第参章
退職届を提出したのは、唐突な決断ではなかった。
すでに心のどこかで、ここに長くいるべきではないと、ずっと思っていた。
あの顔見知りが、机の間から時折こちらを見る視線。
会話の端々に混じる、ほんのわずかな「探り」。
同僚たちの笑い声の合間に漂う、不確かな不安。
それらすべてが、必要以上に敏感な神経を刺激した。
いや、刺激していたのではなく――俺がそれを意識して「聞こうとしていた」だけなのかもしれない。
最終出勤日。机を片付けながら、俺は最後まで一言も多くを語らなかった。
送別の菓子折りも渡さなかったし、メールでの挨拶すら打たなかった。
「何も言わずに去る」ことは、時として一番印象に残る。
昼休みに、あの顔見知りの男が、給湯室の前で話しかけてきた。
「……やめるって、本当なんだな」
「ええ」
「……もしかして、さ」
言葉が止まる。
数秒の沈黙のあと、彼は笑った。
「……いや、なんでもない。元気でな」
その笑いは、どこかひきつっていた。
会社を出たとき、空はどんよりと曇っていた。
午前中の陽射しはどこかへ消え、アスファルトの匂いだけが重く残っていた。
人通りのない交差点を渡るとき、何気なく背後を振り返った。
誰もいない。
だが、空気の一部が、わずかに動いた気がした。
部屋に戻る。
薄暗い照明。湿ったような静けさ。
誰にも知られていないこの場所で、俺は“それ”を記録している。
手帳、ではない。
パソコンの中でもない。
もっと原始的な方法で、だ。
記録することに意味があるわけではない。
証拠を残すつもりも、後悔を打ち明けるつもりもない。
これは“確認”だ。
自分がやったこと、自分が選んだ理由、自分が選んだ日々――
それが“確かにそこにあった”ことの証。
思い出すのは、あの山の空気。
腐りかけた床板の軋み。風で動くカーテン。鉄臭い匂い。
あの日の冷たさが、骨の内側にまで沁みていた。
そして、血が流れる音。叫びの代わりに響いた沈黙。
それらすべてを、俺は“正当な結果”として受け止めた。
夜、テレビをつける。
またあのニュース番組だ。
警察は依然として犯人の手がかりを掴めていない。
生き残ったはずの最後の一人も、事件から数日後に死亡しており、重要な証言は得られなかったと。
コメンテーターの一人が言う。
「この犯人、相当冷静な性格だったんじゃないでしょうか。感情に任せた衝動的な犯行じゃない」
「そうですね。むしろ“復讐”のような強い動機と、確かな準備があった気がします」
俺は缶コーヒーを開ける。
甘さの中にある苦味が、妙に心地よい。
画面が切り替わり、事件の現場である山の映像になる。
警察が入った後、封鎖された建物。草の生い茂る道。立入禁止のテープ。
そして最後に、「周辺で目撃された不審人物」の話が流れる。
目撃証言は曖昧。性別も年齢も、服装も統一されていない。
まるで“見た者たちの願望”で形作られたかのように、各人の証言がばらばらだった。
俺は微笑む。
“影”とはそういうものだ。
見る者によって形を変える。
それが本物の「見えないもの」の力だ。
スマホが震えた。
通知ではない。SNSでもない。
一件のメール。件名も名前も表示されていない。
本文もない。ただ、一枚の画像が添付されていた。
開くと、そこには――山中の廃墟の写真。
警察が入る前の、あの日の夕暮れ。
そして、その手前に、人影のような黒いものが写っていた。
誰が、何の目的で送ってきたのか。
だが、怖れはなかった。
“どこかにまだいる”という感覚は、むしろ自然だった。
復讐は、完結していない。
「成し遂げた」その瞬間から――
次の段階が、もう始まっていたのだ。