第捌章
六月の雨は、無言のまま記憶を濡らす。
アスファルトに反射する光が揺れていた。
通勤ラッシュの雑踏から外れた駅裏の細道――
人の気配はまばらで、傘の群れはそれぞれの孤独を守っている。
俺は左手で傘を握りしめながら、右手のポケットの中にあるナイフの柄に触れていた。
いつからだろう。
何かに“備える”という行為が、日常の一部になったのは。
無用心に声をかけてくる人間が増えた。
見知らぬ通行人、古本屋の老人、駅の清掃員。
会話の端々に含まれる一拍の間。
「あなたは、誰かに似ている気がする」と、通りすがりの女が言った。
その「誰か」を、俺は知っている。
“あの事件”を報道で見ていた人間なら、断片的に記憶に残しているだろう。
だが、それは断片のはずだ。
俺の顔は報道されていない。
名前も映像も、出る理由がない。
けれど、なぜか気づかれている。
気配が、強くなっている。
•
夜、家のポストに紙片が挟まれていた。
《君は彼のことをどこまで知っていた?》
たったそれだけ。
印刷された文字でもなく、走り書きの手書きでもない。
フォントのように整いすぎた人工的な字だった。
それが逆に不気味だった。
何かが“冷静に”こちらを見ている。
感情ではなく、記録のように。
彼――死んだあいつ。
いじめで命を絶たれ、誰にも知られず消えていった、ただの一人の人間。
その影を、誰かが探っている。
会社を辞めてから、時間が空いた。
生活にリズムがなくなったのではない。
むしろ、異常なまでに整った日課の中に、自分を押し込めていた。
午前五時半に起き、決まった散歩コースを歩き、決まった分量だけ新聞に目を通す。
朝食のあと、無言のまま小一時間だけ図書館の隅に座る。
目立たないように、視線を滑らせ、すれ違う人間の記憶を取捨する。
そのすべてに“誰かの目”が入り込んできた。
気づかれないように、しかし確かに、擦れたような気配がこちらを伺っている。
•
ある夜、雨音の向こうで小さな声が聞こえた気がした。
テレビも付けていなかった。
音楽も流れていない。
外を覗くと、路地の先に傘がひとつ、止まっていた。
色は薄いグレー。
男か女かもわからない。
ただ、立っていた。
まるで俺がカーテンを開けるのを知っていたように、タイミングよく、そこにいた。
じっと、何もせず。
五秒、十秒……やがて傘は動き、背を向けて消えた。
その背中が何かを告げていた。
――見ているぞ、と。
ドアチェーンを確認し、窓に補助鍵をかけ、深く息を吐いた。
恐怖ではない。
これは確認作業だ。
俺が、間違っていないということの、証明のようなものだ。
•
雨は止んだ。
湿った空気の向こうで、静かに誰かが歩いている。
その足音は、たしかに、こちらへ向かっている。
やがて、それもまた――潰すべき対象となる。
俺は、必要なことしかしていない。
これは贖罪ではない。
裁きでもない。
ただの、清算だ。




