1.朝の光の中で
少女は光の中で目を覚ました。
天蓋付きの寝台は窓から差し込むまばゆい光に照らされていた。薄い上掛けは白く輝き、少女は光の中にその身を横たえていた。
少女はつと半身を起すと部屋の中を見回した。
そこは古風な婦人用の寝室で、壁も、天井も、床も、家具さえも白一色だった。
寝台の脇に目をやると、背の低い整理箪笥の上には銀色に鈍く光る燭台が置かれていた。火の消えた三本の蜜蝋が刺してある、三叉の柄の長い燭台だった。
少女は白い素肌に白い薄物をまとっていた。プラチナブロンドのふわふわした巻き毛と、淡い青白色の瞳。彼女を一言で表現するなら、《白い少女》としか言いようが無かった。
白い少女の顔にはかすかな笑みが浮かんでいた。いまだ醒めやらぬ昨夜の夢を反芻していたのだ。
(わたしはこことは違うお屋敷にいて、仲良しの《おともだち》と遊んでいた)
夢の中で白い少女はその《おともだち》と一緒におままごとをしていた。
けれど、その相手が誰なのか彼女には分からなかったし、場所さえも定かではなかった。ただ、《ここ》とは違うどこかだったということしか。
(どうして思い出せないのだろう。どうして)
その時、床の上を何かが走っているのが見えた。すばしっこく動く小さな灰色の影。
半覚醒の状態にあった彼女は、びくっと体を震わせた。けれど、よく見るとそれは彼女がよく知っているものだった。少女は自らの胸を押さえ、ほっと安堵した。
それは灰色の小さなネズミだった。その背中にはゼンマイが突き出しており、足の代わりに小さな車輪が付いていた。かわいらしい、よく動くネズミの玩具。
そのネズミは白い床の上をくるくると走りまわり、白い少女に自らの存在をアピールしていた。
「おはようネズミちゃん」
白い少女はそう言って寝台の上に腹ばいになり床に手を伸ばした。ネズミの玩具はその手元に寄って来ると、甘えるように少女の手に鼻先をこすりつけた。
白い少女はひょいっとネズミを拾い上げると、愛しそうにその頭を撫で、背のゼンマイをキリキリと巻いた。
「起こしに来てくれたの? え、なに?」
小首を傾げてネズミの黒いガラスの瞳を覗きこむ。
「あら大変、今日のお食事のお当番はわたしだったっけ」
少女はそうつぶやくと、ネズミを床に放した。くるくるとうれしそうに乱舞するネズミのおもちゃ。
少女は寝台を降り薄物を脱ぎ捨て全裸になると、衣装箪笥の真っ白な扉を開いて中から白いドレスを出して手早く身にまとった。
そして鏡の失われた古い白い鏡台の前に座りヘアブラシで髪を梳く。どうして鏡がついていないのかしら、不便でしょうがないわ、と今朝も思う。
「もうっ、どうして私の髪の毛はいつもこうなのかしら」
腹立たし気につぶやく。起き抜けの彼女の髪はふわふわと広がっており、あらぬ方向へと好きかってに伸びていた。まるで小さな藪のようだった。
ようやく身支度を整えると白い少女は部屋を出た。そこは二階の回廊で、吹き抜けの大きな広間に面していた。手すりから身を乗り出して階下を見下ろす。
広間の中央にはマホガニーのテーブルと何脚かのソファが配されていた。
壁面には暖炉が設けられていたが火の気はなく、人っ子ひとりいない広間は寒々としていた。けれど、ソファについた皺は長年に亘ってそこに誰かが腰掛けていたことを示していた。
サイドテーブルには読みさしの本がページを折って開かれていた。
片付け忘れたティカップ、クリスタルのデカンタとグラス、そしてリキュールの空瓶。やや自堕落なその取り合わせに白い少女はかるく頭を振った。
「まったく、あの子ったらだらしないんだから」
けれど、食事当番なのに寝坊をしてしまった自分のことを思い出し心の中で舌を出す。
「ひとのこと言えないわ、わたし」
白い少女は足早に回廊を進んだ。あのネズミの玩具は彼女を先導するかのようにその前をちょこまかと走っていた。
エスコートしているつもりなのだろう、と少女は思った。小さなネズミの玩具の、その健気さに胸が熱くなる。
階段を軽やかなステップで滑るように降りる。ネズミは不器用に一段づつコトコトと音を立てて落ちながらそれに続いた。白い少女は広間を横切り食堂に入った。ネズミもそれを追う。
食堂にはすでに朝食の用意が整っていた。
白いテーブルクロスの上にきれいに並べられた磁器の皿、グラスにカップ、そして銀のナイフとフォーク、スプーン。それらは美しい幾何学模様を描いていた。
「遅かったじゃないの」
テーブルの反対側の椅子に座っていた少女が咎めるように言う。
黒髪の勝気そうな子だった。
端正な白磁器の顔、切れ長の目には黒曜石の瞳が輝いていた。
癖のないまっすぐな髪は背中まであり、前髪はきれいに切り揃えられていた。
身に纏っているのは黒のドレス。けれど喪服ではない。たっぷりしたフリルとふくらんだ袖、レースと、そして黒色のリボンがそこここに配されていた。
その姿は《黒い少女》としか言いようがなかった。
「あんまり遅いからわたしが仕度しておいたわ」
「……ごめんなさい」
白い少女はややしおれてそう答えた。弁解のしようがない。そう思ったのだ。
「まあいいけど。でも、ここで暮らす以上、ルールは守ってもらわないと」
「うん、だからごめんなさい」
黒い少女はまだ何か言いたそうに、白い少女を見つめていた。そしてその足元のネズミの玩具に視線を落とす。
「いやだわ、食堂にネズミなんて」
黒い少女の厭わしげな声音に、白い少女はきっとなって、
「この子はわたしのお供なのよ。悪く言わないでほしいわ」
「別に悪いとは言っていないわ。ただ、衛生上どうかしら、というお話し」
「この子は本物のネズミじゃないわ。分かっているでしょうに。だいいち、」
一瞬いいよどみ、
「あなたのお供よりもだいぶ小さいから、邪魔にはならないわ」
黒い少女はくっくっくっと喉でわらった。どことなく人を小ばかにしたような響きだった。そして彼女は隣の席に座っている、自身と同じくらいの大きさの熊のぬいぐるみに声をかけた。
「あんなこと言ってるわよ、あの子」
そして、
「かまわないわ、クマくん、あのいやらしいネズミを食べちゃってよ」
茶色の毛並みの熊のぬいぐるみは困ったように小首を傾げ、大きな手で頭をかいて見せた。そして貝殻ボタンの目で白い少女とその足元のネズミとを見る。ネズミもまた首をかしげて見せた。
「やめてよ。仲良しの二匹の友情にひびを入れるようなこと言うのは」
抗議する白い少女。
「ふふん、まあいいわ」
冷たい笑みの浮かぶ顔でそんなことを言う黒い少女はとても意地悪に見えた。
「なにをつっ立っているのよ? さっさと座りなさいよ」
淑女にしてはぞんざいな口調で椅子を勧める。白い少女は(しようのないひと)とつぶやいて、向かいの椅子に腰を下ろした。
黒い少女は両方の手の平を上に向けて、(どうぞ)という仕草をしてみせた。
食事当番が食卓を仕切る、というのが彼女たちの不文律になっていた。一応は尊重してくれているのね、と白い少女はうなずく。
「ではお祈りを」
白い少女は手を合わせた。黒い少女もそれに倣う。熊とネズミは頭を垂れた。
「天にまします我らが主よ(ここで黒い少女はふふん、と鼻で笑った)、日々の糧に感謝いたします(再び笑う黒い少女)。ここでこうして愛するものと食卓を囲める幸せに感謝いたします」
そして白い少女は聖句をつぶやいた。しかし、黒い少女のかわいらしい唇は涜神的な俗語を吐き出していた。
「もうっ、あなたったら。お祈りくらいまじめになさいな」
たしなめる白い少女に、黒い少女は答えた。
「いやよ。信じてもいないものに祈りなんて捧げられないわ。それこそ冒涜というものだわ。違う?」
「ほんとうにひねくれているんだから。決まり文句と思って付き合ってくれてもいいのに」
「なあに、それ。形だけの祈りでいいって言うの」
「そういうわけじゃないけど。でも、わたしの《おともだち》はいつも言っていたわ。最初は意味なんて分からなくていい、祈ること自体に意味があるんだ、て」
「ふうん。あなたは《おともだち》のことを覚えているんだ?」
「なんとなくだけど。どこに住んでいて、どんな生活をしていたかとか、顔とかも思い出せないんだけど。ただ、日々の習慣とか、おしゃべりした内容なんかは途切れ途切れに思い出すの」
「まあそんなものでしょうね。わたしだって、わたしの《おともだち》のこと、多少は憶えているもの」
「あなたの《おともだち》はお祈りしなかったの?」
「しなかったわ。わたしたちには祈りなんて無意味だ。そう言っていたわ」
「なんてことを」
「そしてこうも言っていた。呪われたわたしたちには神の恩寵なんてない、って」
黒い少女は華奢な手でナイフを取り上げると、行儀悪く白い少女に刃先を向けて言った。
「もう止しましょう。思い出話は禁じられているわ。前に言ったわよね? この館には守らなければならないルールがいくつかあるって。憶えてる?」
「ええ」
白い少女は少し考えてから答えた。
「食事は交代で用意する。思い出話をしてはならない。裏庭に行ってはいけない。火遊び厳禁。鏡を見ることは禁止。あとは何だったかしら」
「主なものはそれくらいね。補足するなら裏庭は見ることも禁止。だからそちら側の窓にはいつも鎧戸を下ろしているでしょう? あ、そうそう」
黒い少女はナイフをテーブルの上に置いた。
「あなた、まだ寝る前に燭台にロウソクを灯しているわね」
「ええ」
「火遊び厳禁、て言わなかったっけ?」
白い少女はむっとして、
「失礼ね。遊んでなんかいないわ。ちゃんと火の始末はしているわよ。それに、夜は燭台を使うものだわ」
「ふうん。燭台といい、食前のお祈りといい、つまらない習慣を持ち込んだものね」
そう言われて白い少女は不機嫌そうにそっぽを向いた。
「ま、あなたが祈るのは勝手だけどね。信教の自由は保障されているわ」
そして何がおかしいのか、黒い少女は品の無い笑い声をたてた。
「きひひひっ、でもね、ここには神なんていないの。だから祈りなんて無意味なのよ。ここ、この《フォマルハウトの館》にはわたしとあなたの二人しか……二人と一頭と一匹しかいない。きひっ、きひひひ」
白い少女は笑い続ける黒い少女を無視してナイフとフォークを手に取った。その優雅な仕草を見て黒い少女はさらに笑った。そして、
「くふふふ、いいわ、朝食を付き合ってあげる。お上品にね」
そして二人の少女は静かに食事を始めた。
二体の動物の姿をした玩具は、それぞれの主の側にはべり、一心にその姿を見つめていた。
それはこれまで何回と無く繰り返されてきたいつもの朝の光景だった。
2.広間でダンス に続く