湖へ行く日
強い剣士と強い魔法使いが、ただ出かけるだけの話です。
本人たちは特別なことをしているつもりはありません。
ただ、少しだけ帰るのが遅くなる日が続きます。
王都の南門を出る頃には、朝の空気はすっかり温まっていた。
空は高く、雲は薄く伸び、遠くまで歩くにはちょうどいい日だった。門の外に立ったまま、カイルはぼんやりと人の流れを眺めている。待ち合わせの時間より少し早く来てしまったことに理由はない。ただ、遅れるよりはいいと思っただけだった。
「待った?」
後ろから声がして振り向く。
フィアが立っていた。
いつもの外套だったが、色が少しだけ明るい。風を受けて揺れる布が、普段より軽く見える。戦いに向いた装いではない、と最初に思い、それから今日はそういう日ではなかったことに気づく。
「いや、今来たところだ」
本当は少し前からいたが、そう答える。
フィアは一歩近づき、門の外を見た。
「今日は、北の湖まで行ってみたい」
「湖?」
「この時期、水がきれいになるって聞いたから」
王都から半日ほどの距離。帰りは遅くなる。
「遠いぞ」
「……嫌?」
振り向いたフィアの距離が、思っていたより近い。
カイルは一瞬だけ言葉を止め、それから肩をすくめる。
「歩けない距離じゃない」
フィアは小さく笑った。
「よかった」
その一言が、なぜか少しだけ長く残った。
森へ入ると、空気が変わった。
魔物の気配が濃い。
岩場の奥から現れた大型の魔獣が、道を塞ぐように立ちはだかる。普通なら引き返す状況だった。
「どうする?」
「……湖、こっちだろ」
カイルは剣を抜く。
一歩踏み込み、振る。
それだけだった。
音が遅れて森に響き、魔獣の姿が消え、背後の岩壁ごと一直線に裂ける。風が止まり、周囲の魔力が一瞬だけ空白になる。
「……少し強かったか」
「うん。でも近道になった」
フィアは気にした様子もなく歩き出す。
カイルは剣を収めながら、その背中を見る。戦闘のあとよりも、さっきの距離の近さの方が、なぜか意識に残っていた。
湖に着いた頃には、昼の光が少し傾いていた。
水面は驚くほど静かで、風が吹くたびに細かな波紋が広がる。森の音すら遠く感じられ、ここだけが別の場所のようだった。
「……きれい」
フィアが小さく呟き、水辺まで歩いていく。
しゃがみ込み、指先で水に触れる。冷たさに少しだけ肩をすくめ、それから楽しそうにもう一度触れた。
「冷たい?」
「うん。でも気持ちいい」
振り向いた顔が近い。
カイルは視線を逸らす。
「……どうしたの?」
「いや」
言いかけてやめる。
今日はいつもと少し違う、という言葉が浮かんでいたが、説明できる気がしなかった。
湖のほとりに腰を下ろす。
風が吹き、フィアの髪が揺れる。
「ね」
「なんだ」
「こういうところ、嫌いじゃないでしょ」
質問というより、確信している言い方だった。
「……まあな」
「やっぱり」
フィアは満足そうに笑う。
なぜそれが分かったのか聞こうとして、やめた。聞けば、何かが変わる気がした。
しばらく何も話さない時間が続く。
肩が触れそうで触れない距離。
フィアは景色を見たまま、ふと小さく言う。
「また来てもいい?」
少しだけ間があった。
「……嫌なら、別だけど」
カイルは答えるのが遅れた。
「嫌じゃない」
フィアは笑う。
「うん。じゃあまた来よう」
夕方の光が湖を赤く染め始める。
二人はそのまま並んで座り続けた。
特別なことは何も起きなかった。
ただ、帰る理由を少しだけ忘れていた。
数日後。
調査隊の報告書にはこう記された。
『北部森林地帯、魔物群消滅。岩盤断裂。魔力流消失。原因不明』
誰がやったのかは分からない。
ただ、最近はこういうことが増えていた。
第1話を読んでいただきありがとうございます。
この作品は、ダンジョンを攻略する話というより、
出かけた先で少しずつ距離が変わっていく二人の話になります。
戦ったり、寄り道したりしながら、ゆっくり進んでいく予定です。
次回は少し賑やかな場所へ。




