第零章
教室のドアを開けた瞬間、空気の匂いが変わった。
埃と古い木の匂い。閉ざされた空間の静けさに、足音だけがひどく浮いて響いた。
廃校になったわけでもない。ただ、長く使われていない棟の一室だ。大学の裏手にある旧講義棟。誰も来ない。誰も探しに来ない。
――それは、あの日と同じだった。
大学二年の春、サークルに新歓で流されるように入って、そこで出会ったのが祐樹だった。
最初は印象の薄いやつだった。声も小さく、場の輪にも入ってこない。だがある日、コンビニ帰りの帰路、ぽつりと俺に話しかけてきた。
「お前さ、他人の顔色見ないで話せるの、いいよな」
あのとき、俺は「なんだそりゃ」と笑った。けれど、それが祐樹の精一杯だったと気づいたのは、ずっと後のことだった。
教室の窓際に腰を下ろす。埃を被った机に手をつくと、ザラリとした感触が手のひらに残った。
この場所に、祐樹とふたりきりで来たことがある。たった一度だけ。
俺がサークルの人間関係に疲れて愚痴を吐いたとき、祐樹が「静かなとこ、知ってる」と言って、案内してくれた。
その日、彼は珍しくたくさん喋った。
「……俺さ、なんかずっと誰かの邪魔してる気がしてさ」
「気にしすぎだろ」
「うん、そうかも。でもね、誰かが舌打ちすると、俺のせいじゃないかって思っちゃう」
祐樹の言葉は、ずっと耳に残っている。
あれは愚痴でも相談でもなかった。ただ、どうしても消化できない気持ちを吐き出すための、小さな独白だった。
あのとき、俺は「そんなわけないだろ」と言うことしかできなかった。
本当は、もっと踏み込んでやるべきだった。
だけど俺は、自分が浮くのが怖かった。
「いいやつでいたかった」だけだった。
やがてサークルの内部で祐樹に対する風当たりは露骨になっていった。
ラインから祐樹が外され、イベントでは後片付けを押し付けられ、写真からはそっと消されていた。
誰も気に留めない。
誰も悪意だと気づかないふりをした。
俺も。
それでも祐樹は、いつも笑っていた。
「平気だよ、気にしてない」
それが口癖だった。
――でも、死んだ。
首を吊って。自室の蛍光灯にロープを結びつけて。
遺書はなかった。
ニュースは取り上げなかった。
大学もサークルも、彼の死を“個人的な不幸”として処理した。
加害者たちは、そのまま卒業した。
就職して、結婚して、笑っていた。
誰も責任を問われなかった。
「……あのとき、もう一歩、俺が踏み出せていれば」
そう思ったことが何度もある。
でもそれは偽善だ。
本音では、もうあいつらを許す気なんてない。
俺の胸にあるのは悔恨じゃない。
喪失と、怒りと、絶対に消えない罪の記憶。
教室の片隅。祐樹が一度だけ座った席に、手を伸ばす。
そこに彼がいるような気がして。
ほんの一瞬だけでも、時間を戻せたらと思って。
でも、何もない。
そこには、誰もいない。
空っぽの教室だけが、静かに俺の沈黙を受け入れている。
俺は、ポケットから小さな紙片を取り出した。
プリントの切れ端。昔、祐樹が落としたのを拾って、なぜかずっと持っていた。
内容なんて覚えていない。印刷の文字はもうかすれて読めない。
けれど、それは確かに祐樹が存在した証だった。
その紙を、机の中にそっと入れた。
この教室だけは、祐樹のことを覚えていてくれるかもしれない。
静かに立ち上がる。
復讐の始まりは、ここからだ。
あいつらは忘れただろう。
自分たちが誰かの人生を壊したことも、自分たちの手が血で汚れていたことも。
自分のせいじゃないと、笑って生きている。
俺は、その記憶を思い出させてやる。
永遠に、消えない形で。
そのために、俺は生きてきた。
あの日からずっと。
祐樹の声を、背中に感じながら。
そして今日、俺は動き出す。
廃墟に呼び寄せる。あの5人全員を。
終わらせる。静かに、確実に。
誰も逃さない。
俺の手で、彼の死に意味を与える。
……教室のドアが、静かに閉じた。
廊下の先には、もう光はない。
でも俺には、それでいい。
闇の中でしか、あいつの声は聞こえないから