第拾玖章
雨が降った次の日のアスファルトには、濡れた夜の記憶が薄く残っている。
職場に向かう足取りの下で、それが靴音に溶け、知らぬ間に街の音に紛れていく。
ひとつひとつの景色が、まるでどこかの劇場の背景画のように、冷たく静かに流れていた。
その日の帰り、駅の改札を抜けたところで、制服の警官がふたり、立っていた。
ただの巡回だったのかもしれない。けれど、ひとりの視線がこちらに触れた瞬間、その一歩が重くなった。
「ちょっとよろしいですか?」
間の悪いタイミング。あまりにも、出来過ぎたようにさえ感じる声だった。
職務質問。財布の中身、鞄の中身、そして名前と住所。淡々と応じた。
指先ひとつまで余計な動きはせず、声のトーンも意識して保った。
「最近、近くで変な事件が多くてね。ご協力、ありがとうございます」
何も咎められたわけじゃない。だが、その目は「記録している」目だった。
記憶のどこかに“残して”いく、そういう種類の視線。
――大丈夫。なにも問題はない。
一呼吸、心の奥で静かに繰り返す。頭の中で組み立てておいた仮面のまま、最後までやりきる。
彼らが去ったあと、脳裏に浮かんだのは「山の中のあの夜」ではなく、あの夜の、前だった。
***
同期の中でも一際目立っていた男がいた。大学の時からリーダー気質で、今も営業のトップに立ち続けていた。
けれど、彼の口調や笑い方、足を組む仕草のすべてが、ある人間と重なって見える瞬間があった。
――彼もまた、あのサークルにいた。
主犯格ではなかったが、沈黙していた人間だった。
傍観者という名の、加担者。
その顔を目にするたび、冷めた視界の奥で何かがゆっくり軋む。
「……最近、元気なさそうだな。仕事、きついか?」
その声には本心はなかった。優しさの仮面を被った社交辞令。
それがわかったから、主人公は静かに微笑んだ。そして、言葉を選んだ。
「今月で、辞めるんだ」
沈黙が一秒伸びた。相手の顔に走った微細な変化。その理由を、主人公は知っていた。
“あの事件”が、遠くのテレビの中で報道された夜、彼の顔がこわばっていたことも知っている。
その夜を境に、妙にこちらを気にするようになっていた。
「そうか……転職か。どこ行くんだ?」
「しばらく、ゆっくりするつもり」
それだけを残して、去った。
去り際、背中に刺さるような視線があったが、振り返ることはなかった。
もうこの場所に、未練はない。
***
小さなカフェの奥の席で、主人公は珈琲をひとくち啜った。
耳をすますと、隣の席で誰かがテレビのニュースに言及している。
「またあの事件、進展なしだってさ……いまだに逃げてんの、すごくない?」
誰かが言った。「プロの仕業かもな」
別の誰かが言った。「ただの復讐でしょ。昔の事件の」
主人公は微笑んだ。誰も真実には辿りつけない。
世の中はそこまでドラマチックじゃないし、正義も推理もただの物語だ。
窓の外に、灰色の灯りが浮かんでいた。
それは晴れ間でも雨でもなく、ただ均質に世界を包む、虚無の色だった。
***
夜、部屋の灯りを落とし、窓を開ける。
風が頬をなでるように吹いていく。遠くで犬が鳴き、車の走る音が滲む。
静かに思う。
この街に、まだ“気づいている”誰かがいるのか。
それとも、すべては風化して、過去になってしまったのか。
いや――それでいい。
思い出してもらう必要はない。
誰も知らずに、誰も気づかずに、自分だけが知っていればいい。
正義の名前など、どこにも要らない。
主人公は目を閉じた。
次の朝も、同じように始まる。それだけで、十分だった。