第1話 金曜日の夜はラー活しましょう。夜しかやってない醤油ラーメンの店。
山田涼子は今年還暦をむかえた。
夫は五年前に他界して、娘はとっくに成人済。孫も高校生になったから、娘の子育てを手伝うこともない。
カレンダーを確認すれば、2/28 19:00 新年会と走り書きしてある。
今日は勤め先のスーパーで、ちょっと遅めの新年会があるのだ。
念の為朝食はお茶漬けで軽く済ませる。
見る気もなしにつけっぱなしにしていたテレビは街頭インタビューの様子を映している。
『人生百年時代。今の若い世代が老後に向けてどんな準備をしているか聞いてみました』
『なんもかんがえてないっすー!』
『息子が中学生になってお金がかかるから、ニーサ? っていうのをはじめてます。老後の前に、今のお金が足りなくて困る』
『貯金くらいしかしてないです』
そんなBGMを聞きながらお茶碗を傾けて、ふと思う。
(人生百年、わたしは、何もなければあと四十年は生きることになる。この、パートと家を往復するだけの日を、四十年も繰り返すのかしら)
スーパーのレジという仕事柄、正月もゴールデンウィークもお盆もクリスマスも仕事。二日働いて一日休みが入り五連勤、一休入って……と、シフトで休みが変動するのも曜日感覚がおかしくなる要因だ。
口を開くのも基本レジの接客用語のみで、生きた会話というものを長らくしていない。
今日が何曜日なのか感覚が薄れて、時々ゴミを出す曜日を間違えてしまう。
昨日なんてプラゴミの日なのにペットボトルを出そうとしてしまった。
手早く洗い物を済ませてご飯をタッパに詰め、冷凍のおかずを隙間に押し込んで弁当の完成だ。
出勤して、仕事上がりその足で居酒屋に向かい飲み会に参加した。
若い人の会話についていけず、店長の愚痴を聞き流し、お茶を飲んでやり過ごす。嫌なら来なければいい話なのだが、断ると「あの人付き合い悪いよね」と翌日から陰口を言われてしまうから、黙って頷くだけの赤べことなることがわかっていても参加してしまう。
「疲れっしたー!」
「二次会行く人こっちねー。カラオケ飲み放題取ってあるから」
飲み会に参加したメンバーが、二次会会場へと向かっていく。
涼子は「用があるから」と嘘をついて辞退した。
みんなの姿が見えなくなって、ほっと息を吐く。
二月末日。先週積もった雪がまだ残っていて、白い息が広がる。
「山田さん、行かないんすか」
アルバイトの女性、木村遥が聞いてきた。
店の規則ギリギリの明るい茶髪をショートヘアにしている。
二十六歳。服装はジャンパーにジーンズ。ボーイッシュな印象だ。
「私みたいなおばあちゃんが行ったらみんな余計な気を使ってしまうでしょう。新しい曲も、カラオケの機械もわからないからいいのよ。木村さんこそ、行かなくていいの? 若い子はああいうの好きだと思ったわ」
「友だちとならいいけど、同僚とは嫌っすね。あたしが好きなジャンルってマイナーだから、ああいう陽キャメンバーのときに歌うと白けるのわかってるし。『え、何この曲わかんなぁい』って引いた感じで言われるの経験済みっす」
キッパリ「同僚と一緒なら行きたくないっす」と言い切った。
変な気の使い方をするよりも、いっそ清々しい。
「山田さん、あんま食べてなかったでしょ。お腹に余裕があるならラーメン食べません?」
「ラーメン?」
「あたし、金曜日の夜はラー活って決めてるんで。あ、ラー活っていうのはラーメンを食べることを言うんすよ。ラーメン屋巡りしたり、SNSで発信したり」
飲み会では気を使ってばかりで、数品ちょっとつまんだだけだった。グウとお腹がなって、恥ずかしくなる。
「で、でもこんな時間に……太らないかしら」
「そのぶん明日動けばいいんすよ。夜しかやってないオススメの店、あるんで行きません? 布教したいからおごります」
ここまで言われて断るのも悪い気がして、涼子は遥のあとについて歩き出した。
商店街のあちこちに、提灯やライトがついている。
バー、居酒屋にパブ、クラブ、酒場に焼き鳥屋。
昼間は開いていない店ばかりだ。
醤油の焦げる独特の香りが漂ってくる。
「こんな時間でも開いている店があるのね。私、夜に外に出たことがないから知らなかったわ」
なんだか胸が踊って、涼子はあたりを見回す。
「そりゃいいや。今日が夜歩きデビューっすね。そこの店っすよ。夜中しか開いてないけど、めちゃくちゃうまいラーメン食えるんす」
遥が指差す先の小さなお店。たった今明かりがついた。
紫色ののれんが下がっていて、遥は慣れた様子でドアをスライドさせて入る。
カウンターだけのこじんまりした店内は、手書きのお品書きが壁に貼られていて、日焼けしたポスターはどこか昭和の趣がある。
「チーッス。大将、醤油二つと餃子一枚よろしく」
「おう、姉ちゃん今日も来たか。そっちはお母さんかい?」
頭にタオルを巻いた頑固そうな大将に聞かれて、遥が笑う。
「アッハッハッハ。この人は職場の先輩っす」
「ど、どうも」
涼子は自分があまりにも場違いな気がして、気後れしてしまう。
「山田さん、そこ奥からつめて座ってくださいっす」
「え、ええ」
厨房にいた、涼子よりやや若い女性が氷水の入ったグラスを二つ持ってきた。
ガラガラと戸を開けて、次々に客が入ってくる。
背広姿の中年男性、ツナギの男性、背中を丸めたおじいさん、いろんな世代の人たちだ。十席ほどの店内はあっという間に満席になった。
「おまたせしやしたぁ!」
「ひゃー! キタキタ!」
ドン、と丼が二つ、厨房からカウンターに渡される。
あまりの熱気に眼鏡がくもる。
ハンカチで眼鏡を拭きながら、涼子は目の前に来たラーメンに釘付けになった。
ほうれん草とメンマ、バラ肉のチャーシューが二枚トッピングされたシンプルな醤油ラーメンだ。昔ながらの中華そば。スープは透き通っていて、鶏ガラのいい香りがする。
見ているだけでお腹が鳴り、よだれが口の中に出てきた。
「なんていい香り」
「カウンターに置いてあるホワイトペッパーかけながら食うのがオススメっす」
「そうなのね。さすが、通は違うわ」
割り箸を割って、二人で手を合わせる。
「いただきます。……ふー、ふー、はふ」
レンゲでスープをすくい、一口飲む。
鶏の旨味が凝縮されていて、生姜の香りがそれを引き立てている。
中太麺をすすり、スープを飲んで、メンマをかじる。ほうれん草もすごく美味しい。
ラーメン屋でラーメンを食べるのは何年ぶりだろうか。
威勢のいい声が飛び交い、他のお客さんたちも笑顔でラーメンを頬張る。
「美味しい……美味しいわ!」
涼子はこの一杯のラーメンに魅了された。
「そりゃ良かった。誘ったかいがあるってもんすよ」
遥はニッと歯を見せて笑い、ズルズル麺をすする。そこに焼きたての餃子も届いた。小さくて白い取皿二枚もついている。
「餃子お待ちぃ!!!」
「あざっす。さ、山田さん半分どうぞ。あたしのオススメはお酢で食べることっす」
「そうなのね。それじゃあ、酢醤油でいただきます」
カウンターの酢を小皿に少し垂らして、醤油を半分。
餃子につけて食べる。ニンニクがたっぷり入った餃子は、口の中で肉汁が溢れた。
口の周りも脂でベタベタになる。けれど涼子は気にせず、二口、三口と食べる。
「すごく、すごく美味しい……。お家でこんなに肉汁たっぷりにできないわ。なんて美味しいのかしら」
「嬉しいこと言ってくれるねぇ、奥さん! 餃子はうちの店お手製自慢の味だからな!」
強面大将も破顔して、嬉しそうだ。
あっという間に食べ終えて、大将と奥さんにお礼を言いながら店を出た。
涼子は自分が食べたぶんを払おうとしたけれど、遥は「おごるって言ったでしょ」と譲らず、おごられることになった。
「こんなに嬉しそうな山田さん見たの、働き始めてから初めてかもしれないっす」
「そ、そうかしら。でも、そうね。すごく美味しくて楽しかったわ。夜にラーメンを食べるのもいいものなのね。ありがとう。私、こんなに楽しいことを知らなかったなんて」
ラーメンの美味しさの余韻がまだ残っていて、涼子のほほは緩みっぱなした。
「ねえ、木村さん。聞いていいかしら。なんで金曜日の夜なの?」
「曜日感覚を固定させるためっす。ほら、あたしらの仕事って土日祝関係ないし、休みが飛び飛びでしょ? 金曜日夜はラーメン! ってカレンダーに書いているから、毎週このために生きてるみたいなもんす」
とても楽しそうに言うから、涼子は笑った。
「いいわね、こんなふうに毎週の楽しみがあるの。素敵な生き方だと思うわ」
「なら、来週も一緒に行きます? 他にも推しの店たくさんあるから、今度は味噌ラーメンなんてどうっすか」
「いいの?」
一人の楽しみの時間を邪魔してしまうのでは、と心配だったけれど、遥は笑顔で答える。
「ラーメン活動仲間が増えるのは嬉しいことっす。よかったら、一緒にラー活しましょう」
こうして、涼子と遥、年の差三十四の二人はラーメン友達となり、ラーメン活動するようになった。
次の更新は3月7日(金)20:00頃です。