誰もいないダンジョンの日
危険なはずの場所ほど、理由もなく静かなことがある。
それが幸運なのかどうかは、あとにならないと分からない。
地下へ続く石段は、思っていたよりも冷たかった。
空気が動かない。湿り気を含んだ匂いが肺に残り、吐き出した息がやけに重く感じられる。足音が壁に反響して、実際よりも人数が多いように聞こえた。
勇者レオンは、一段降りるごとに周囲へ視線を走らせていた。
「……静かだな」
誰に言うでもなく呟く。
本来なら、この深さに来る前に何度か戦闘になっているはずだった。報告では魔物の出現数も多く、調査隊が引き返した理由もそこにある。
それなのに。
何もいない。
後ろを歩くミリアが、無意識に杖を握り直しているのが見えた。緊張しているのは自分だけではないらしい。
「索敵は?」
エルドが目を閉じたまま答える。
「反応は……ある。けど、動いてない」
「動いてない?」
「分からない。遠い、というより……もう終わってる感じがする」
言葉にした瞬間、全員が黙った。
通路の壁が、大きく削れていた。
爪の跡ではない。もっと鋭く、滑らかに断ち切られている。石の断面がまだ白く、新しい傷だと分かる。
ガルムが手を伸ばしかけて、やめた。
触れてはいけない気がした。
さらに奥へ進む。
罠が壊れていた。
作動した形跡がないまま、機構だけが無理やり止められている。力任せではない。正確に、必要な部分だけが壊されていた。
「先行した冒険者か?」
誰も答えなかった。
もしそうなら、ここまで静かなはずがない。
最奥の扉の前で、レオンは足を止めた。
嫌な汗が背中を伝う。
扉が、わずかに開いていた。
本来なら魔力で封じられているはずの扉が、内側から押し開かれたように歪んでいる。
風がないのに、隙間から冷たい空気だけが流れてきた。
ゆっくりと扉を押す。
軋む音が広間に響いた。
そこには、何もいなかった。
いるはずの魔物の姿はなく、ただ戦闘の痕跡だけが残っている。床は深く抉れ、壁の半分が削り落ち、天井近くまで一直線の傷が走っていた。
一瞬で終わった戦いの跡だった。
それも、抵抗する時間すら与えられなかったような。
「……なんだ、これ」
ガルムの声が小さく震える。
エルドは何も言わず、ただ傷跡を見上げていた。
ミリアは祈りの言葉を口の中で繰り返している。
レオンだけが、しばらく動かなかった。
勝ったわけではない。
助かったわけでもない。
ただ、自分たちが必要とされなかっただけだと、直感的に理解してしまった。
「……撤収する」
声が少しだけ掠れた。
誰も異論を言わなかった。
地上に出た瞬間、肺に入る空気が軽くなる。
全員が無意識に息を吐いた。
振り返る者はいなかった。
あの場所に、もう一度入りたいと思う者もいなかった。
その頃。
王都へ戻る街道で、フィアは地図を広げていた。
風に紙が揺れ、カイルが押さえる。
「次、どこ行く?」
「まだ決めてない」
「じゃあ、途中で決めよ」
夕方の光が道を長く伸ばしている。
ただの帰り道だった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は少しだけ、二人の知らない場所での出来事でした。
同じ世界でも、見えている景色は少し違います。
次回はまた、二人の時間に戻ります。




