山へ行く日
少し高いところへ行くだけの日。
ただ歩いているだけなのに、不思議と危ないことは何も起きない。
王都を北へ出ると、道はゆるやかに坂へ変わっていった。
街道から外れ、山道へ入ると空気が少し軽くなる。木々の間を抜ける風は涼しく、足元の土は乾いていて歩きやすい。遠くで鳥が鳴き、時折、小石が転がる音だけが静かに響いた。
「思ってたより楽だね」
前を歩きながら、フィアが言う。
「この辺りは人が通る」
カイルは短く答えた。
実際には、ここへ来るまでに三度ほど足を止めている。フィアが景色を見ている間に、少しだけ道を外れた。戻ってきたときには、気配はすでに消えていた。
何も起きていないように見える道が続く。
山道は静かだった。
風が枝を揺らす音と、二人の足音だけが続く。危険な気配はない。魔物の匂いも薄い。
フィアは何度か立ち止まり、振り返って下の景色を見ていた。
「こういうの、嫌いじゃないでしょ」
振り向かずに言う。
「まあな」
「やっぱり」
なぜ分かるのかは、もう聞かなかった。
少し進んだところで、地面が不自然に抉れている場所があった。
新しい跡だった。
フィアは気づかず通り過ぎる。
カイルだけが一瞬だけ足を止める。
ついさっきまで、そこにいたものの名残だった。
頂上に着いた頃には、風が強くなっていた。
視界が一気に開ける。王都の屋根が遠くに見え、森の緑がゆっくりと続いている。空が近い。
「……すごい」
フィアが小さく息を漏らした。
風に髪が揺れ、外套が大きくはためく。足元の草が波のように揺れていた。
少しよろける。
カイルは無意識に一歩近づいていた。
「大丈夫か」
「うん。ちょっとびっくりしただけ」
そう言いながらも、フィアは景色から目を離さない。
しばらく、二人は何も話さなかった。
風の音だけが続く。
「ね」
フィアが言う。
「なんだ」
「今日、静かだね」
カイルは答えなかった。
確かに静かだった。静かすぎるほどに。
座り込むと、地面の冷たさが服越しに伝わる。
雲の影がゆっくりと山肌を移動していくのを、二人はただ眺めていた。
「……安心する」
フィアが小さく呟く。
聞こえないくらいの声だった。
カイルは何も言わない。
風が少し強くなる。
フィアは腕を抱き、少しだけ身を縮めた。
カイルは無意識に風上に立っていた。
自分で気づき、何も言わず視線を遠くへ向ける。
しばらくして、フィアが静かに言う。
「カイルといると、危ないこと起きないね」
冗談のような言い方だった。
けれど、そのあと少しだけ言葉が途切れる。
何かを考えかけて、やめたようだった。
「……そうか」
それだけ返す。
フィアはそれ以上続けなかった。
帰り道も、何も起きなかった。
風の音と足音だけが続く。
フィアは安心したように歩いていた。
カイルはその少し後ろを歩きながら、周囲へ向けていた意識を最後まで緩めなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は少しだけ、何も起きない日でした。
ただ歩いていただけのはずなのに、少しだけ空気が変わったかもしれません。
次回はまた、少し違う理由で出かけます。




