3.館を後に
白い少女は館の前庭に立っていた。
背後には《フォマルハウトの館》があった。それは石造りの立派な建物で、英国貴族のカントリー・ハウスを模した外観をしていた。
彼女が立っているのはその正面玄関の前庭だった。けれど、そこは前庭とは名ばかりの狭い空間だった。
なぜなら、正面玄関のすぐ前、ほんの十歩ほど先には背の高い木々が立ち並んでいたからだ。言い換えるなら、館は森の中にぽつんと孤立して建っているのだった。
建物の反対側には裏庭があるのだという。だが、入ってはいけない、見てもいけない、と黒い少女に言われていたので、白い少女は裏庭のことは何も知らなかった。それもこの館のルールの一つなのだと言われ、何の疑問もなく受け入れていたのだ。
この館には訳の分からないことが多すぎる。白い少女はあらためてそれに気づいた。
「もう、いやだわ」
白い少女は微かに震えていた。その足元で、ネズミの玩具が心配そうに彼女を見上げている。
先ほど突きつけられた言葉が彼女の心の中で渦巻いていた。
『あなたを《星流し》にしたのは、あなたの《おともだち》なんですもの』
その言葉を聞かされ彼女は、何故だか居たたまれなくなって広間を、館を飛び出したのだった。
けれど館の外に出た白い少女を待っていたのは、グロテスクな現実だった。
館の前の申し訳程度の前庭と、そしてその上に広がるむき出しの宇宙空間。頭上には星間物質の薄もやの中に浮かぶ赤く輝く巨大なフォマルハウトの主星。
その光景はここが地球などではなく、紛れもなく深宇宙の彼方であることを示していた。
振り返って館を見る。
もう戻りたくなかった。
黒い少女にも会いたくない。
そう思った白い少女は、何も考えずに館を背に歩き出した。鬱蒼とした木々の間に分け入って行く。
ネズミもそれに続こうとしたが、小さな車輪の足ではついて行くことができなかった。
元々室内で遊ぶ玩具なのだ。ネズミは取り残され、ただ森の手前で輪を描いて走り回ることしか出来なかった。
白い少女はネズミがついて来ないことにも気づいていなかった。木々の根に足を取られながら、枝を掴み、道無き道をひたすらに前へ前へと進んだ。
この森の果てに何があるのか。そんなことは意に介さなかった。ただただ館から離れたかったのだ。
ややすると、前方に光が見えた。森はそこで終わりらしい。白い少女は自らを励まし、懸命に手足を動かして一歩、また一歩と進んだ。
森を出る。そこは平らな土地だった。
「そんな」
白い少女は呆然と立ち尽くした。その足元を、あのネズミの玩具がうれしそうにくるくると回っていた。目の前には《フォマルハウトの館》が彼女を圧するようにそびえていた。
白い少女は館を背に、また木々の間に飛び込んでいった。足場の悪い森の中を、両手も使って這うように進む。薄暗い木々のトンネルを抜けて、ただ一心にまっすぐと。
森を出ると、やはりそこには館があった。
足元にはネズミの玩具。
白い少女は膝を付き、顔を手で覆って泣きじゃくった。
「もうバカなことはお止しなさいな」
憐憫のこもった声に顔を上げる。そこには熊のぬいぐるみを従えた黒い少女の姿があった。
「ね。これでわかったでしょう。ここは牢獄なの。そしてわたしたちは囚人。けれどこの《星流し》の刑も悪いものではないわ。館の中で過ごす限り、何をしてもいいのだし。その意味では私たちは自由なの」
「自由ですって」
白い少女は立ち上がり、鋭く言った。
「そんなの本物の自由じゃないわ」
「当たり前じゃないの。でも、本物の自由なんて、元からどこにもないわ。そうでしょう? だったら、わたしたちはわたしたちに与えられた制限された自由を楽しむしかないのよ」
白い少女は黒い少女に背を向けた。みたび森へ挑もうとする。
「お止しなさいったら」
その声を無視して木々の間に分け入ろうとする。しかし、何かの気配を感じて、とっさに振り返る。
彼女のすぐ後ろには、等身大の熊のぬいぐるみがいた。両手を広げ、今しも襲い掛かる寸前だった。
白い少女は悲鳴を上げてその腕から辛うじて逃れた。
「何をしているのクマくん。はやくその子を捕まえて」
黒い少女が命じる。見ると、彼女の手には鋭いナイフが握られていた。刃がフォマルハウトの光を反射してぎらりと輝いた。
「さあ、もう観念なさいな。逃げ出したりしないようにその足を切断してあげるわ。よけいなものを見ないようにその目を抉り出してあげる。あなたはただ、椅子に掛けてわたしとお茶と会話を楽しんでいればいいのよ。永劫が尽きるその時までね。きひっ、きひひひひひっ」
白い少女はもつれる足で走った。逃げなければ。でもどこへ? 逃げ込む場所は一つしかなかった。
白い少女は館の中に飛び込むと、階段を駆け上った。その足元ではネズミの玩具が、車輪を弾ませて一段づつ飛びはねてつき従っていた。
(武器、なにか武器はないの)
少女は気づくと自分の部屋に戻っていた。衣装箪笥を開け中を漁る。けれど武器になりそうなものは何一つなかった。
次に整理箪笥の引き出しを次々に開けてみる。ふと顔を上げると、整理箪笥の上の三叉の燭台が目に入る。
(そうだ、火)
相手は熊なのだ。その上、布製のぬいぐるみなのだ。きっと火を恐れるに違いない。黒い少女のナイフにも、柄の長いこの燭台なら対抗できるはずだった。
白い少女は傍らにあったマッチを手に取った。けれど手が震えてなかなか火が着かない
何度かやり直し、何本も軸を折り、ようやくマッチが黄燐の小さな黄色い炎を上げる。少女は三本の蜜蝋にどうにか火をつけた。
「また火遊び?」
その声にはっとして振り向く。
ドアの外には熊と、その肩越しに黒い少女の姿が見えた。
「あなたったらほんとに燭台が好きなのね。それもあなたの《おともだち》の影響なのかしら。さあクマくん、はやくあの子を捕まえてよ」
黒い少女の意を受けた熊が部屋に入ろうと一歩踏み出す。
「来ないで!」
白い少女はそう叫ぶと、燭台の柄を掴んで剣のように熊のぬいぐるみに突きつけた。熊は思わず後ずさり、後ろにいた黒い少女を巻き込んでそのまま後ろに倒れた。
「きゃっ、ちょっとクマくん、重い」
熊のぬいぐるみの下敷きになった黒い少女の声が聞える。白い少女はその隙に燭台を持ったまま、倒れている黒い少女たちを飛び越えて部屋から出た。
広間に面した回廊を走る。階下に逃れようと思ったのだ。
けれど、すぐに立ち上がった熊がドスドスと足音を立てて追ってくる。白い少女は適当なドアを開いて中に飛び込んだ。
そこは物置にしている一室だった。使っていない家具が所狭しと置かれ、白布が掛けられていた。その間を縫って窓へと向かう。
鎧戸の降りた窓を見て、白い少女はこの部屋が裏庭に面していることに気づいた。
「さあ、もう鬼ごっこはおしまいよ」
ドアからは熊のぬいぐるみがぬうっと入って来る。そしてそれに続いて黒い少女も。
「無意味な抵抗はおやめなさい。そんなことをして何になるの?」
ナイフを手にした相手に答えるつもりはない。白い少女はガラス戸を引き上げ、鎧戸の留め金を外して、一気に押し開く。もちろん外に飛び出すつもりだった。だが。
窓枠に手を掛けて下を見た白い少女は、ひっ、と声を上げた。
裏庭は前庭よりも多少広かった。
それでもこの種の建物の庭としては十分とはいえなかった。小さなテラスがあるきりで、そのすぐ先は木々の壁だったのだ。
そのテラスには何かが山のように積み上げられていた。そしてその山を構成しているのは。
少女の死体。そう見えた。
様々なドレスを身にまとった、白い少女と同じくらいの年頃の少女たち。
十人や二十人ではきかない。しかも、よく見るとみな四肢が切断されていた。
バラバラの人体が積み上げられ、山になっているのだった。
「そんな、そんなことって」
逃げることも忘れて白い少女はその凄惨な光景に見入っていた。
「あーあ、見ちゃったのね。だから裏庭を見ちゃだめって言ったのに」
黒い少女の声にはっとなる。いつの間にかすぐ近くにまで来ていたのだ。その隣には熊が控えていた。
白い少女は両手で燭台の柄を持って、火のついたロウソクを相手に向ける。
「あなたが、あなたが殺したの」
白い少女は喘ぎながら訊いた。
「殺した? なにを」
「とぼけないで! あの、あの女の子たちを」
「ああ。違うわ。よくご覧なさい。あれは死体ではないわ」
「なん、なんですって」
「よく見て。あれはみんなお人形よ」
「人形?」
あらためて窓の外を見る。確かにそれは人間ではなかった。少女の姿をした人形。一滴の血すら流れていなかった。
「どうして、どうしてあんなに人形が」
「あら、なにを驚いているの? 驚くことなんてないじゃない」
黒い少女はそう言ってわらった。
「だって、あなたもわたしもお人形なんだから」
そして黒い少女は近くにあった白布をするりと引っ張った。現われたのは等身大の姿身だった。鏡もついている。
そこに映った自らの姿を見て、白い少女は絶叫した。
それは、虫食いと染みだらけのドレスをまとった薄汚れた人形だった。
かつて金髪だった髪は色あせて白くなっており、まるでライオンのたてがみのようにぼさぼさだった。
絶叫を上げているはずなのに、煤けた顔にはデスマスクのような笑みが貼り付いていた。
視線を黒い少女に向ける。
熊のぬいぐるみの隣に立っているのは、やはり古ぼけた人形だった。
黴でまだら模様になったドレスから覗く手足は球体関節で、目には黒曜石が嵌め込まれていた。
「そうだ、わたし、わたしは人形だった……」
そして思い出す。自分がなぜここに流されたのかを。
4.帰らずの故郷 に続く