夏の市を歩く日
人の多い場所では、立ち止まる理由が増える。
特に何も買わなくても、歩いているだけで時間は過ぎていく。
夏の市は、朝から人で溢れていた。
布を張った屋台が通りの両側に並び、焼けた香辛料の匂いと甘い果物の香りが混ざり合っている。呼び込みの声、笑い声、金貨の触れ合う音が絶えず続き、立ち止まるたびに人の流れがゆっくり形を変えていく。
フィアはすでに三度目の足止めをしていた。
「これ、ちょっと見ていい?」
小さなガラス細工を手に取って、光に透かしている。陽の光を受けて色が変わり、指先に淡い影が落ちる。
「さっきも止まっただろ」
「市ってそういうものだよ」
悪びれた様子もなく笑う。
結局、カイルは何も言わず隣に立つ。急ぐ理由がないことを、もう分かっていた。
通りの奥へ進むほど、人の密度が増していく。
肩が触れそうな距離を保ちながら歩くうちに、自然と歩幅が揃っていた。どちらが合わせているのかは分からない。
「暑くない?」
フィアが聞く。
「平気だ」
「私はちょっと暑いかも」
そう言いながらも離れない。人混みのせいなのか、それとも別の理由なのかは分からなかった。
そのときだった。
通りの端で、小さな悲鳴が上がる。
荷車が倒れ、布の影から黒い影が飛び出した。小型の魔物だった。市の外から紛れ込んだのだろう。人の流れが一瞬だけ乱れ、誰かが後ずさる。
けれど、次の瞬間にはもう終わっていた。
カイルが振り向いたときには、影は地面に崩れ落ちている。誰が動いたのか、周囲には分からない。ただ、風が一度だけ通り抜けたような感覚だけが残っていた。
フィアは何事もなかったように屋台を見ている。
「ね、これ似合うと思う?」
振り返って、小さな飾りを見せる。
カイルは一瞬だけ倒れた魔物の方を見てから、視線を戻した。
「……悪くない」
それで話は終わった。
少し離れた場所で、屋台の店主が呆然と立っていた。
確かに魔物が見えたはずだった。だが、気づいたときには倒れていた。剣を振る音も、魔法の光も見ていない。
ただ、さっきまでそこにいた二人組が、何事もなかったように歩いていくのが見えただけだった。
「……今の、誰が?」
答える者はいなかった。
市の端まで来る頃には、人の声も少し遠くなる。
風が抜けて、ようやく暑さが和らいだ。
フィアは買ったばかりの小さな袋を揺らしながら歩いている。
「今日は結局、ほとんど見て回っただけだね」
「いつもそうだろ」
「でも楽しかったよ」
そう言って笑う。
夕方の光が建物の影を長く伸ばし、通りの色を少しだけ柔らかく変えていた。
帰る時間だった。
けれど、どちらも急ごうとはしなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は少しだけ人の多い場所でした。
本人たちは気にしていませんが、外から見ると少しだけ不思議な二人かもしれません。
次回はまた、静かな場所へ向かいます。




