁー!」
この最初の一啜りが特に最高だった。薫り高く、体を一気にラーメン色に染め上げる。
次いで二口目。素材の味を宝探しのようにじっくり楽しむ。
その後は冷めないうちに素早く食うべし。
スープを一滴も残さず飲み干し、空になったカップをそっとテーブルに置いた。
「大地と海の恵みに感謝します……。あ~美味かった!」
手を組んで簡単に祈りを捧げたらヒメは床にごろんと寝転んだ。行儀悪いことこの上ない。さすがに見かねた凛は脅かす意味でこんなことを言ってみた。
「そうそう。言ってなかったけど、ラーメンばっか食べてると病気になるから」
「え゛ええっ!?」
凛の思いがけない爆弾投下にヒメが慌てて起き上がった。顔面蒼白になっている。
「びょ、病気って……ウチ死ぬの!?まだ本物のラーメンも食べてないのにっ!?どどど、どうしたら……」
有効な薬も医者もいなかった時代だから病気イコール死と隣り合わせが常識だったのだろう。
ここまで脅かすつもりはなかったのになぁ、と逆にかわいそうになってきたので凛はフォローをしておいた。
「あ、ごめん、極端な話ってことね。別に1週間や1か月食べ続けてもたぶん大丈夫……だと思う。やったことないけど。つまり、野菜とか肉魚もバランス良く食べなさいってこと」
「なあんだ脅かすなよ」
ヒメはほっと息を吐く。
しかし、安心しつつもちょっとは気になるのか凛が付け合せで置いておいたサラダをちょこちょこ食べていた。
「でもね、その野菜が最近高いんだこれが。肉も魚もね。率直に言おう、うちに2人が食べていく程の余裕はない。ましてやラーメンを手作りするなんてもっての外」
「そうなの?自分の分くらい捕ってくるけど。鹿とか猪この近くにいる?」
「やめんさい。今はそういう生き物を勝手に狩っちゃだめだから。それに部屋が血生臭くなりそう。それは絶対やだ」
部屋はもちろんのこと、ベランダに剥いだ皮が干してあったりしたらご近所から苦情の嵐が来るのは想像に難くない。
「え~?面倒くさいんだな。じゃあどうすんの?」
ゆで卵の殻を剥きながらヒメが尋ねる。
「当てはある」
クローゼットの奥から引っ張り出した高校生の時に凛が着ていた服をヒメに着せて2人は出かけた。高校生の時の服と言ってもサイズ的にはまだ問題なく着ることができるが年齢的にはどうなんだ、ということで仕舞ってあった服だ。今の凛が着ても正直全然違和感はないが、本人の心の内の問題である。
あんな言動でもヒメはやっぱり女の子で、「この中から着たい服選んで」と見せてあげると瞳を輝かせてあれこれ試着していた。最終的にヒメが選んだのはベージュのショートパンツとロゴが入った黒のタンクトップだった。やはり動きやすいものを好むようだ。しかし季節は秋も中旬に差し掛かるところ。さすがにそれだけでは寒いだろうと、襟刳りが大きく開いた七分丈のTシャツと黒のタイツをプラスした。
靴は履きやすい物がいいだろう、ということで買ったはいいが一度も太陽を拝むことのなかった紐なしのランニングシューズを履かせた。
さて、そんなこんなで二人が向かった先は。
「でかっ!」
ヒメのその一言が全てを物語っていた。
城門を思わせる立派な門。その門から伸びる塀は左右ともに50メートルはありそうだ。さらにその塀の周りには堀があって錦鯉が泳いでいる。明らかに一般の家ではない。凛も初めて訪れた時は先程のヒメと一言一句違わぬ感想を発していた。
「ここに来ると改めて格差社会だというのを実感するわ」
片や1DKアパート、片や10000平方メートルの敷地に建つ伝統的日本家屋。ここまで違うと嫉妬心など生じようもない。
インターホンを押すとほとんど間を置かずに応答があった。
『はい、どちら様でしょうか』
「ごめんください、一乃宮凛と申します。亜央さんはいらっしゃいますか」
『一乃宮様ですね、伺っております。どうぞ玄関までお進みください』
プツっと通信が切れると同時に門が内に開き始めた。
門の内側は有名な美術館庭園と見紛う日本庭園が広がっていた。職人の手によって綺麗に刈り込まれた庭木の数々、紅葉を映した鏡のような池、砂礫で波の模様を表現した見事な枯山水。
維持するのにいくらかかるのだろう、と凛は思った。
凛とヒメが玄関まで辿り着くと玄関の戸が中から開けられた。
「いらっしゃ……」
現れた亜央が挨拶の途中で固まる。
「亜央さーん?」
「攫って……きたの?」
犯罪者を見るような目の亜央。
「なぜ最初にそう考える!?『親戚の子かな?』とか普通思わない!?違うって、話すと長くなるんだけど」
「とりあえず私の部屋に行きましょ。ここじゃなんだし。さ、上がって」
「お邪魔します。ほら、ヒメも靴脱いで」
凛に従ってヒメが靴を脱ぐ。緊張しているのか門を入ったあたりから一言も喋らなくなった。凛の後ろに隠れるようにしている。借りてきた猫状態である。
亜央の先導で長い長い廊下を何度か曲がり、おそらくこの家の一番奥にあたるであろう亜央の部屋に到着した。凛自身も亜央の部屋に入るのは初めてだ。
「どうぞ、遠慮しないでくつろいでね」
障子の先に広がっていたのはこれぞ和室、という部屋だった。
「机はワーキングデスクでじゃなく文机なんだ。座卓に和箪笥、衣紋掛けと見事な統一感で完全に和の世界だね。ただ一点、あのカラフルでマジカルな巨大な杖が異彩を放ってるけど……」
本来なら刀とか飾っていそうな場所で魔法の杖がその存在を無駄に主張していた。
それを視界の外に追いやって深呼吸すると部屋に満ちるイグサの香りが鼻に抜けていく。それにほんのり甘い匂いが混じる。
「畳のいい匂い、懐かしいなぁ。それとこれはお香?」
「ええ、時々焚くの。落ち着くのよ」
「亜央の匂いってこれだったんだ。香水とは何か違うなとは思ってたけど」
「そうね、香水は人によって好き嫌いがはっきり分かれるから私は付けないの。過度に印象に残りたくないし。さ、座って」
「じゃあお言葉に甘えて」
二つ並んだ座布団の右側に凛が座り、その左の座布団をぽんぽんと叩いてヒメをそこに座らせた。
するとそのタイミングで廊下から声がかけられた。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
「入って」
「失礼致します」
お茶と茶菓子を持ってきたのはこの家のメイドだった。歳の頃は34、35歳だろうか。楚々としていて一つ一つの所作に品がある。お茶と茶菓子を座卓に置く仕草すら見惚れてしまう。
「それでは何かございましたら何なりとお申し付けください。ごゆっくりどうぞ」
三つ指をついて深くお辞儀をしてメイドは部屋を退出した。お辞儀されたときに凛も反射的に三つ指をついて礼を言ったが、どちらかというと土下座にしか見えなかった。
「綺麗な人だね」
「美雪さんはね、ああさっきのメイドだけど、私がおじいさんに引き取られた時にはもういたらしいから10年は勤めてるんじゃないかしら」
「へー」
すると亜央が座卓越しに顔を近づけてきて少し小声で話し始めた。
「最初は借金の形にうちで働かされていたんだけど今はもう返済終わってる。なのに何でまだうちで働いてるんだと思う?」
「給金がいいから?」
「それもあるかもしれないけど、実は噂があってね」
「どんな?」
二人の顔がより一層近くなる。
「彼女、おじいさんの愛人なんじゃないかって」
「まじで?そういう話好き」
昼ドラ的愛憎どろっどろの話はいつの世代の女性も大好物である。
盛り上がる二人とは対照的にヒメは所在なさげに茶菓子のどら焼きをパクついていた。
「それでね、美雪さん10歳になる息子がいるんだけど、未婚で女手一つで育ててるの」
「まさか……それって」
「そう、父親はうちのおじいさんじゃないかとまことしやかな話が囁かれているわ」
「亜央やばいじゃん。遺産相続で揉めに揉めるよ、それ」
「かもしれないわね。以前にも他の後順位相続人候補から嫌がらせを受けたこともあったし」
「ドラマとか映画の中だけの話だと思ってたけど、現実味を帯びてくると何かこう、わくわくするね!」
「でしょ?」
ふっふっふ、と怪しく笑う二人。ヒメは自分の分のどら焼きを食べ終えたので凛の分に手を伸ばした。
「それで今日はどうしたの?電話じゃ何も言ってなかったけど。それにこの子は?」
「そうだそうだ、この子の名前はヒメ。ヒメ、こっちが私の友達の亜央」
「亜央?」
「そう、お姉ちゃんを付けてあげると喜ぶよ」
「亜央お姉ちゃん」
「はぁうっ!」
顔を赤らめて亜央は後ろに倒れた。幸せそうな顔をしている。
凛とヒメはそのまま亜央が起き上がるのを待った。お茶をずずずっと飲み、ほっと一息をつく。
暫くして亜央がむくりと起き上がった。
「なかなかの……破壊力ね。凛にも引けを取らない」
「そうですか」
亜央の妹萌えは健在のようだった。
「ねえねえ、私もヒメって呼んでいい?」
「ん?いいよ」
「きゃわいい……。私のどら焼きも食べる?」
亜央からどら焼きを貰ったヒメはそれもはむはむと瞬く間に平らげた。ラーメンだけではなくどら焼きも気に入ったらしい。
しかし、その姿を見つめる亜央の瞳が何やら怪しい色を帯び始めた。
「話、進めてもいい?」
「ああ、ごめんごめん。つい、人の道を踏み外しそうになったわ」
「………」
ここに連れてきたのは間違いだったかもしれないと凛は思い始めていた。
「おほん、じゃあ最初から順を追って話すけど、私はとある目的の為に以前亜央にも説明した時間の狭間に行ったの」
「あの図書館みたいだったって所ね。一人で簡単に行けるの?」
「その時は鍵みたいなのを預かってたから。それで、そこで会ったのがヒメ。ヒメはどうやら縄文時代とか弥生時代あたりから流れ着いたみたい」
着ていた服や聞いた話から総合的に判断してそうじゃないかと凛は判断した。
それで?と亜央が先を促す。
「紆余曲折あって私がこっちに帰る時に間違ってついてきちゃったみたいで、元の時代に帰そうにも私一人じゃ時間の扉が開けられないから」
「私に手伝ってほしいと」
「そういうこと」
少しだけ考える素振りを見せた亜央だがすぐに了解の返事をした。
「わかった、そういう事情なら協力するわ」
「ありがとー亜央!」
「早い方がいいかしら?早速今からでもする?」
「あ、それなんだけど、千鶴の協力も必要なの」
「何でここであの子の名前が出てくるの?私と凛がいれば開けれるでしょう?」
亜央がむっとした表情になる。あの時以来会っていないはずだが亜央の千鶴に対する印象はあまり良くないようだ。
「用があって私もあっちに行かないといけないから、どうしても亜央ともう一人必要なの。そうすると必然的に千鶴かなって」
「また借りを作ることになるのよ?前回の分だってまだ返してないんでしょ?」
「それはそうなんだけどさ」
以前千鶴に協力してもらったときの借りをまだ返せてはいない。千鶴の談によれば困っている相手の弱みに付け込み貸しを作り強請るのが家訓だというのだが、2か月経っても何の音沙汰もない。こちらから連絡しようにも連絡先を交換しておらず、突然請求書が届くのではと郵便受けに郵便物が届く度にビクビクしていた。
「まあ、凛がそれでもって言うなら私は止めないけど」
そう言って亜央は立ち上がり鍵の掛かった箪笥の引き出しから一冊の青いファイルを取り出した。そのファイルにも鍵が掛かっている厳重さ。そしてそこから紙を複数枚抜き出して凛の前にすっと差し出す。
「はい、これがあの子の情報よ」
「さっすが。亜央なら調べてると思ってた」
A4の紙に印字された情報に目を通す。
「赤蜜・ソレイユ・千鶴。14歳。日本人とフランス人のハーフ。腹違いの兄がいる。父親と母親は現在フランス在住で、千鶴は今兄と暮らしている……か」
「その兄がね、黒絵家と対立していた赤蜜天龍会の現会長なのよ」
「それで亜央のおじいさんが赤蜜と聞いてあんな反応したわけか」
「千鶴の父親は継がなかったから、うちのおじいさんは赤蜜天龍会が途絶えたと思ってたみたい。でもそうじゃなかった」
ここに書かれている情報によれば、赤蜜天龍会は当時の会長であった千鶴の祖父が亡くなり、事実一度解散している。しかし大学を卒業した千鶴の兄が赤蜜天龍会を復活させると、わずか1年余りで先代の全盛期に迫るまでに勢いを盛り返していた。事業内容としては不動産管理とリゾート施設や宿泊施設の運営となっている。
「おじいさんも完全に盲点だったって言ってたわ。今の所うちと衝突するような事案はないようだけど」
「なるほどねー……って千鶴の情報はこれだけ?」
家族構成や兄の情報はあるのに肝心の千鶴に関する情報がほとんど書かれていない。
「そう、それだけ。いくら調べてもそれ以上の情報が出てこない」
「巧妙に隠されてる、か。千鶴が魔法少女だってことと関係あるかもね」
「おそらく。知ってて隠している、あるいは守っているってとこかしら」
「となるとこっちから連絡の取りようがないなぁ」
「一応赤蜜天龍会の事務所の電話番号はわかるわよ。これは公開されているから」
と亜央は言うが、これほど用心深く千鶴の情報を秘匿しているのに突然電話して「友達です」と言っても取り次いでもらえるだろうか。
「もし赤蜜天龍会の事務所に電話するならうちから少なくとも1キロは離れてからにしてちょうだい。発信位置を探られるかもしれないから。今黒絵と赤蜜が接点を持つのはまずい」
「あんたらの家はどんだけ仲悪いのよ……。わかった、1キロね。でさ、それはそれとして重ねて頼みたいことがあるんだけど」
凛が居ずまいを正して亜央の顔を正面から見据える。
「何?改まって。凛の頼みなら大抵のことはOKよ。あ、もしかしてうちの養子になる気になった?」
亜央は以前、出会った当初の凛を黒絵家の養子にならないかと誘っていた。凛を妹にする為である。もちろん凛は断った。しかし無職で養子で生活費の心配なし、なんて蠱惑的な響きだろうか。黒絵家なら専門の調理人がいるだろうから食事も美味しくないはずはない。
華夜子からはレンタルの誘いが、亜央からは養子の誘いが。内心、震度4くらい揺れていたがそこはぐっと堪える。
「違う違う、養子の件は前にも断ったでしょ。私は、おもねらない、かこつけない、CinderellaNightの新『お・か・し』を今の信条としてるから養子にはならないよ」
親指、人差し指、中指を順番に折りながらなぜか避難の心得「おさない・かけない・しゃべらない」を形も残らないくらいにアレンジして語った。
「1つ目と2つ目はともかく残りの1つは何なの?」
「え?シンデレラみたいに素敵な王子様が現れるといいなって」
「へ、へー、そう……頑張って……ね」
凛のあまりに乙女な発言は亜央の顔を引きつらせるには十分だった。
「……それで、頼みって?」
「ヒメを少しの間亜央の家で預かってくれないかなって」
「もちろんいいわ!少しと言わず、1年でも一生でも!」
凛の思いもよらぬ発言は亜央の顔を輝かせるには十分だった。
「一生とか重いよ!ヒメを元の時代に帰すまででいいから!」
「帰さなくてもよくない?このまま私の妹になれば。ねーヒメ」
「ダメだって!ヒメがいなくなるだけで現在にどれだけ影響が出るか……。下手したら私も亜央も生まれてこないなんてこともあり得る」
「それは困るわね」
困るの言い方がトイレットペーパーがなくなったら困る、くらいの軽さだったので「本当にわかってるのか?」と凛は疑いの目を向ける。
「ま、まあとにかく預かってくれるならありがとう」
「凛もいろいろ大変だろうしね」
「うっ」
亜央の含みのある笑顔が凛の胸に突き刺さる。やはり凛が無職になったことを亜央はすでに知っているらしかった。
中学生に気を使われる29歳の姿がそこにあった。
オーディオコメンタリー風なあとがき
凛「避難の心得って地方によって違うよね。おかし、おはし、おかしもち、
なんてのもあるみたい」
亜「何?突然」
凛「そこで、『おかし』を使って新しい心得を考えてみよう!」
亜「話が全然繋がってないんだけど……」
凛「いいのいいの。じゃあ私からね。『お婆さんを道案内してましてー、家族が急病でー、幸せを探しに行ってましてー』」
亜「何の心得?」
凛「遅刻した時の言い訳」
亜「最後のは絶対怒られるって」
凛「そうかなぁ。じゃあ次亜央ね。『お』」
亜「おさない」
凛「ん?避難の心得と一緒……?『か』」
亜「かけがえのない」
凛「なんだろう?『し』」
亜「しょうじょ」
凛「幼い、かけがえのない、少女……ってなんだそりゃー!?」
亜「何って、避難の心得とセットの救助の心得よ。優先して救うべき者を表してるわ」
凛「偏り過ぎでしょ……」
亜「そんなことないわよ。ここを見ている大多数の人が支持してくれるはず」
凛「おいおい」




