一匹のバカ#3
ネア・ネヴィルは震えていた。かつて無い程の恐怖でいっぱいだった。あんなのは知らない。見たこともない。あんな化物がかつて買い取った奴隷達の中にいたのだろうか。今其処で死体となっている両親に問い詰めたかった。あなた方は正気なのですか、と。いや、正気じゃなかったからこうして巻き込まれて処刑されかけているのだけれど。
私は物心ついた時、父様に人の甚振り方を、教えられ、母様には飴の与え方を教わった。その時、初めて実践した相手私よりちょっと年上くらいの男の子で、酷く変な子だったのをよく憶えている。もっとも、奴隷なんてどいつもこいつも何処か可笑しくなっているものだけど。その子は殊更余計だった。
まず殴ったり叩いたりすると喜ぶ。まあこれはいい。最初こそ驚いたが、世にはそういう男性もいるのだと母様に教えられた。暴力を振るっても堪えることのない彼は、私や兄のいい練習台になった。兄達は彼に木剣を持たせて弱者を虐げる快楽といものを覚えたようだったけど、私はそれを見てああはならないようにしようと心に決めていた。もっとも、この変な子によって支配する快感を覚えさせられてしまうのだが。奇妙な言い方かもしれないが間違ってはいない。私は彼に、人の扱い方を覚えさせられたのだ。
切っ掛けは父様に指示されて彼に家畜用の餌を与えて遊んでいた時。いきなり彼が奇声をあげたのである。家畜の餌の中から黄色い物体を取り出し、それを掲げて叫ぶのだ。当然私は蹴っ飛ばしたが、彼はそれでも行為をやめなかった。後日知ることになるが、この物体はバナナ、というらしい。母様曰く彼の飴なのだろう、という。
それからしばらく経ったある日の話である。私はバナナを手に彼を呼び出した。部屋に入った瞬間、普段は部屋に入ろうとしない彼がさながら忠犬の如く眼前に”お座り”をしたのだ。それからは雰囲気に流されるままだった。お手からはじまり、とってこい、襲いかかれ、靴を舐めろ、etc……ずるずると、密やかな私の決意も何処かに消えて、私は自分の意のままに人を動かす愉しさを覚えてしまった。
気が付けば彼は消えていたが、奴隷など他に山ほどいたし、消えること自体も父様が奴隷で遊び過ぎることも多々あったので、珍しくはないことだった。
さて、それは兎も角、過去を思い浮かべて現実逃避もしていられない。奴隷の中に彼がいたかどうかだが、正直わからないというのが全てだ。買い取った奴隷は多過ぎるし、何より私はそれほど多くの奴隷で遊んだ訳ではない。それでも十数人といるのだが父様や二人の兄に比べれば雀の涙もいいとこである。夜は悲鳴の絶えぬ地下牢や、母様が時折男奴隷を連れ込む隠し部屋、買い取ってその場でなます切りにする二人の兄達など、私の家は問題児ばかり。一体何人の人間がこの家の犠牲になったかなど、とてもではないが想像がつかなかった。
今現在私に出来ることは、両親と二人の兄達を呪いながら、死んだフリをして処刑人に処刑されることを祈るばかり。さっくりと殺された方がこの巨人に捕まって引き潰された後、豚の腸辺りに押し詰められるよりはマシなんじゃないだろうか。
兵士さんお願いだから頑張ってください、と祈る私の耳に巨人と兵士の会話、そして剣を引き抜く音が聞こえた。現実は無情である。
そして大きな靴音が迫ってくる。私は震えていた。かつて無い程の恐怖でいっぱいだった。あんな化物、私は見たことがないのだ。人違いじゃないでしょうか、と言いたくもなるが怒らせてしまう可能性もあった。
結局、私には祈るしかなかった。兵士が駄目なら聖霊様。今なら信心にも目覚められるかもしれない。嗚呼、聖霊様、どうか救いの手を……
だが往々にして信心とは無慈悲である。祈ったところで回答は無く、また結果は得られない。
「ネア・ネヴィル、だったか。遅くなって二人はどうしようもなかったが、お前だけは……」
ギリ、と剣の柄を握り潰さんばかりの音がする。というかどう見ても変形している。まともな人間の握力ではなかった。ネアは音に反応して目を開いた結果、それを目にして開けるんじゃなかった、と後悔したのだった。
「お、御慈悲を。せめて一太刀で、殺してくださいませ」
彼女は震える声でそう言った。後半部分は掠れ掠れで、巨人の耳に届いているか怪しい程だったが、せめて殺されるなら楽にというのが彼女の願いだった。この磔台から叩き降ろされた上で、内臓を引きずりだし、身体を踏み付けながら人の頭蓋で両親と二人の兄達の死体を肴にして酒を飲みだしそうな巨人である。死んだ後の尊厳はともかく、生きてる間にそんなことをされれば正気を保っていられる自信はなかった。
ぐちゃぐちゃにされる自分を思い浮かべながら、其処に僅かな期待があったことを彼女は知らない。親が親なら子は子である。一太刀で殺して、と懇願する彼女の瞳は潤み、閉じられない足を閉じて擦り合わせようとしている彼女の動きはどうみても誘っているとしか思えなかった。
「……難しいな」
だが彼の答えは残酷だった。難しいということはつまり、一太刀で終わらせる気はないということだろうか。何度も何度も、その刃をこの身に?それともその拳で殴り潰すのだろうか。彼の答えは彼女にとって実に絶望的で、しかしどうしようもないほど甘美だった。
彼が剣を振り上げる。彼にとってはおもちゃのような剣を両手で持ち一刀両断せんという勢いだ。一応、一太刀で終わらせるように努力はしてくれるらしい。それを何処か残念に思いながらも、少女、ネアはゆっくりと目を閉じた。
そして轟音と共に、断罪の一太刀が振り下ろされた。
適当に書き上げたので時間できればちょこちょこなおします