-8.5- 零を求める赤い少女
赤に近い月が奇麗に光る、夜空の下。
「♪」
可愛らしい鼻歌に何か、粘ついたものを引きずる音が、異様に混じっている。
「♪」
ローファーの靴裏に、粘ついた液体が付着しているが、気にしない気にしない。
歩いていれば、いつか取れるだろう。放置放置。
手にしているものにも、粘ついた液体が滴り落ちているが、気にしない気にしない。
時間が経てば、乾くだろう。自然乾燥自然乾燥。
「あ」
とある高層マンションの前に、立ち止まる。
明かりが灯るマンションを見上げ、見上げ、視線が最上階の部屋へと向けられる。
「……ふふっ」
赤い唇が、にんまりと嬉しそうに、弧を描く。
月に照らし出された白い肌が、赤い月明かりと混じり合い、薄紅色に染まる。
「見ぃ~つぅ~けぇたぁ~……ふふっ、あははははっ! あはははははっきゃああぁぁあぁあぁぁぁぁあああぁぁあはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ!」
少女は笑う。無邪気に笑う。無邪気に高らかに笑う。
真っ赤な月明かりに、照らし出された少女の表情は、純粋に満ちた、無垢な悪。
少女の求めるものは、ただ一つ。
【一色 零】
「零、ゼロ、ぜろ、0、零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零零ぉぉおぅぅうぅうううふふふふふふふふふふふふふふうふふっふふふふふふふふうふっふふふふふううふふっふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ零00ゼロゼロ0ゼロ零ゼロぜろ零0ぜろ0ゼロぜろぜろ零ぜろゼロ零ぜろ0零ぜろ零0ゼロ00ゼロ零ぜろ零ぜろっ!ああぁぁあァァぁああぁぁっぁぁあああぁぁぁああっぁぁあああぁぁぁぁっぁっぁああぁあぁぁあああぁぁあああああぁぁああゼロッ!」
恍惚な表情で、零の名を何度も何度も呼び続けた少女は、力無く、ぺたりと地面にへたり込む。
そこへ偶々、偶然、不運にも通り掛ってしまった哀れな男性が少女に気付き、無謀にも近寄って来てしまった。
近寄らなければ、出会わなければ、彼の寿命も大いに延びていただろうに……。
「君、どうしたんだこんな場所で? 親は?」
「……………」
「こんな時間帯にうろついていたら、補導対象で治安ロボに連れて行かれてしまうよ? 本当にどうしたん……」
彼が言葉を最後まで続けることは無かった。二度と、無かった。
ごとり、とへたり込む少女の足元に、男性の首が無様に落ちる。
ぶしゃっ、と吹き上がる赤い生臭い液体。
中身が無くなった身体はぐらりとバランスを崩し、どしゃりと醜く、後ろへ倒れた。
「ダメ。ダメダメダメ」
頭を嫌々と、横に振る。
「こんなのダメ。許さない」
ぴょこんと立ち上がる少女。
足元の赤い水溜りが、ぱしゃりと飛び散る。
「ゼロにこんな死に方似合わない! ゼロにはもっと、もっともっともっと、もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと! たくさんたぁくさん、苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで嘆いて許しを請われて死んでもらわなきゃ……ふふふっ。ゼロ、ぜろ、零! だぁい好きよ……」
手に持った肉切り包丁に付いた血を、べろりと舐め上げた。
つんと、血生臭い臭いが、鼻を突く。
「おや、これはこれは」
カツン、と夜の闇に革靴の音が無機質に響き、感情の籠もっていない、男の声が響いた。
「いけませんねぇ、こんなに汚してしまっては」
「白兎!」
「白兎」と呼ばれたその男の風貌は、とても異様なものだった。
白い兎のふざけた被り物を頭に被り、黒いスーツにステッキを携え、190以上は身長がありそうな背の高い細い男だった。
男は先程少女が切り殺した男の夥しい血液を、まるで雨上がりの水溜りを踏むように、びちゃり、にちゃりと踏みしめながら、少女に歩み寄った。
「白兎! ねえ白兎! 聞いて! 聞ーいーてー!」
「はいはい。聞きますから先ずは落ち着いてください。服が汚れてしまいますよ?」
興奮しながら話す少女を宥めながら、兎の被り物を被った男は、ひょい、と軽く少女を抱き上げた。
「さあ、どうしたんですか?」
「見付けたの。見付けたのよ!」
「貴女の求めていた【一色 零】ですか?」
「そうよ! ゼロを見付けたの! このマンションの最上階!」
目の前に建つ、マンションの最上階を指差す。
最上階……145階の一室では、二人(一人と一羽?)の恐ろしいやり取りを知らずに、零は暢気に夢の中にいた。
「殺したい」
ぼそりと呟く。
「……………」
「殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したいゼロを殺したいっ!!!」
その呟きは初めは小さく静かに、だが段々と大きくなり、呟きは、最終的に叫び声へと変わった。
「ええ。わかっていますよ」
「殺したい、殺したいの」
「ですが、殺すのは明日にしましょう」
「どうしてっ!!?」
白兎の顔(被り物)を強く両手で抱え込む。
指が白い毛にめり込み、作られた白い毛が、ふわりと落ちた。
「あの子はあたしの、チェシャ猫を、ジャバウォックを…」
「ええ、解っています。ですから」
ふー、ふーと、興奮し、荒く深い息を吐く少女を、不気味な猫撫で声で宥めながら、被り物に深く食い込む少女の手を、白兎は優しく解いた。
「今は待つ時です」
「待つ? どうして? ゼロはあたし達の目と鼻の先にいるのよ? 今が殺す時じゃない!」
右手に持つ肉切り包丁を、ぎゅっと握り締める。
「確かに今が絶好のチャンスでしょう。ですが、貴女はまだ一色 零の殺し方に迷っているみたいじゃないですか?」
「……まあ、そうだけど」
「一色 零は此の世でたった一人。失敗は出来ません。貴女、一色 零を殺した後に、こんな殺し方しなければ良かったなんて、後悔したくないでしょう?」
「うむむぅ……解ったわよおぅ………」
頬を膨らましながら、少女は不満げな顔で頷いた。
「いい子ですね。さあ、今日はもう遅い。帰りましょう」
「……うん。あ、でも一目だけども零に会いたい!」
「あなたという人は……今の私の話を聞いていましたか?」
「一目だけ! ねぇーお願いー! 一生のお願い!!」
「一生のお願いって……あなたその言葉何回も使っているじゃないですか?」
「何言ってんのよ! 千年ぶりのお願いでしょ!?」
「仕方ないですねぇ」
ふー、と諦めたような溜息を一つ吐いた白兎は、携えていたステッキをぶんっと振り上げる。
振り上げられたステッキは音も無く一本の傘に変わり、アリスの小さな手の中に納まった。
「千年ぶりの魔力は衰えていないようね」
「あなたの為ならいくらでも強くなりますよ」
「うふふ。嬉しい」
アリスが傘を開くと、白兎はぽん、と軽く地面を蹴り上げた。
ひゅん、という一つの風の音と一緒に宙を飛び上がった白兎とアリスは、あっという間に零のいるマンションの最上階…334階のベランダに辿り着いた。
「ここが零の家なのね」
「本来の家では無さそうですが、おそらく一人暮らしをしているのでしょう」
「あら! 零ったら居眠りしているじゃない!」
「あ、ちょっとアリス!」
白兎の制止を聞かずに部屋へ入っていってしまったアリスは、キッチンテーブルに伏せて眠る零に走り寄った。
「やだぁー寝ている零可愛いー! 肌白ーい! いやぁんむにゃむにゃ言ってるぅー!」
「アリス。静かにしないと零が起きてしまうでしょう?」
「そうね。こんな所で寝ていたら零が風邪を引いてしまうわ。白兎、零をベッドに連れて行ってやりましょ!」
「アリス。あなたは先ず人の話を聞くということを学びましょうか」
額を押さえながら溜息を吐く白兎を急かし、アリスは零を抱えた白兎を「こっちの部屋よ!」と零の部屋へ案内した。
「アリスよく此処が零の部屋だと解りましたね?」
「零のことだから、きっとシンプルな部屋だろうなーって思ったら当たっただけよ♪」
白を基調とした零の部屋には、余計なものが置かれていなく、唯一置かれた勉強机の上にいくつかの写真立てがあった。
「どうしましたか?」
「明日。明日で、私の願いは叶うのね」
「……ええ」
「お姉さま、狂帽子屋、チェシャ猫……皆皆、喜んでくれるかな?」
「ええ。皆、貴女に願っているのです。貴女しか出来ないのです……ですが、それも明日で終わります。一色 零……彼奴さえ殺せば、貴女の願いは、全て叶うのですから」
「うん。うん。ありがとう。白兎。大好きよ。大好き。貴方さえ、貴方さえ傍にいてくれたら、あたし……」
「ええ。ですから、今はゆっくりお眠りなさい………」
「おやすみなさい。【アリス】 いい夢を……」
白兎の被り物の中で、にたりと男は、笑った。