第拾陸章
雨が降っていた。
細く、冷たい雨粒が路面を染めるように降り続けていた。
傘を持たず、濡れるままに歩く主人公の姿は、どこか風景の一部のように溶け込んでいた。
その足元に近づいてきたのは、濃紺のレインコート。
胸元の小さなプレートには、警察の紋章。
目を合わせる前に、声がかかった。
「すみません、ちょっとよろしいですか。最近この付近で不審者の目撃がありまして」
その声は柔らかかった。
押しつけがましくもなく、警戒を解くように低く抑えられていた。
だが、主人公は直感する。この警官は“見る側”の人間だと。
「ああ、はい……なにか?」
「お名前とご住所、拝見しても?」
主人公は躊躇なく社員証を差し出した。
先月退職した会社のもので、まだ身分証代わりに使える。
警官は一瞬だけ目を細めると、スマートフォンで照合を始めた。
「このあたり、お住まいではないですよね。なにかご用ですか?」
「人と会う約束を……していたんですが、来なかったので」
「名前を伺っても?」
「……顔見知り程度の人で、詳しくは知らないんです。ここに来るのは初めてで」
「初めてにしては、場所が随分……山奥ですね」
雨の中、ふたりの間に短い沈黙が落ちた。
だが、主人公の呼吸は乱れない。脈も速まらない。
すでに“会話を交わす”ことすら想定済みだった。
「すみませんね。念のため、今週どこかで警察署にお立ち寄りいただいても……」
「わかりました」
警官は一歩退き、礼をして去っていく。
その背中を見送りながら、主人公は思う。
(……こちらを“疑っていない者”として話していた。だが、“観察”はしていた)
そのわずかな違いに気づくか否かが、生死の分かれ目になる。
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夜、主人公は安アパートに戻り、電気をつけないままソファに腰を下ろす。
テレビの画面には、音声のないニュース番組。
テロップだけが淡々と流れ続けていた。
『○○県山中で発見された焼死体の件、依然として身元は不明』
その一文の裏に、数日前に消えた“あの男”の影があることを、世の中は知らない。
顔を洗うように額に手を当て、主人公は静かに目を閉じた。
警察はまだ“外周”を歩いている。
だが、ほんの数センチ、その足が内側に入った瞬間――。
主人公は立ち上がり、床下収納を開ける。
そこには、過去の道具と記録、そして――“終わり方”が保管されていた。
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翌朝。駅前の喫煙所で、主人公は偶然にも、再び“あの警官”と出会う。
視線が交錯する。
互いに、ほんの一瞬だけ“知っている”という気配を交わす。
「おはようございます」
「ああ……昨日はどうも」
警官は缶コーヒーを取り出して、自販機の前で立ち止まる。
一口飲んでから、ふと言った。
「最近、社会の中で“人の顔”が消えてる気がするんですよね。見てるようで、誰も見てない。いるはずなのに、誰も気づかない」
「……そうですね」
「あなたみたいに、ちゃんとした服着て、礼儀もあって、そんな人が――もし“誰か”だったとしても、きっと誰も信じないんでしょうね」
缶を握る音が、ぐしゃりと潰れる音に近かった。
主人公は微笑すらせずに言った。
「そういうのは、小説の中だけですよ。現実には、みんな自分のことで精一杯ですから」
警官はうなずいた。その通りだ、というように。
だが、視線はやはり、わずかに探っていた。
(――まだ線を越えていない。けれど、それは“時間”の問題だ)
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その夜、主人公はノートに短く言葉を書いた。
「正しさ」は、誰かを赦す理由にはならない。
だが「必要だったこと」は、誰にも否定できない。
復讐に後悔はない。
だが、物語の外側では、世界がじわじわと“真実”に近づこうとしている。
その時、彼はどうするのか。
それを問うことに、意味はあるのか。
彼はただ、自分の手で選んだ未来に、まっすぐ歩いていくだけだった。