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第拾壱章

朝から霧が濃かった。

通りを歩く人の姿が、どこか絵の具でにじませたように歪んで見える。

世界が輪郭を失っていく感覚。

けれど、それは俺にとって、むしろ心地よい光景だった。


――名前を出してはいけない。

そんな思いが、記憶の中にずっと根を張っていた。


あの夜、親友が死んだと知ったとき。

言葉は一切出なかった。

ただ、心の奥底が凍っていく感覚だけがあった。

そして、同時に“黒い何か”がゆっくりと目を開いた。


鷺沢梓。

彼女は今、都内の大学附属の図書館で働いている。

ネット上の情報はごくわずかだが、たしかにそこに「生きている」。


彼女が何を知っているのかは、まだ不確かだ。

ただ、あの駅での“あの目”がすべてを物語っている。


気づかれた。

あれはただの記憶ではない。

記憶に基づいた「疑念」だ。


俺はそういう“兆し”を見逃さない。


その日の午後、図書館の自習スペースの隅にいた。

マスクをし、髪を少し切り、今の俺は別人のような姿だった。

彼女の勤務時間は13時から18時。

裏口に立ち、来るのを待つ。

14時すぎ、彼女は現れた。


淡いグレーのカーディガンに、落ち着いた紺のスカート。

静かで、どこにでもいるような地味な風貌。

けれど、その目だけが生きていた。

あの夜と同じ――疑念に濡れた目。


彼女は、何かを思い出そうとしていた。

あるいは、すでに“確信”に近づいているのかもしれない。


図書館の二階、廊下の奥にある書庫。

その先に、防犯カメラのない死角があった。

一瞬の沈黙の中で、俺はそこに「記憶の輪郭を削る音」を聞いた。


選択肢は二つしかない。

沈黙を維持するか。

記憶ごと、消すか。


その夜、自宅に戻ると、部屋の隅に置いていた“箱”を開けた。

あの日以来、一度も触れていない小道具。

手袋、眼鏡、使い捨ての服、消毒液、ナイフ。


“作業”に必要なものはすべて揃っている。


けれど今回は、それを使うかどうかはまだわからない。

鷺沢梓は、俺の人生に直接的な関わりを持っていない。

ただの「外野」であることに違いはない。


だが、外野が声をあげた瞬間に、全てが変わる。

そうならないうちに、歯車をもう一度、静かに噛み合わせる。


夜の街に出ると、ひとつひとつの光がやけに強く感じられた。

誰かの会話が遠くから聞こえてくる。

「最近のニュース、すごいよな……犯人まだ捕まってないんでしょ?」


その言葉に、誰かが小さく笑う。

俺は気づかないふりをして歩き去った。

この都市は雑音に満ちている。

そのすべてが、俺の背を押してくる。


明日、鷺沢梓の帰り道に“声”をかけよう。

確認するためだ。

彼女がどれほど“覚えている”のか。

それが浅い記憶なら、沈黙に戻せばいい。

もし深いなら――記憶ごと消してしまえばいい。


すべては、その一言で決まる。


「あなた、あのとき――どこにいましたか?」


その言葉が出た瞬間、答えは不要となる。

静かに、丁寧に、正確に。

まるでそこに“意思”など存在しなかったかのように。

俺は、再び“必要なこと”を行うだろう。


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