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19.肩は叩かれた

「ちょうだい!」

「何だ?」


 急に凛に話しかけられ、ライブラリンは怪訝そうな顔をしている。

 当然、いくらなんでも主語その他もろもろを省いて話して伝わるわけがない。


「記憶記憶!本!約束、100年!」


 日本語を習いたての外国人並みの語彙の少なさである。


「ああ、もうそんなに経ったのか」


 あれで伝わったらしい。


「ご苦労であったな。暫し待たれよ」


 ライブラリンがサっと腕を振ると5メートルくらい離れた場所にある書架の、建物でいえば2階くらいの高さの位置から本が1冊飛び出てきてそれがライブラリンの手中に収まった。そして左手で持った本の表紙を右手で素早く撫でると本がもう1冊出現した。


「これが約束の記憶の写本だ」


 ライブラリンはその出現したほうの本を凛に差し出す。


「これがチカの人生の全記録……」


 受け取った本をまじまじと眺めた凛は、か細い両の腕で愛おしそうに掻き抱いた。長年の離別からの再会を喜ぶように、本人を抱きしめるように。


「それを本の記憶の主に接触させれば記憶も戻るであろう。ただし、注意点がある」

「何?」

「まず1つ。それを使えば消した記憶はもちろん戻るがそこに書かれているのはその者の人生の全てだ。余分な箇所の記憶は消去する必要がある」


 凛は頷く。


「そしてもう1つ。原本をここから持ち出すわけにはいかぬ故に写本を渡したのだが、写本はこの空間から外に出すとその存在がすぐに失われてしまう」

「具体的な時間は?」

「地球時間でおよそ1分といったところか」

「1分ね。わかった」


 凛は頭の中で大雑把な計画をたてた。

 扉から元の世界に戻る。空間転移魔法で影親がいるであろう海水浴場の近くまで行く。そして加速魔法で誰にも気付かれないうちに影親に接触、そして記憶の復元と消去。

 以前の凛であったら不可能だったが、100年も魔法の研究と練習に費やした今の凛なら可能だとの結論に達した。


「しかし、これにチカの全てがねぇ。帰る前に結婚相手とかだけちょっと覗いてみよっかな~。私には知る権利と義務があると思うんだ。姉だから!でもなー、一度他人の人生覗いたらエグかったからなー。チカに限ってないとは思うけど万が一のこともあるし。いやいや、例えチカにどんな性癖があろうとも私は受け入れるよ。姉だから!ということでレッツゴー!」

「レッツゴー!ではない」

「痛でっ!おぉ、ナイスつっこみ……」


 凛が表紙をめくる寸前、ライブラリンから弧を描いた手刀とともに切れ味鋭いつっこみが飛んできた。100年の間に培われた阿吽の呼吸によるものである。


「お主も懲りぬのう。他人の人生なぞ覗いても一利もないと言うておるではないか。それにその者にも近親者だからこそ知られたくないことの1つや2つはあろう。いいから早う戻れ」


 ライブラリンは追い払うように手を振った。


「はぁーい」


 間延びした返事をしてから元の世界に戻るため扉を出現させると凛は一度だけ振り返った。


「いろいろありがとね、ライブラリン」

「ふん」


 開けた扉に飲み込まれて凛の姿が消える瞬間、ライブラリンの指がピクッとほんの少しだけ、本人すら気付いてないくらい僅かに、凛が消えた扉のほうを追いかけた。

 間もなく扉は霞むように消滅し、あとに残ったのは何処までも続く書架と静寂の世界、それにライブラリンだけだった。


「こんなに静かだったか……」


 呟きはやけに響いた。





「いっちゃいマシタネー」

「そうね。……ん?」


 凛が消えていった時空の歪みは亜央と千鶴が既に魔法を止めているのでもう存在していない。そこに見えるのは青い空、青い海、フナムシとカニが闊歩するダークグレイの岩場だ。

 だがそんな場所に唐突に重厚な観音開きの扉が現れた。こんな海辺に不釣り合いなその扉は、天から吊るされているか地面にボルトで固定されているかの如くバランスを保って立っていた。


「な、何これ……」

「こ、この精巧な細工、使われている木材、見たとこ相当お高いデスヨ!」

「見るのそこ!?」


 亜央が謎の扉の出現や千鶴の豪胆さに驚いていると、扉が向こうから押されるようにその隙間を広げ始めた。そしてそこから小さな体躯の人影がひょっこり顔を覗かせた。


「暑……。そういや夏だったっけ。出たくないなぁ。快適空間に慣れきったこの体にはこたえるわー」

「あら、凛?」


 扉から半身を覗かせていたのは、つい先程過去に旅立ったはずの凛だった。

 失敗したのだろうか、それとも蹴ったのを怒って文句を言いに戻ってきたのだろうか、でもあの扉は何だろう、と亜央の脳は現状を理解するためフル活動をしている。そのときである。


「……亜央?亜央だよね?亜央だーっ!」


 バン、と扉を一気に開け放つと同時に凛が両手を広げて亜央に飛びついてきた。その姿は巣から飛び立つ若鳥を彷彿とさせる非常に美しいフォームであった。


「きゃっ!え?え?どうしたの凛?」

「懐かしい、この匂いこの柔らかさ。人ってこんなにも温かかったんだ」

「本当にどうしたのよ。過去には戻れたの?」

「そうだ、唇の感触も確認せねば。んぅー」


 何を思ったのか、凛が唇を接近させてきた。その距離がぐんぐん近くなる。ふざけている様子はなく、このままいけば2人の唇が密着することは間違いない。


「ちょ、待……やめんか!」

「ぶふぇ!」


 あまりに突然のことだったので、自らのファーストキスを守る為に手加減なしの掌底突き上げを凛の顎にくらわせてしまった。


「ご、ごめん、大丈夫?でもいきなりあんなことするから」

「へへっ、痛みすら心地いい……」


 本当にどうしちゃったのか。


「ああっ!こんなことしてる場合じゃない!ごめん亜央、説明は後でするから!」


 凛はサブの魔法の武器であるハンドガンを太腿のホルスターから抜くと、そのトリガーをリズミカル且つ複雑に引いた。

 それを見た亜央はおや?と思った。魔法を使う時、例えば亜央の持っている杖タイプの魔法の武器なら『振る』という動作で、凛の持っている銃タイプの魔法の武器ならトリガーを『引く』という動作で魔法を発動できる。1回の動作で1つの魔法だ。だからこそ今の凛の行動が不思議だった。この数瞬の間に一体魔法を何回使ったのだろう、と。

 亜央の思考が終わると同時に凛の姿は消えていた。





「さてと、チカは……あそこか」


 凛が転移してきたのは地上の喧騒からはほど遠い海水浴場の上空100メートル。遠隔視で影親の姿を確認していた。陽美加や玉緒らとビーチバレーを楽しんでいるその姿は以前となんら変わりないように見える。でも彼の中に姉の凛は存在しない。


「んじゃ行くか。『加速』」


 空を飛ぶ鳥が羽を広げたまま空中で静止した。押し寄せる波が崩れず形を保っていた。自動車も人も動物も、ありとあらゆるものが動きを止めていた。いや、正確には極々僅かにではあるが動いている。あまりに遅すぎて止まっているように見えるだけだ。これが魔法で身体と思考を加速させている凛の眼に映る世界。使い過ぎは厳禁である。100万倍に加速されているので1秒経過するごとに凛の時間は約278時間分進む計算になる。1年2年なんか本当にあっという間だ。

 砂浜にスッと降り立つと、凛は記憶の写本を影親の胸に押し当てた。すると身体に吸収されて跡形もなく消えた。


「これでいいのかな?あとは余分な記憶を消すだけなんだけど……」


 技術的には問題ないはずだが一度失敗を経験しているのでそれがトラウマになっている凛だった。だが悩んでいる間にも物凄い勢いで歳をとっている。既に加速を始めてから30秒経過したから1年分くらいになるはずだ。


「ええい、迷っていても仕方がない!集中だ集中!すぅーはぁーすぅーはぁ、よしっ!」


 深呼吸を2回してから意を決してトリガーを引いた。

 影親には当然何の変化も見られない。全て成功していれば記憶から凛のことが消えていない以前の影親に戻っているはずである。加速を解いて話しかけてみればその答えはすぐに出る。

 自然な感じを装って話しかけるために凛は影親から少し距離をとった。


「それじゃ加速解除っと」


 次の瞬間。

 ドゥッバーーーーーーーン!!という爆音とともに砂浜の砂が大量に宙に舞い上がった。


「何だ何だぁ!?爆発か!?」

「隕石じゃない?」

「いやいや、某国からの攻撃だよ。来る時が来たんだ……」

「すごーい!これは再生数伸びるわ」

「目がぁ~!目がぁ~!目が砂に~っ!じゃなくて砂が目にぃ~っ!」


 と海水浴場は謎の現象に騒然となっていた。


「……。そう、なる、よね……」


 凛としてはソフトランディングしたつもりだったのだが、凛以外からすれば質量33キロの物体が超音速で突っ込んできたという事にほかならない。

 止まらない脂汗を拭いつつも大きなクレーターを囲む見物人の中に影親を発見した凛は、さりげな~く声をかけた。


「な、何これーすごいねー」


 つもりだったが、棒読み感がめちゃくちゃ出ていた。


「姉貴か。俺にも何が起きたのかさっぱりだ」


 影親は凛のそんな三文芝居にもこれといって特に怪しむ様子は見られなかった。


「え?え?もう1回言って!」

「だから俺にも何が起きたかわからなくて」

「違う!最初から一言一句変えずに!」

「?姉貴か。俺にも何が起きたのかさっぱりだ?」


 影親が凛のことを明確に姉だと言った。ということはつまり記憶は無事元に戻ったのだ。

 凛の口元に笑みが浮かぶ。そして目元に涙がじわりと滲んで、見上げる先の影親の横顔がぼやけて映った。


(この顔はチカに見せられないなぁ)


 ごしごしと手の甲で涙を拭った。


「どうした?姉貴」

「あー、私も砂が目に入ったみたい」

「あまり擦らないほうがいい。眼球に傷がつく」

「そうだね。ちょっと洗ってくる」

「一緒に行こうか?」

「いいって。子供じゃないんだから」


 凛は影親に気付かれないうちにそそくさとその場を後にした。

 自らの不始末とはいえ一時は弟から記憶を奪い、関係性を失うところだった。そしてその結果、凛は異空間での100年にわたる奉仕をしなければならなくなった。

 でもそんなのは凛にとって瑣末なことだ。

 声を聴けるのが嬉しい。ちょっとした優しさが嬉しい。一緒にいられるのが嬉しい。

 寒い冬の日に湯船に浸かるあの瞬間のように、布団の中で眠りに落ちる寸前のように、自分は今間違いなく世界で一番幸せなんだと実感していた。





 その後は警察やら消防やらが出動して謎の爆発を調査していたが、幸いなことに怪我人は出ていなかったようだ。結局原因は解明されず、地下に溜まったガスが熱せられて爆発したのだろうということで落ち着いた。真相を知るのは張本人の凛のみである。ちなみにお昼のトップニュースはこのことで持ちきりになって、そのおかげというかなんというか、カピバラが海水浴場に出没したことは地方の新聞の隅っこにわずかながらに記事が載っただけで済んだ。

 海水浴場は安全が確認されるまで封鎖されることになり、凛たち御一行様も各々部屋に戻ったり近くの観光に出かけていった。

 凛は事情を説明するために亜央と千鶴のところへ戻って、その足で亜央のおじいさん、黒絵金宮くろえこんぐう氏にも謝りにいった。『自分が無理やり連れ出しました、悪いのは私です』と畳に額を押し付けて謝罪した。酷く叱られるものだとばかり思っていたのだがそんなことはなく、何故か逆に感謝された。亜央にこんな風に親身になってくれる友達が出来たのが相当嬉しかったようだ。『これからも亜央のことをよろしくお願いする』と涙まで流された。恐縮しつつもお茶など飲みながら雑談して和やかな雰囲気になってきたところ、話の流れで千鶴の名前を出したとき金宮氏の表情が厳しいものに一変した。


「赤蜜……。またその名を聞くことがあるとはな」


 声音に含まれたのは怒りか懐かしさか、凛にはその判断がつかなかった。しかし、新しく淹れてもらった緑茶は先程より苦く感じた。





 その日の夜。

 バーベキューの後片付けも皆でやれば早く終わる。そして入浴が済めばもう外出する人はほとんどなく、多くは庭部分で花火をするか部屋で談笑するかのどちらかだった。

 凛はといえば、こちらの世界に戻ってきてから大量の魔力を消費して疲れ切っていたので、風呂で寝落ちしそうになるのをなんとか堪えながら部屋まで辿り着いた。


「う~眠い。ってあんた、こんなところに来てまで勉強?」

「ああ。大学院の入試が近いからな」


 簡易テーブルに本を何冊も広げて、影親は万年筆をカリカリと忙しく走らせている。

 影親がスクエアの黒縁眼鏡をしている姿を凛は初めて見た。そもそも影親の視力が低下しているのを知らなかった。普段はしてないようだから講義を受けるときや勉強をするときだけのようだ。


「悪かったね無理に誘っちゃって」

「別に構わない。この前の華夜子さんとのデートも含めて、いい気分転換になる。しかし姉貴がそんな殊勝な態度なんて珍しいな」

「たまにはね」


 凛は影親の対面に座って、しばし勉強の様子を眺めていた。

 で突然こんなことを言った。


「ねえ、久しぶりに一緒に寝ない?」

「っ!?」


 お気に入りの万年筆の先が折れてしまった。

 インクが垂れたノートと折れ曲がった筆先をしかめ面でしばらく睨んだ影親はテーブルの上のものを全て鞄にしまって、それから改めて凛に問い正した。


「姉貴、自分で言ってること理解してるか?確かに子供の頃は一緒の布団で寝たこともあったけど、さすがに大人になってそれはまずくないか?」

「何でよ、姉弟でしょ?問題なんか何1つないよ。それともチカは私の体に欲情すんの?んん?」

「そんなわけあるか」

「じゃあ決まりね」


 ふんふん~と鼻歌なんかを歌いながら布団を1組に枕を2つ、綺麗にセッティングし終えた凛は早々に布団に入り込んだ。


「ほれ、勉強終わったならもう寝なさい」

「……ん」


 凛が軽く掛け布団をめくったところに影親が体を忍び込ませた。

 他人の熱で少し温まった布団の中で影親は体が落ち着くポジションを探してもぞもぞと全身を動かす。


「やっぱ2人だと狭いね」

「当たり前だ」

「ふふっ」


 狭い布団の中で向き合うとお互いの呼気が感じられた。


「機嫌いいな、何かいいことでもあったのか?」

「さあね。明日も晴れだからじゃない?」

「そうか」

「そうよ……」


 次第に瞼がゆっくりと閉じていき、懐かしい匂いに包まれながら凛は深い眠りに落ちていった。

 めでたしめでたし。





 なーんて終わるはずもなく。


「や、やばい。仕事……何をどうやってたか全く思い出せない……」


 休み明けの職場、全然仕事ができなくなっていた凛。その背後に音もなく歩み寄った人物は凛の肩をぽんぽんと叩くと、仏のような柔和な顔で会議室を指さした。


「は、はは……」


 凛は無職にジョブチェンジした。

オーディオコメンタリー風なあとがき


凛「この話で一応一区切りね。最後がなんかめでたくないけどめでたしめでたし!」

カ「ちょおっと待つカピ!僕の出番がないカピ!」

凛「んー?あ、ほんとだ。まあいいじゃん、次は出番あるでしょ」

カ「ギャラが入らないと今月の支払いが……」

凛「そんなに困窮してるの?」

カ「だってこれで3話連続出番ないし、その前も一言二言だけだったカピ……」

凛「アルバイトせい」

カ「カピバラにできるアルバイトって何カピ?」

凛「そりゃやっぱ動物園でしょ。その辺うろついてれば通報されて捕まって動物園に送られるから面接なしで即採用よ」

カ「そういうのはアルバイトって言わないカピ」

凛「適当に愛嬌をふりまいとけば、食住は保障される最高の職場です」

カ「そういうのは軟禁生活って言うカピ」

凛「それが嫌ならあとは……新薬の実験台とか」

カ「悲劇的な末路しか想像できないカピ……」

凛「さあ、どっちを選ぶ?」

カ「酷い選択肢カピ!」

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