第拾参章
空が泣いていた。
梅雨の終わりを思わせる濡れた空気の中、湿ったアスファルトの匂いが鼻腔を刺激する。
濁った空に覆われた駅前で、鷺沢梓は立ち止まっていた。傘も差さず、何かを考えるように。
俺は、その数メートル先、コンビニの軒下に立ち、観察する。
いつからだろう。
彼女の視線が、こちらを刺すようになったのは。
記憶の縫い目がほどけていく音が、こちらにまで聞こえてくるような気がした。
「……偶然ですね」
彼女がこちらに気づいた。
軽く会釈をする――けれど、その笑顔の下にあるのは、もはや“無知”ではなかった。
「また会いましたね」
俺は、作られた笑顔で応じた。演じるのは、もう慣れている。
「少し、時間ありますか? コーヒーでもどうです?」
誘いの声は柔らかく、しかしどこか強引だった。
答えを拒む選択肢は、あらかじめ排除されているような、そんな重み。
俺たちは、駅前の静かなカフェに入った。
雨の音が窓を叩く中、温かい光に包まれた空間が、逆に異物のように感じられる。
「……聞いてもいいですか?」
彼女はコーヒーカップに口をつけず、真っすぐに俺を見た。
その視線の強さに、一瞬、息を飲みそうになる。
「七尾先輩のこと、知っていましたか?」
沈黙。
コーヒーの香りが、かすかに苦く香る。
「七尾……? どなたでしたっけ。よくある名字ですし」
彼女は笑わなかった。
ただ、その目が“何か”を確かめようと、じっとこちらを見つめていた。
「大学の時……同じゼミだった方が亡くなったんです。たしか、あなたと同じ年でしたよね」
不意に、空気が重くなる。
「……そんな話、ありましたか?」
「ありましたよ。私は直接は知らなかったけど、周囲が妙に騒いでいたのを覚えています。突然死だとか、いじめがあったとか……」
俺はあくまで平然を装った。
だが、その言葉の端々に“誘導”がある。
「それがどうかしましたか?」
「最近、大学の知り合いが立て続けに亡くなっているって話、知っていますか?」
その一言に、周囲の雑音が一瞬消えた気がした。
「偶然って、どれくらい重なったら不自然になりますかね」
彼女はそう言って、ようやくカップに口をつけた。
ぬるくなったコーヒーを、苦みを飲むように一口含む。
俺は、それを黙って見ていた。
彼女は知っている――あるいは、もう“確信”に近い場所にいる。
だが、口に出すことはできない。
なぜなら、確証がない限り、ただの妄言になってしまうからだ。
「昔のことなんて、みんな忘れて生きてますよ。今さら掘り返しても、何も出てきません」
俺の言葉に、彼女はふっと笑った。
「そうかもしれません。でも……忘れられない人もいるんですよ」
それは、まるで“あなたのことを見ている”と告げるかのような声だった。
•
店を出て、再び雨の中。
彼女は傘を差して先に歩き出す。
俺は、その背中を少しだけ見送った。
その肩に、何かを背負っているような、そんな影を感じながら。
また一歩、輪郭が浮かんだ。
俺の計画にとって、それは決して喜ばしいことではない。
だが、必要ならば――“間引く”ことも選択肢に入れなければならない。
善意も、正しさも、時に毒になる。
それは、あの夜、山の廃墟で証明されたはずだ。