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催眠アプリ         :約3000文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/06/05

 ――おい、嘘だろ……?


 おれは驚いた。いや、戦慄した。

 朝の通勤電車。いつも立たされるばかりだが、今朝は珍しく席に座れ、「ついてるな」と、おれは頬を緩めた。吊革にぶら下がる人々をぼんやりと眺めながらシートに深く腰を沈め、甘美な優越感に浸っていた。

 しかし、駅を一つ通過して少し経った頃だった。

 隣に座っていた会社員風の男が、なぜかスマートフォンの画面をこちらに向けてきたのだ。

 膝の上にスマホを置き、ほんの少しだけ傾け、いかにも『たまたま見えてしまう』ような角度だが、手の動きが怪しい。微妙に角度を調整し続けており、こちらの視界に入れようとしているのは明らかだった。

 それだけならまだいい。問題はその画面に表示されているのが、どうも『催眠アプリ』のようなのだ。


 催眠アプリとは画面を見せるだけで相手を催眠状態に陥らせ、意のままに操ることができるものだ。……いや、もちろんそんなものはフィクションの中の代物にすぎず、現実には存在しない。あるとしても、せいぜい催眠療法――リラックス効果を謳うアプリ程度のものだろう。

 おれは最近ちょうど催眠アプリで女の子を操り、あれやこれをする漫画を読んだばかりだから、すぐにピンときたのだ。


 だが、おれは男だぞ……。

 この男、本気か? 本気でおれを催眠状態にして肉奴隷にし、ケツをあれこれするつもりなのか……?

 おれはぶるりと身震いした。

 スマホの画面には、紫色の背景を埋め尽くすように赤やピンク色の渦巻き模様がゆっくりと回転していた。じっと見ていると、奥へ吸い込まれていくような感覚になる。

 さらに目のような図形が浮かび上がっては、パチパチと瞬きを繰り返して泡のように消えていく。淫紋めいた模様が次々と浮かび、象形文字のような意味不明な記号が高速で画面を駆け抜ける――とっ、危ない危ない。

 おれは慌てて顔ごと視線をスマホから逸らした。一瞬見入ってしまった。だが、それもまた催眠アプリの効果なのかもしれない……なんてな。馬鹿馬鹿しい。無視だ、無視。

 おれは固く目を閉じて、電車が駅に着くのを待った。



 ◇ ◇ ◇



 ――は?


 ここは……トイレか? 

 目を開けると、なぜか目の前に白い陶器があった。床は灰色のタイル張りで、水滴がところどころ飛び散っており、天井からの明かりに照らされ、かすかに反射していた。湿った空気が肌にまとわりつき、アンモニア臭が鼻を突いた。

 なぜ、おれはこんな場所に。それに、なんで便器を掴んで――。


「ひぐっ!?」


 次の瞬間だった。尻――いや、肛門に凄まじい痛みと熱が迸った。ずぐる、ずぐると内側で何かが蠢く。そのたびに肉が引き裂かれるような激痛が走った。押し広げられる感覚と抉られる感覚が同時に襲ってくる。背骨の奥まで焼けつくように熱を帯び、視界がぐらりと揺れた。


「な、な、ん、なん……」


 おれは必死に体を動かし、“それ”から逃れようとした。だが、両手は便器の縁をがっちりと掴んだまま指一本動かない。足もまた棒のように硬直していた。尻だけは動かせたがそれもわずかであり、自分の意思によるものか、“それ”がおれの中を突くたびに生じる反動なのか判別がつかない程度であった。

 突き上げられるたびに腸の奥まで震えが走り、視界がパッ、パッと白く弾ける。

 なぜだ。なぜ、おれはトイレにいる。ここは駅のトイレか? だとしても、なぜ――。


「あれ? おかしいなあ。催眠、切れた?」


 頭上からねっとりとした声が降ってきた。

 あの男だ。いや、確証はない。電車の中では恐ろしくて顔をまともに見られなかったし、今もまたアプリの効果のせいか振り返ることができない。だが他に考えられなかった。

 ただ、どこかうちの会社の課長の声に似ている気がした。


「あれ? 気のせいかな? ねえ、何か言ってよ。ほら、ほら、ほらあ!」


「ひ、ひぐうううう!」


 太ももの内側を生暖かい液体がつうっと伝っていった。涙がおれの意思とは無関係にぼろぼろとあふれ、鼻水が唇を撫で、そのまま糸を引きながら顎へと垂れていく。

 まるで体液が勝手に意思を持っているみたいだった。あるいは体がただ正直に反応しているだけなのかもしれない。


 ――いっそ催眠してくれ。


 おれは男の口から漏れる湿った息遣いと肉同士がぶつかる乾いた音から逃れるために、必死に別のことを考えようとした。

 2、3、5、7、11、13、17、19……。ただ数を数えた。だが激しい痛みが背中の内側を駆け上がり、思考をぶつ切りにした。


 その次は色。赤、ピンク、紫、青……。色を思い浮かべるたびに視界の奥にぼんやりとした光が滲んだ。しかし、尻の奥を容赦なく突き上げる衝撃で、その色彩は泥水のようにぐちゃぐちゃにかき混ぜられて消えていった。


 その次はアルファベット。A、B、C、D――いんっ、あっ、んっ。嬌声が頭の中で反響した。それは男のものなのか、それともおれ自身のものか。嫌だ。考えたくない。

 次は駅名だ。新宿、渋谷、池袋、目黒、上野……。車両の連結部分に立っているおれは、ガタガタと揺れる振動に内臓を揺さぶられつつ、次々と駅を通過していく。その情景を必死に頭の中に描き続けた。その次は――。



『――です。お降りのお客様はお足元にお気をつけください』 


 おれはびくりと体を震わせ、跳ね起きた。

 いや……おれは眠っていたのか?

 目の前に広がっていたのは、見慣れた車内の光景だった。吊革に掴まる乗客たち。開いたドア。ぞろぞろと降りていく人々。ホームを流れていく靴音――。

 電車は駅に到着していたらしい。しかも、そこは会社の最寄り駅だった。

 おれは慌てて立ち上がり、飛び出すように電車を降りた。 

 ホームの柱に寄りかかり、荒い呼吸を整えながら震える手でそっと尻に触れた。……違和感はない。痛みも、熱も、何も残っていなかった。

 じゃあ、あれはただの……。


「はは、ははは……」


 乾いた笑いが漏れ、おれは手のひらで目を覆った。

 最悪の夢を見たものだ。

 だがまあ、あれのおかげで寝過ごさずに済んだのかもしれない。

 会社に着く頃には多少気分も落ち着き、そんなふうに思える程度には回復していた。


 しかし、あの男は何だったんだ? あの男のせいで悪夢を見たのは間違いないが、時間が経つにつれて、あの男の存在自体も夢だったような気がしてきた。

 ……そうとも。催眠アプリなんてあるはずがない。ましてやそれを電車の中で見せてくるなんて――。


「君、君」


「は、はい!」


 席に腰を下ろした瞬間、課長に呼ばれた。おれは跳ねるように立ち上がり、課長のところへ向かった。

 あの男の声と似ていたせいで、反射的に体がびくっとなってしまったのだ。


「君、このアプリはもうインストールした?」


「え?」


 課長がスマホの画面をこちらに見せてきた。紫色のアイコンを指差している。


「本社が開発した新しい業務支援アプリだよ。社員全員に入れてもらうことになってるんだ。今送るから、起動してみてくれる? ちゃんと動くか確認しないといけなくてさ」


「は、はあ」


 おれはスマホに送られてきたそのアプリを開いた。

 だが、これ……あの電車で見たものと……よく似ているような……。


「毎日、空き時間に開いてね。仕事の能率が上がるらしいから」


「……」


「返事は? いいね?」


「……ハイ! チョーゼバ! ハタラキマース!」

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