第玖章
午後、灰色の雲が空を支配していた。
冷えた空気は夏の残り香を押しのけ、町を無言の警戒で包んでいる。
俺は商業ビルの三階、ガラス張りのカフェにいた。
手元のコーヒーは冷めている。
視線は、遠くの歩道に集中していた。
例の“グレーの傘”の人間は、昨日も現れた。
時間は違えど、距離は縮んでいる。
明らかに、こちらを“知っている”動きだった。
だが、俺の顔を知っているはずがない。
サークル仲間たちはすべて消した。
死体も、痕跡も、行動記録も。
証拠と呼べるものは残っていない。
ただ――
一人だけ、想定から漏れていた存在がある。
•
「〇〇くん……だったよね?」
声をかけてきたのは、かつて同じ大学に通っていた女だった。
名前は思い出せない。
いや、そもそも知らなかったのかもしれない。
ただの顔見知り。キャンパスの片隅で何度かすれ違っただけの存在。
今、俺の目の前に立っている。
髪を結い上げ、落ち着いたスーツを着こなし、だが目だけは異様に鋭かった。
「会社、辞めたんだって?」
――なぜ知っている。
言葉が出かかったが、飲み込んだ。
咄嗟に笑顔を作り、適当な相槌でその場をしのぐ。
「最近、疲れててさ」
「そうなんだ。……あの事件、知ってる?」
「事件?」
女の目は一瞬だけ俺の目を射抜いた。
「ニュースでやってた。山の中の廃墟でさ……」
「……ああ、なんか見たかも」
「やっぱり。見てると思った」
意味深な言葉に、心臓の奥が静かに動いた。
女はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、コーヒーを一口だけ飲み、目を伏せて去っていった。
その背中を見送る俺の指先は、震えていた。
恐怖ではない。
ただ、少しだけ想定外だった。
“予感”が現実になるまで、そう長くはかからないかもしれない。
•
帰宅後、ポストを開けると、また紙が挟まっていた。
《知ってる。あの日、君はそこにいた》
今度の文字は、乱れていた。
意図的に崩された字体。
まるで“感情”を持った誰かが書いたように。
俺は部屋の灯りをすべて消し、暗闇の中で考えた。
この手の「疑念」は、放置すると腐って膨らむ。
ならば、切除するしかない。
相手の顔、声、足取り。
すべて覚えている。
次に会うときは――記録ではなく、証拠として消す。
それが、俺にとっての「赦し」だ。