第陸章
その翌日、朝から喉の奥が熱かった。
風邪でもない、咳も出ない。ただ、喉の奥だけが熱い。
体温計には平熱と変わらぬ数値が表示されるが、確かに身体は異常を感知していた。
まるで何かが入り込んでいるような、あるいは、内側から目を覚まそうとしているような感覚。
仕事は辞めた。
退職届は一週間前に出してある。
有給の最終消化。もう誰からも連絡は来ない。
唯一、一人だけ――社内の別部署で顔だけ知っていた同僚が、「突然ですね」とメッセージを寄越したが、それに返す言葉はなかった。
そういう距離感のやつに限って、鋭い。
俺は部屋を出て、街の図書館に向かった。
誰とも関わらずに済む、静かな空間。
手に取ったのは、心理学と犯罪学に関する本だった。
あくまで“趣味”の範囲だ。
ここに正義も、自己弁護もない。
読むことで、自分が見えなくなるわけでもない。
だがふと、ページの端に鉛筆で書き込みがされているのに気づく。
「人は罪悪感を正義と置き換えることで、自分を赦す。」
書いたのは誰だ。
どうでもいい。
だが、その一文が“このページを選ばせた”感覚に胸の奥がかすかにざらついた。
そのとき、視線を感じた。
明確に、強く。
目を上げると、二列先のテーブルに女がいた。
目元をマスクで隠し、帽子を深くかぶっている。
年齢も雰囲気もつかめない。
だが、確かにこちらを“観察している”。
目が合うと、彼女はゆっくりと本に視線を落とした。
あくまで自然に。だがそれは“演技の自然さ”だ。
一度や二度の視線ではない。
執拗で、確実な関心。
俺は本を閉じ、立ち上がった。
何もなかったように、図書館を出る。
外に出ると、曇天が頭上に広がっていた。
冷えた風が襟元をくすぐる。
そのまま駅の方向に歩きながら、ガラスに映る後ろの景色を観察する。
ついてきている。
女――いや、“誰か”が。
距離はとっている。
プロではない。だが、こちらを試すような動き。
足音は聞こえない。だが、街の雑踏のなかで、確かに「濡れた足音」がついてくるような気配があった。
しばらくして、俺は小さな喫茶店に入った。
カウンター席に腰かけ、コーヒーを頼む。
店の奥の鏡が、入口の様子を映している。
五分後、その女が入ってきた。
やはり同じ帽子、同じコート。
手にはスマホ、だが耳にはつけていない。
周囲に溶け込みながら、空いているテーブル席に座った。
なぜ“俺を見ている”とわかったのか。
それは彼女の目線が他の何にも関心を寄せていないからだ。
メニューも、店内のBGMも、他の客も、どうでもいいという態度。
俺はそのまま、コーヒーを半分残して席を立った。
彼女は動かない。
試している。
俺の“動き”を見て、何かを確かめている。
一体、どこから漏れたのか。
名前を使っていない。
記録も削った。
誰にも話していない。
それでも、誰かは何かを嗅ぎつけている。
廃墟のあの夜、俺は最後の一人を追い詰めた。
泣いていた。震えていた。
命乞いの声すら出ず、ただ「助けて」という目だけが俺を見ていた。
それすら無視して、俺はやり遂げた。
そして、今――
別の“目”が俺を見ている。
誰かが、俺の“選択”をなぞろうとしているのかもしれない。
あるいは、俺自身を――次の“対象”として。
だが、構わない。
すべては選択の連鎖。
俺が“終わらせた”その夜から、世界は俺に対して正しい形で応えている。
この追跡者が誰であろうと、受け止めるだけの準備はできている。
必要なのは、ただ一つ――
「揺れないこと」だけだ。




