第拾弐章
空気が乾いていた。
冷たい風がビルの隙間を吹き抜けるたび、首筋の肌を薄く裂くような感覚が走る。
この都市は、感情を持たない。
ただ回り続ける歯車のように、誰かの悲鳴さえもアスファルトに吸い込んでいく。
鷺沢梓の勤務終了時刻は18時。
図書館の裏口、暗がりの中で彼女を待つ。
無言の足音が近づき、やがてその姿が現れた。
「こんばんは」
俺が声をかけた瞬間、彼女の肩がわずかに跳ねた。
恐怖ではない――意識の中に既に“予感”があったからこその反応。
「……どちら様ですか?」
その言葉には、警戒と、わずかな震えがあった。
だが、それは隠そうとしていた。
彼女は「忘れていない」。
いや、「気づいている」のだ。
俺は一歩近づいた。
距離は、約1.5メートル。
追いつめるには、十分な距離。
「駅で会いましたよね。数日前。あのとき、こちらをじっと見ていたから」
彼女は一瞬、何かを探すように目を泳がせた。
まるで記憶の底を覗きこむように。
「そうでしたか……すみません、あまり覚えていなくて」
その声に、微かに乗った揺れを見逃さない。
目元の筋肉が固く、笑っていない。
「人違いでしたら、失礼を」
俺は軽く頭を下げ、すぐに背を向ける。
彼女が何かを言いたげに口を開きかけ、すぐ閉じた音が背後に落ちる。
•
帰宅後、洗面台の鏡の前に立つ。
マスクを外す。
そこに映るのは、誰の顔でもない。
ただの“空洞”だ。
――彼女は覚えていた。
でも、確信には届いていない。
これがもし“日常”なら、あの程度の疑念は流れていく。
けれど、これは“日常”ではない。
沈黙を貫いたあの日から、俺の人生はもう別の座標にある。
次に会うとき、彼女は問いを持っているかもしれない。
「なぜ、あなたはそこにいたのか」と。
そのときが“選択”の瞬間になる。
•
数日後、雨。
鷺沢は傘を差し、同じように裏口から出てきた。
そのまま、通りへ向かって歩いていく。
俺は距離を取りながら、彼女の背を見ていた。
彼女が何かを振り返った瞬間、視線が交錯した。
今度は、彼女が口を開いた。
「あなた、以前……七尾先輩と同じ大学でしたか?」
俺は笑みを浮かべた。
しかし、口元だけで。目は笑っていない。
「そうでしたかね。名前すら、もう忘れてしまいましたけど」
静かな沈黙が降りた。
雨音が、傘の上で弾ける。
誰もいない路地裏。誰も助けを求めない空間。
彼女は視線をそらした。
そのまま何も言わずに去っていく。
全ての“確認”は終わった。
•
ノートを開く。
そこには、いくつもの名前と、日付と、場所が書かれている。
その中の一つに、新たに鉛筆で線を引いた。
鷺沢梓――必要ならば“処理”する。
彼女は善人だ。
何の罪もない。
けれど、この世界に“善”であることが免罪符になるとは限らない。
「正しさ」は、時に最も邪魔になる。
それが彼女の運命を決めることになるだろう。