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第肆章

辞めた会社から離れて、まだそれほど日が経っていない。

しかし、空気は明らかに違っていた。

定時に出社することもなければ、誰かと昼を食べる約束をする必要もない。

他人の笑顔の裏を探る必要もなければ、足音に神経を尖らせることもない。

そう思っていた。


ある日、図書館の自習スペースで、俺は奇妙な違和感に気づいた。

何かが視界の隅に引っかかる。

新聞の陰から誰かがこちらを見ていたような感覚。

振り返ってもそこに人はいない。

しかし、誰かの視線がまだ肩口に刺さっているような、鈍い痛みが残った。


違和感は一度感じると、次第に濃くなっていく。

帰り道。踏切で待っていた時、すぐ後ろに立っていた女の子が、何気なく俺を見上げた。

その目に映るのは、ただの通行人。

だが、そこに「認識」があった。

“見られている”という感覚。

名を呼ばれたわけでも、問いかけられたわけでもない。

それでも、確かに俺を“知っている”ような目だった。


部屋に戻ると、またあのようなメールが届いていた。

今度は、山中の廃墟ではない。

駅のホーム。

俺が立っていた場所のすぐ横から撮影されたような角度だった。


そこには俺の背中が写っていた。

画面越しにでもわかる、気配の濃さ。

明確な「狙い」がある。

だが、脅しではない。

告発でもない。

これは――“観察”だ。


なぜ、今さら?

完了したはずの復讐に、余白など残していないはずだった。

徹底した準備、時間の配分、痕跡の処理、情報の遮断。

どこかでミスがあったのか?

それとも、最初から誰かが“見ていた”のか?


次の日、コンビニで買い物をしていたとき。

レジの女性が、商品のバーコードを読み取る手を一瞬止めた。

「あの、以前……どこかで、お会いしたような……」

俺は首を横に振った。

「人違いかと」

「……そうですか、すみません」

彼女の目は、どこか腑に落ちないような揺れを含んでいた。


帰宅後、またメール。

今度は言葉が添えられていた。


「君は正しかったのか?」


差出人はない。本文はそれだけ。

挑発ではない、確認だ。

他人の「正しさ」を問う言葉は、何よりも強くこちらの輪郭を抉ってくる。

だが、俺は問われることを恐れはしない。


あの夜の冷たい風の中、俺は確かに決めたのだ。

誰も代わりにやってはくれないことを。

誰も罰しないなら、自分の手で正義を形にすると。


後悔はない。

あの手にこびりついた生ぬるい血の感触も、

あの目に映った恐怖と怒りと後悔の混じった顔も、

すべて「必要だったもの」として、俺の中にある。


ただひとつ。

何かが、また始まろうとしている。

それだけが、確かだった。


窓を開けると、外はいつの間にか雨だった。

その音は、かつてあの山中で聞いた雨音に似ていた。

濡れた土、腐敗した木、そして血の混じる臭いを思い出す。


誰かが近づいているのだろうか。

それとも――俺がまた歩き出しているのか。


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