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第伍章

昼過ぎ、街の中心を外れた川沿いの道を歩いていた。

冬が近い風が、アスファルトにこびりついた落ち葉をかき回しながら、濁った水面を揺らしていた。

この場所には、一度だけ来たことがある。

たしか、二年前の秋。

会社の研修帰り、同期の誰かが「飲み直そう」と言い出して、何人かでふらふら歩いていた。

あの時、一緒にいたやつの名前はもう思い出せない。

覚えているのは、ふと橋の下に佇んでいた猫の目だけ。

暗い中でも、不自然に光っていた。


川の対岸には、古い団地が並び、洗濯物が凍りつくように揺れていた。

白いシャツ、色あせたバスタオル、そして無人のベランダ。

どこも人が「生きている」気配は薄いのに、

なぜかすべての窓から誰かがこちらを見ているような圧があった。


俺は歩きながら、スマートフォンを開いた。

GPSはオフ。

SNSの類も、復讐劇以降、すべて削除していた。

通信履歴すら定期的に消している。

それでも、「何か」が引っかかっている。


件のメール――

「君は正しかったのか?」


その一文を送ってきた相手の手口は、明らかに「感情」ではなく「構造」を読み取っていた。

衝動的な犯行への批判ではない。

社会的な倫理を問うのでもない。

あくまで、俺の“理論”に対して、向こうの“理論”が静かにぶつかってきたのだ。


理論であれば、対話ができる。

そして対話が成立するなら――

いつか、そいつは俺の前に現れる。


その時、足元に影が差した。

曇り空のはずなのに、日差しが遮られたように、一瞬だけ世界の彩度が落ちた。

振り返ると、後方の公園の入口に、人影が立っていた。

男か女かもわからない。

遠すぎる。

こちらに向けて何かをしている様子はない。

ただ、そこに“いる”ことだけが伝わってきた。


視線を戻し、再び歩き出す。

心拍数は乱れない。

焦りも怒りもない。

ただ、「なるほど」という確信だけが脳内に残っていた。


追われているのではない。

観察されている。

それはむしろ、“狙われている側”ではなく、“獲物がどう動くか”を見定めているハンターの視線に近い。

かつて俺がやったように。

最初のターゲットを夜の廃墟に誘い込み、最後まで一言も交わさずに静かに殺したように。


そのとき、胸ポケットの中でスマホが震えた。

通知ではない。

通話。

番号は表示されない。

一瞬だけ躊躇したが、指は迷いなく応答を押した。


「……覚えてる?」


音声は加工されていた。

高めの女性のようにも、年配の男にも聞こえる中性的な響き。

けれど、声の“質”ではない。

そこに含まれた「温度」が、妙に生々しかった。


「誰だ?」


俺は訊かない。

答えるのは無駄だと知っている。

むしろ、相手の間を読む。

沈黙が数秒続いたのち、声が続いた。


「君は、あの夜の空気を覚えているかい?」


唐突な問い。

意味はない。

だが俺の思考は自動的にあの夜に引き戻された。

雨が降っていた。

廃墟のコンクリートに染みる血のにおい。

ライトに照らされた、歪んだ顔。

笑っていたやつ、泣いていたやつ、怒鳴ったやつ。

そして皆、最期には黙った。


「……覚えているよ」


通話はそれだけで切れた。

ノイズもなく、端的に、ただ繋がり、ただ終わった。


俺はスマホをポケットに戻し、何事もなかったように歩き続けた。

この街には、まだ「続き」がある。

すべてを終わらせたつもりでいたが、それはただの“節目”だったのかもしれない。


あの夜は終わった。

だが、俺の中にある夜は、まだ終わっていなかった。


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