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第拾捌章

 薄曇りの空が沈むように低く、街の喧騒もどこか鈍かった。あの事件から、季節は一巡しようとしている。けれど、過ぎ去ったのは時間だけで、街の空気はまだどこか凍てついているように思えた。


 会社を辞めてから、彼は幾度となく、同じ通りを歩いていた。かつての職場の近くを、まるで確かめるように。何を確かめているのか自分でもわからなかったが、それでも足が勝手に向かってしまう。


 そしてその日も、同じルートを歩いていた。すると、角の書店前に立つ制服姿の二人の警官が、目に飛び込んできた。


「……すみません、少しお話よろしいでしょうか?」


 呼び止められた瞬間、心臓の鼓動がひときわ大きく響いた。周囲の音が水の中に沈むように遠のき、時間が妙にゆっくりと流れていく。


 警官はにこやかに立っていた。一人は若く、もう一人は無表情な中年だった。


「最近、この辺りで不審者情報がありまして。確認だけなんですが、お名前とご住所を……」


 あくまで形式的な質問。それはわかっている。だが、その無表情な視線が、どこか深くを見透かすようで息苦しくなる。


 冷静を装いながら、用意していた偽の住所と偽名を伝える。とっさの判断ではなかった。あらかじめ、こういう場面があることを想定していた。だが、やはり実際の圧力は違う。


「少し、手荷物を見せていただけますか?」


 持っていた小さな鞄を開けてみせる。何もない。何も入れていない。だからこそ、何も出てこない不自然さが、逆に浮かび上がる。


「ご協力ありがとうございます。念のため、こちらにお名前を……」


 ペンを持つ手が一瞬止まりそうになるが、抑え込んで書き続ける。字を丁寧に書きすぎると、逆に怪しまれる。かといって崩しすぎると読めなくなる。自然に、何気なく——それがもっとも難しい。


 ようやく開放されたあと、歩きながら深く息を吐いた。喉の奥が渇いていた。全身が見えない汗に覆われたようで、指先が妙に冷たかった。


 あの警官たちは、ただの巡回だったのか。それとも、何かを掴んでいたのか。


 思い返せば、数週間前のことだ。あの旧友——大学の同じゼミにいた顔見知りの男が、不意に会社の廊下で話しかけてきた。


『そういえばさ、あの事件……お前の知り合いじゃなかった?』


 何気ない会話のふりをして、その目は鋭かった。記憶の底に沈めた顔、当時のサークルで彼と親友だったあの男の名を口にしなかったが、確かに感じた。「気づいている」あるいは「疑っている」——その中間のような、確信を探るような問いかけだった。


 その日を境に、職場での視線がわずかに変わった。誰もはっきりと何かを言わない。ただ、少しの間が、少しの距離が、確実に空いた。それが何よりも厄介だった。


 彼は会社を辞めた。疑われているかどうかではない。そういう空気の中で、無関係を装うには、あまりに空気が粘ついていたからだ。


 そして今、警察との接触。見えない線が確かに伸びてきている。誰かが引いているのか、それとも偶然の連鎖か。だが、彼はまだ捕まっていない。証拠はない。痕跡も残していない。


 ひとつ、胸の奥に灯り続けている炎がある。それは後悔ではない。情けでもない。言葉にはできない、冷たい確信のようなものだ。


 必要なことだった。ただそれだけ。


 彼は再び歩き出す。すれ違う人々の顔は無関心だ。けれどその中に、また別の「目」があるのかもしれない。街が静かに彼を呑み込んでいく中で、復讐の業火はまだ鎮まってなどいなかった。


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