第二章 上
この日のために、言葉のひとつ、歩数の一歩まで計画してきた。
彼らの命を絶つその瞬間まで、狂いなく運ばねばならない。
廃墟の空気は、湿気を帯びた埃と、濡れたコンクリートの匂いが混ざっている。足元には、工事途中の鉄骨の破片や、苔むした木片が無造作に転がり、時折カラスの鳴き声が遠くから響く。
まるで、そこが最初から死を迎えるためにある場所のようだった。
——彼を追い詰めた場所とは違う。でも、同じように誰にも助けを呼べない、密室。
それが、この廃墟だった。
初めて彼の遺書を目にしたとき、俺は震えていた。
大学時代、ふたりで共有していたパスワードのクラウドアカウントに、数カ月後ふいにアップロードされていたファイル。彼の文字。彼の言葉。彼の絶望。
——ごめん。俺、頑張れなかった。
——〇〇くん(※名前伏せ)には感謝しかない。
——でも、もう、苦しくて。
——生きてる意味が、わからないんだ。
あれを読んで以来、俺は変わった。
憎しみ、怒り、悲しみ、無力感。
あらゆる感情が、灰のように冷たく沈殿していった。
それでも、熱源だけは失わなかった。内臓の奥で、焚き火のように灯る、復讐の火。
大学の卒業式で見た、彼らの笑顔。
告別式には、誰ひとりとして来なかった連中の、ぬけぬけとしたSNSの投稿。
「社会人なったらまた飲もうぜ」——お前らにそんな資格は、ない。
白井が来るのは分かっていた。いつも一番乗りで、仕切るつもりでやって来る。
予定の一五分前に、林の中からガサガサと音がしたとき、俺はすでに心を無にしていた。
「おい、おい、お前かよ。ひさしぶり~、なんだよこの場所、マジで廃墟じゃんか」
思った通りの、軽薄な第一声。
皮肉にもそれが、あの日と同じ声色で、耳にこびりついた。
「ってか、こっちの車道通ってきたんだけど、最後めっちゃ迷ったわ。お前がピン送ってくれなかったら絶対遭難してたぞ。……他のやつらも来るの?」
白井はニヤニヤしながら足を鳴らして近づいてきた。
俺が立っていたのは、ロビー中央にある、かつて受付カウンターだったであろう台の前。
そこに、缶コーヒーを三本、無造作に並べていた。1本は手に取った自分のもの、残りは白井用と予備だ。
「懐かしいよな、こういうの。サークルの合宿ってさ、だいたい山奥で、こういう建物泊まってたじゃん? でもさ、誰だっけ、あいつ……ほら、あの地味な……名前、なんだっけな」
とぼけたように言ったその名前こそ、彼だった。
白井の目は、俺の表情を探っていたのかもしれない。
だが、俺の顔は常に微笑をたたえ、過去を笑い合うような演技を崩さなかった。
「思い出すなあ、あの時、あいつがコンロ倒して火事寸前になったことあったよな。お前、消火器ぶちまけてたよな」
違う。
それは、お前らがコンロをわざと揺らして、おどおどしてた彼に責任を押し付けた事件だった。
火元を止めたのも、消火器を使ったのも、全部彼だった。
そのとき俺は別の用事で部屋にいなかった。戻ってきたとき、彼が消火器の粉をかぶって俯いているのを見た。
白井たちは爆笑していた。
あの光景は、何度も夢に出てきた。
俺の頭の中では、彼の姿はいつも真っ白に染まっていた。
白井はコーヒーの缶を開け、一口飲んでから、不意に背中を向けた。
その瞬間、俺は立ち上がった。
後ろに隠していた金属バットを振りかざす。
音を立てないよう、ゆっくりと、しかし迷いなく、頭部を狙って——
——ゴッ。
鈍い、肉が凹む音。
白井が、ひゅっと息を飲む音と同時に、身体が崩れる。
俺は即座にもう一撃、側頭部に叩き込む。
白井は呻きもせず、倒れたまま動かなくなった。
額から血がゆっくりと広がっていく。その下には、ブルーシートを敷いていた。
証拠を残さないため、これも準備済みだ。
腕を掴み、床の割れ目に向かって引きずる。
そこはコンクリートの下層階へと続く建設途中の空洞で、深さ4メートル。落とせば、しばらくは誰も見つけられない。湿気と泥が匂いを吸収してくれる。
ザッ、ザッ……と、骨のこすれる音を聴きながら運ぶ。
——ひとり目。
俺は目を閉じた。
叫び出したい感情を、胃の奥に押し込める。
「これで一歩、彼に近づけたかな……」
心の中でだけ、誰にも聞こえない独白を呟く。
復讐とは、感情でやってはいけない。計画で行うものだ。
淡々と、一歩ずつ、着実に。罪人を、天秤の上に並べていくように。
コンクリートの穴に白井の身体を落とした瞬間、濁った音が響いた。
——ぼちゃん。
まるで水たまりに石を落としたような、なにかが割れるような音だった。
次は……花村。
彼女の命を、どうやって奪うかは、もう決まっている。