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コーヒーには、名前のない涙の味がする

この物語は、あの世とこの世の境界にある、名もなき喫茶店で繰り広げられる静かなひとときの物語です。

そこで働くのは、過去を持つ死者たち。彼らが飲むコーヒーには、言葉にならない想いが溶け込んでいます。

今日も、迷える魂が一杯のコーヒーを求めてやって来る…。

温かな香りの中で、彼らは静かに、そして少しずつ癒されていくのです。

ここは、あの世とこの世の、ちょうどあいだにある場所。

 地図にない場所。誰も覚えていない場所。

 けれど、誰もが一度は訪れるかもしれない場所。


 白い靄の中にぽつんと建っている、小さな喫茶店。

 木の扉、磨かれたカウンター、静かなジャズ、そして、香ばしいコーヒーの匂い。


 


 チリン――。


 


 扉の鈴が鳴る。


 現れたのは、一人の青年だった。

 ぼろぼろの軍服。肩には古い傷跡。うつむいた顔には、どこか虚ろな影があった。


「……ここは、どこですか?」


 カウンターの向こうで、コーヒーミルをまわしていた男が顔を上げる。


「喫茶店だよ。名前はないけどね」

「喫茶店……?」


「お疲れさま。席にどうぞ。コーヒー、いる?」


 青年は戸惑いながらも頷き、席につく。


 


 豆の音。お湯の音。カップの音。

 言葉は少ないが、それらが会話の代わりになる。


「……名前は?」

「ユリウス。王都の北の村で、兵士をしてました」

「そう」


 バリスタ――アキは、それ以上は何も聞かない。

 代わりに、丁寧にドリップを続ける。


 


「……死んだんですね、俺」

「たぶんね」

「戦争で、仲間と一緒に突っ込んで……目が覚めたら、ここにいました」


 ユリウスの声は、まるで誰かに確認するようだった。


「誰かに、何かを残したかった気がするんですけど、思い出せなくて。

 家族か、友人か……恋人だったか……。名前が、出てこないんです」


 アキは何も言わず、そっとカップを差し出す。

 香ばしさと、わずかな酸味、ほんの少しの甘さ。


「どうぞ」

「……ありがとう」


 


 ユリウスが一口飲んだ瞬間、ピタリと手が止まる。

 涙が一筋、頬を伝ってこぼれた。


「……なんだ、これ……。胸が、きゅっとします。

 悲しいのに、優しくて、苦しくて……懐かしい……。

 こんな味、知らなかった」


「それは、きっと君の味だ」


 アキは静かに、棚の上から一枚の便箋を取り出す。


「書いてみるといい。名前が思い出せなくても、言葉は出てくるかもしれない」


 ユリウスは少し考え、黙って便箋を受け取る。


 


 ――母さんへ。

 ――妹へ。

 ――あの時、笑ってくれた人へ。


 名前はなかった。でも、確かにそこに誰かがいた。


 


 書き終えると、ユリウスは静かに立ち上がる。


「ありがとう、アキさん。俺……ようやく前に進めそうです」


「良い旅を」


 ユリウスの背中が、扉の向こうへ溶けていく。

 白い靄の中へと消える、その瞬間まで、彼は笑っていた。


 


 チリン――。


 扉が閉まる。


 アキはカウンターのカップを拭きながら、便箋の写しを棚に挟む。


 今日のメニュー帳には、こう記された。


 


 ――ユリウスのブレンド:苦さのあとに、懐かしさが香る一杯。


 


 またひとつ、ここに物語が残った。

最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

この喫茶店の物語は、どこか温かく、静かな世界を目指しました。

どんな人でも、誰かにとっての「大切な存在」であり、物語を通してその温かさを少しでも感じていただけたなら嬉しいです。

次回も、訪れる魂たちのひとときをお楽しみください。温かなコーヒーを一杯、淹れながらお待ちしています。

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