第拾肆章
「――あの人、危ないかもしれないって思ってるんです」
鷺沢梓は、昼休みの社内カフェの片隅で、誰にも聞こえないように小声でそう呟いた。
向かいに座る同僚・佐伯は、スプーンを口に運ぶ手を止め、眉をひそめた。
「誰のこと?」
「……例の中途で入って、すぐ辞めた人。ちょっとだけ、顔見知りだった人。大学が一緒だったかもしれない人」
名前は出さない。
それは彼女の中でも、まだ疑念の域を出ていないからだ。
「なんか、あの人のまわりで……おかしなことが重なってて」
佐伯はあからさまに訝しげな表情を浮かべる。だが梓は続けた。
「大学の知り合い、少しずつ死んでる。偶然って言えばそれまでだけど……あの人の態度、何か隠してる気がする」
「ちょっと梓、それはさすがに考えすぎじゃ……」
「うん、そうかも。でも、気になるの。調べてみる価値はあると思ってる」
•
夕暮れ。
主人公は職場の資料をカバンに詰め込みながら、ゆっくりと手を止めた。
“気配”に気づいていた。
鷺沢梓が、自分を“追っている”こと。
いや、“疑っている”と言った方が正確だろう。
彼女の視線の重さは、もう好奇心の域を超えていた。
だが、それでも動じることはない。
彼女は未だに、核心にたどり着けてはいない。
証拠はない。理由も動機もつながっていない。
そして、何より――彼女は正しすぎる。
正しすぎる人間は、壊れやすい。
自分の信じてきた倫理が通用しない世界に触れたとき、その“正義”は鋭利な刃となって、持ち主を裂いてしまうのだ。
そのとき、どうなるか。
それはもう何度も見てきた。
廃墟で、冷たくなった人々の顔に刻まれた“後悔”のようなものが、それを物語っている。
「――そろそろ、動くべきか」
独りごちる声は、静かで冷たい。
雨に濡れた街が、ガラス越しにじんで見える。
鷺沢が“告発”を選ぶなら、それは彼女自身の“選別”の始まりとなるだろう。
•
その夜。
鷺沢梓はひとり、自宅のパソコンを前に検索を重ねていた。
「七尾悠……大学……死亡……」
ぽつぽつと散らばる情報。
明確な記事はない。だが、噂の断片が掲示板やSNSの奥に散らばっている。
『いじめがあった』『加害者グループが社会人になって消息不明』『事件性はないとされている』
そんな言葉の群れの中に、確かに一筋の違和感があった。
そして、見つけてしまった。
ある投稿に記された、五人の名前。
それは……ここ一年で相次いで亡くなった者たちの名前と一致していた。
梓の手が止まる。
心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、唇を噛む。
偶然なんかじゃない。
そう確信しかけたそのとき――
「……なにしてるんですか」
背後からかけられたその声に、彼女の心臓が凍った。
振り返ると、そこにいたのは――あの“顔見知り”だった。
傘も差さず、髪を濡らしたままのその姿は、どこか幽霊めいていた。
彼は、ゆっくりと部屋に一歩足を踏み入れた。
「調べ物、ですか?」
その声に、感情はなかった。
まるで、ただの事実確認であるかのような、穏やかで冷たい声。
梓の指先は、パソコンの画面から逃げることもできずにいた。
目の前にいるこの人が、何をしてきたのか――いや、これから何をするのか。
それを、考えまいとすればするほど、意識はそこに集中してしまう。
「私……なにも……」
その言葉を、主人公は遮ることなく、ただじっと見ていた。
•
その夜、彼女がどうなったのか――誰も知らない。
ただ翌朝、彼女の家のカーテンが閉ざされたままだったことを、近所の住人が覚えていた。
ニュースは流れない。
警察も動かない。
復讐は、またひとつ静かに果たされた。
そして、その記憶は闇の中に沈んでいく。
正しさすら、もう声を上げることができない深度へ。




