幸せになれる池の話
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「幸せってなに?」
私は無邪気に祖母に質問した。私が13歳のときだ。
祖母も笑顔で答えた。
「幸せっていうのは、包まれることだよ――」
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蝉が遠くで鳴いている。あとは虫の鳴き声だが、何の虫かは全く見当がつかない。
真夏の夕暮れ、私、甲野藤ゆきえ、は祖母の家の庭に佇んでいた。庭の手入れは行き届いておらず、草は生え放題だ。庭の奥にある小さな池も水面が泥で濁っている。
お盆休みに1年ぶりに帰省した実家だった。今は祖父が一人で住んでいる家。そこに両親と帰省した。
空は燃えるような夕焼け。その赤色が、目の前の池の水面を朱色に染め上げていた。
「きれいだな」
純粋にそう、思った。今はこんなに汚いけれども、昔は祖母がきちんと手入れをして透き通った色をしていた。
この池は、祖母が遺したものだ。彼女は生前、この池を「幸福の池」と呼んでいた。
「この池の水は、己の心を映す鏡だ。自分自身が満たされていれば、心を満たし、幸福をもたらす。その逆も然りだけどね」と祖母は繰り返し言っていた。
日が傾く。夕焼けの色が、どんどん濃さを増す。ふと、私の周囲が静かなことに気づいた。虫の音が聞こえない――?
水面は不気味なほど静かになった。周囲には風が吹いているはずなのに、水面は波立つことがない。
「ふふふ」
「ふふ」
「ふふ、ふふふ」
――え?
時折、水面から人の笑い声のようなものが聞こえてくる。最初はその気のせいだと思っていた。しかし、その笑い声は、次第に大きくなった。そして、その声は私の耳元で囁くように響いてきた。
池を覗き込むたびに、ゾッとするような寒気が全身を襲い、まるで水中に引きずり込まれるような感覚に陥る。自分がそれを望んでいるかのような錯覚に陥る。
私は意を決して、池に近づいた。水面に手を伸ばすと、水は信じられないほど冷たかった。まるで氷のように冷たい。その冷たさは、私の心を蝕み、深い絶望感に浸らせた。しかし、どこかでそれを私は望んでいる気持ちも否定できなかった。そして、水面を覗き込むと、そこに何かが現れた。それは、水面の下から現れた人の顔だった。
顔は歪み、目は虚ろで、口は大きく開いて笑っている。その笑みは、私を嘲笑しているように感じられた。私は恐怖に――。
気づいたら、朝だった。
また池の水面を覗き込む。昨日の続きを望んでいるようだった。この先に行きたい。
「私も早く、あちら側に行きたい」
そんな思いが強く募った。そして池の前に今日も立つ。また「ふふふ」という笑い声が聞こえてくる。私は取り込まれたい心の声と、身体へ危害があるのではないかという体の声に引き裂かれそうな気持ちでいっぱいだった。やはり、怖いものは怖い。
私は恐怖に駆られ、池から離れようとした。しかし、足が動かない。まるで何かに掴まれているように、体が池に引き寄せられていく。一方、この瞬間を待っていたという気持ちもある。抵抗すればするほど、その力は強くなる。そして池に入っていきたい気持ちも強くなる。いよいよ水面が私を飲み込み、私は水中に引きずり込まれるような感覚に襲われた。
「ここで目が覚めませんように」私は必死に祈った。
水の感覚は冷たく、視界は暗くて底が見えない。息が苦しくなり、私はもがき苦しんだ。しかし、水底へと沈んでいく私を嘲笑うかのように、あの不気味な笑い声が響き渡る。それは、まるで私を歓迎しているかのようだった。
水中に入ってしばらくすると、閉じているまぶたの先に何かの存在を感じた。ぼんやりとだが、私は水底にいるようだった。そこには、無数の人影があった。彼らは皆、同じように歪んだ顔で笑い、私に手を伸ばしている。彼らの姿は、まるで水草のように揺らめき、私をさらに水底へ、地面に食い込ませるほどまでに引きずり込もうとしている。
私は絶望した。抵抗する力は残っていない。しかしこれが幸せなのかとも思った。ただ、水底に沈んでいくしかないのだ。もう抗わなくていいという安らぎ。
その時、ふと、祖母の言葉を思い出した。「この池の水は、心を満たし、幸福をもたらす」
私は理解した。祖母が言っていた「幸福」とは、生者の幸福ではない。この池は、死者の魂を閉じ込め、安らぎを与えているのだ。肉体の限界を超えた魂の安寧の地。バラバラだった人間が身体を捨て、ひとつになる統一感。
私は、諦観にも幸福にも似た感情を抱きながら、水底へと沈んでいった。息は完全に止まり、視界は暗転する。しかし、恐怖は一切消えてしまった。池の意味が分かれば、祖母の言葉が理解できれば何も怖くない。奇妙な安堵感が私を包み込んだ。ここには絶望も孤独もない他の魂たちも、私に微笑んでいるように見えた。
そして私も一緒に笑う。
「ふふふ」
「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
それから、私は池の一部となった。夕暮れ時になると、私の笑い声が水面に響き渡る。
幸せとは、こういうことなんだ。
(完)