第弐章
社内に流れる空気が、どこか粘ついていた。
季節の変わり目の湿度ではない。誰もが喉元に引っかかった何かを、吐き出せずにいるような、不透明な沈黙だった。
「例の事件さ、またニュース出てたよ」
休憩室で同僚の男がスマホを覗き込みながら呟いた。
数名の視線がそちらに集まり、ため息交じりの反応が返る。
「山の中の廃墟とか、マジで映画みたいな話だよな」
「5人も一気に殺すとか、ヤバすぎだろ……」
俺は何も言わず、ただ自販機の缶コーヒーを取り出した。
小さく開ける音が、会話の熱を切り裂く。
不意に、誰かの視線が背中に突き刺さった。
見なくてもわかる。あの、顔見知りの“彼”だ。
大学時代、同じサークルにいた男。
俺とは深い関わりはなかった。軽く言葉を交わす程度だったはずだ。
だが、その“程度”が妙に気になる。
目が合えば、奴はすぐに逸らすが、そらした直後のまぶたの動きや口元の硬直が、逆に何かを物語っていた。
誰かが冗談めかして言った。
「お前んとこの大学のOBらしいぞ、被害者の一人」
それはあまりにも無責任な一言だったが、その場にいた数人が微かに俺の方を見たのを、俺は知っている。
名前を言われたわけでもない。直接の指摘でもない。
だが、“何か”がこちらに向かって揺れていた。
午後、上司に呼ばれた。内容は些細なことだ。
だが、妙に形式ばっていて、どこか探るような口調だった。
「最近、元気がないように見えるが……体調は?」
「問題ありません」
「……そうか。無理だけはしないようにな」
そう言いながらも、机の上のスマホをちらりと見た上司の視線が、なぜか記憶に残った。
仕事を終えて、夜道を歩く。
舗道のアスファルトには、わずかに雨の名残があり、靴の底がきゅっきゅっと音を立てた。
コンビニの明かりが滲んでいる。
缶ビールを一本、手に取る。レジで並んでいると、入り口から二人組の男が入ってきた。
一人はスーツ姿。もう一人はジャケットにジーンズ。
視線が合った。が、どこか普通ではなかった。
ただの客ではないと、直感が告げる。
俺の番がきて、会計を済ませ、店を出る。
背後に気配がついてきた。
角を曲がり、暗がりの住宅地へ入る。
すると、小さな声がかかった。
「すみません、少しお時間いいですか」
振り返ると、先ほどの男がバッジを見せた。
「警察です。最近、この辺りで聞き込みをしていまして……」
言葉は丁寧だが、目が笑っていない。
「少しだけ、構いませんか?」
「構いませんよ」
俺は静かに答える。何一つ動揺することなく。
警官の質問は予想通りだった。
「廃墟の事件について、ニュースで見ましたか?」
「ええ。騒ぎになってますから」
「最近、誰かと連絡をとったり、あの辺りに行ったことは?」
「ありませんね。休みの日はほとんど部屋にいますから」
会話は数分で終わった。
だが、警官の最後の一言が耳に残る。
「もし、何か思い出したことがあったら、いつでも連絡くださいね」
まるで、それが“必要になる時が来る”とでも言いたげな口調だった。
部屋に戻り、缶ビールのプルタブを引く。
しゅっと音がして、泡が少し溢れる。
テレビをつけると、また事件の特集が流れていた。
コメンテーターが真面目な顔で語る。
《未解決事件の裏に潜む動機とは》
《複数人を一気に殺害する犯行、その精神構造は?》
何も知らない人間たちが、勝手に想像を重ねる。
滑稽なほどに浅く、しかし時折、鋭い言葉が混じる。
画面には、山中の廃墟の映像が映る。
あの場所。あの空気。あの沈黙。
遠く、カメラのズームで映された立入禁止の黄色テープが、微かに揺れていた。
その揺れ方が、なぜか笑っているように見えた。