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第弐拾章

その朝、空気は妙に重かった。

雲は薄く、日差しもある。けれど、なにかが喉に引っかかっているような、そんな気配があった。


主人公は駅前の喫茶店で、遅めのモーニングセットを食べていた。トースト、ゆで卵、そして薄いコーヒー。無味乾燥な日々のルーティン。あの“夜”から、時間は流れ、幾度かの季節が過ぎた。


新しい街、新しい職場、新しい名前。

名前といっても、偽造などではない。退職し、住民票を移し、心機一転したと伝えれば、誰も深くは詮索しない。現代は、無関心こそが一種の礼儀なのだ。


喫茶店のテレビが、ふと、ニュース速報の画面に切り替わる。

内容は――例の廃墟殺人事件。半年以上経ったにも関わらず、「真相解明には至らず、未解決のまま」というテロップが虚しく映っていた。


あの夜、全てが終わったはずだった。

全て計画通りだった。

警察の初動捜査の遅れ。目撃者の不在。地理的隔絶。証拠の消去。生存者の証言も途中で途絶えた。

――それらは、確かに「復讐」を遂行する上での好条件だった。

だが、何もかもが完全に消えたわけではない。


「……こっち、合ってるかな?」

斜め前の席に座った若い女が、スマホの地図を見ながら小声でつぶやいた。

彼女の視線が、ふいにこちらをかすめた。


その瞬間、微細な違和感が生まれる。


視線は、通りすがりのものだったか?

それとも――記憶のどこかにある顔を確認するような眼差しだったか?


主人公は視線を逸らし、カップを傾ける。ぬるくなったコーヒーが舌に広がる。味はしない。

心臓が少しだけ脈打つ速さを変える。けれど、それもすぐに沈んだ。


女はしばらくして席を立ち、去っていった。特に話しかけてくることも、名乗ることもなかった。

……では、あれはただの他人だったのだろうか? それとも――。


主人公は静かに席を立ち、会計を済ませた。

帰り道、地下鉄の構内を歩きながら、彼はふとガラス壁に映る自分の姿を見る。


――まるで、誰か別の人間のようだった。


他人の人生を歩いている。

かつての名も、かつての生活も、かつての親友も――すべては過去に沈んだ。

だが、ひとつだけ確かに残っているものがある。

それは、「やるべきことは終えた」という確信だった。


後悔も、苦悩も、正当化もない。

あるのは、あの夜に向かって積み上げてきた理由と、その結果のみだ。


自宅のマンションに戻ると、ポストに一枚の封筒が入っていた。差出人不明。手書きの宛名。

彼はドアを閉めてから、その封を破る。中には、印刷された白黒の写真が一枚だけ入っていた。


――山の廃墟。事件の現場。


そこには、崩れかけた建物の前に立つ**「誰かの背中」**が映っていた。

遠く、ぼやけている。だが、その姿勢、その佇まい、どこか既視感がある。


主人公は写真をじっと見つめた。

しかし、次の瞬間、くしゃ、とその紙を折りたたみ、燃やすために流し台へと持って行った。

マッチで火をつける。紙は静かに黒くなり、灰になった。


誰かが、見ているかもしれない。

だが、問題はない。自分の足跡は、すでに霧の中に紛れている。


夜。

ベッドの中、カーテンの隙間から、街の光が天井を照らしていた。

光と影が揺れるその中で、主人公はまぶたを閉じた。

耳の奥に、まだあの廃墟の風の音が、かすかに残っている気がした。


――沈黙は、時に何よりも雄弁だ。


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