第二章 下
白井を処理した後、俺は手袋を外し、持参したウェットシートで手のひらを丁寧に拭いた。
返り血はなかったが、何かが皮膚に染み込んでいる気がした。汚れではない。
罪悪感でもない。
それは、過去に蓄積された怨念の成分のようなものだった。
——彼を殺したのは、白井たちだ。
そう断言して、心を鎮める。
床に散った小さな血痕をタオルで拭き取る。用意していた漂白スプレーを吹きかけ、染み込ませる。
廃墟に似つかわしくないほど入念な掃除。だが、俺にとってはこの儀式こそが「けじめ」だった。
十分後、足音が近づいてきた。ヒールの軽い音。
来たな。予定通り。
「はー、ほんと迷った。スマホの電波、圏外ってどういうことよ……って、え? ひさしぶりじゃん!」
花村恵美。学生時代、常にサークルの中心にいた女。派手で、自己顕示欲が強く、誰かを蹴落とすことで自分の価値を保ってきた人間。
サークル内では彼女が「女王」であり、彼はその下僕のように扱われていた。
「白井は? さっき着いてるとかLINE来てたけど……?」
「上の階を見に行ってるよ。ここ、けっこう広いみたいでさ。面白いよ、探検してみる?」
俺の笑顔は自然だった。演技でもない。
本当に楽しんでいる——そう自分に思い込ませていた。
「……マジで、廃墟フェチなの? あたし、正直ちょっとビビってんだけど。てか、よくこんな場所知ってたね。今何してるんだっけ?」
「地方の不動産関係の仕事してる。こういう物件、調査で見に来たりするんだよ」
これも用意した嘘。名刺だって偽造済みだ。
「ふーん……。でも、思い出すね、あの頃。サークルのさ、合宿とか、地味なやついなかった? あー……誰だっけ、名前……」
またか。
白井と同じ言い回し、同じ“忘れたふり”。
お前らは、殺した人間の名前すら、記憶に留めていないのか。
俺は心の中で、噛み殺すように笑った。
「覚えてないのか?」
「んー? なんか、いたよね、空気みたいな子。でも、あの子って……勝手に辞めたんじゃなかったっけ?」
まるで、いなかった人間の話をするような口調。
無関心と無責任が重なった、無垢な残酷さ。
「そうかもね。でも、死んだよ」
俺は唐突に言った。
花村が一瞬目を見開いたが、すぐにまた笑いに変わった。
「え、え? まさか、冗談じゃないよね? ほんとに?」
「飛び降り自殺。遺書もあったよ。ちゃんと、“お前たちのせいです”って書いてあった」
「…………」
沈黙。
しかし、花村の表情は——恐怖ではなく、疑いだった。
「……それって、嘘じゃないよね? ねぇ、本当に? ちょっと……なに、その目……」
俺は静かに立ち上がった。
「花村。君は、彼のメガネを“踏みつぶした”の、覚えてるか?」
「……な、何の話よ」
「授業中、ノートに落書きしたよね。“使えない奴”って、でかでかと」
「ち、違う、それは、みんなでふざけてて……!」
「違わない。彼は、それを全部記録していた。LINEの履歴、メール、写真、動画。俺がそれを整理して、日記と照合した。君は、笑っていた」
花村は後ずさる。だが後ろは崩れかけの階段。数歩で行き止まりだ。
「や、やめてよ。なにそれ、ちょっと、マジでおかしいって……!」
俺は右手に持っていた小瓶を取り出した。
中には、灯油が少量。彼女が立っていた床には、あらかじめ染み込ませておいた布。
俺は静かに、マッチを擦った。
——ボッ。
床が、赤く染まった。
「——あっ、いや、いやあああああああああああっ!!」
炎は一瞬で彼女の服に燃え移った。火は人間にとって本能的な恐怖を呼び覚ます。
花村は悲鳴を上げて転げ回った。だが、周囲に水はない。ここは三階。逃げ場もない。
彼女は、叫び続けながら、やがて昏倒した。
俺は消火器を構えていたが、使わなかった。
かつて、彼が消せなかった火のように、これもまた、誰にも消せない火だった。
部屋には焼けた布の匂いが充満した。だが、それすら心地よく感じた。
——ふたり目。
あと、三人。
俺は深く息を吸い込んだ。熱気で喉が焼ける。
復讐の業火が、着実に広がっている。
俺の中にある感情は、もはや怒りや悲しみではない。
それは、正義だった。