シーン38 染矢の覚醒
病室前の廊下にパイプ椅子を置いて足を組んだ染矢は、バトルシップグレーの三揃いスーツにビートル色のネクタイを合わせ、仄暗い虚無感のような、鏡の上の曇りのような影をその身に落していた。そばに立つ青木が「内藤さんです」と囁き、染矢が長い廊下の先に目を向けてみれば、内藤は骨組みの大きな肉付きの薄い体もスーツもヨレヨレで、疲れ切った放浪びとの足取りで近づいてくる。見上げればドス黒い肌色の苦り切った表情の口はへの字に曲がり、寝不足の赤い目だけが異様を放ち、収拾に追われていよう事はうかがえた。
かん子に放たれた3発の銃弾は偶然にも帯でその力を削がれ、貫通せず、体内で暴れていくつかの内蔵を傷つけた。七時間にも及ぶ手術が行われたのは三日前で、未だ意識を取り戻してはおらず、幾つものチューブに繋がれた容体は、いつ急変してもおかしくない状態だった。
椅子から立ち上がれば目眩を感じ、額は死人のように冷え切っているのがわかった。それもそのはずだと染矢は思う。警察署内での5代目狙撃を、ラスト一周を告げる鐘のようにお祭り騒ぎしたのはTVのワイドショーだった。その一部始終を何故か撮影していた高橋は、その不可思議さに目をつぶり、視聴率に目を向けた製作人に重宝がられ連日のTV出演をはたしている。だが、土砂降りの雨のごとく降り注ぐ報道という名の波紋は、世間に、任侠界にはことさらに、不穏の漣を煽り立てて広がり、その邪な縞模様の渦巻きに警察の安全神話はグルグルと巻き取られ、人々を思考停止に追いやって、誰もがみぞおちに小太刀の先を当てられているかのように、身構えて生きる中、恐怖の静けさだけが日ごと密度を増している。
染矢のそばに立った内藤が、青木と刀根見の左手に巻かれた包帯に目をやり「お前ら、揃いも揃って指詰めたのか」と鈍重の声で聞くと、瞬足で目に角を立て内藤を射抜いた青木と刀根見はうなずきもせず何も言おうとはしない。そんな2人に「お前ら、飯でも食ってこいよ」と染矢が言うと、首を振った青木は「染さんの警備をさせてください」と言った。そのさまに苦笑した内藤が「5代目じゃなくて、染矢か。まっ、そうなるわなー」と意味深な目で青木と刀根見の顔を交互に見て言い、青木は鋼鉄のような張った目つきで内藤を見返した「あんたに言われたくない」とどっから出したのか、音量は無くとも覇気爆ぜる気迫で言った。染矢が「仮にも現役の警部補殿が今この時期、ここにお1人で来るはずがない。監視が何人ついてきてるか、お前ら高みの見物をして報告してくれ。それから、ついでになんか腹に入れてこい。俺の使い物になりたけりゃ、腹を満たしてくるんだ」と言うと、内藤が「そうだ、玄関前で機動隊と睨みあってる奴らも連れてけ、そしたら報道陣の皆さんも一息つけるからさ」と呑気な調子で合いの手を入れ、染矢は上着の内ポケットからマネークリップを取り出してそのまま青木に押しつけた。
そして視線を移し「刀根見、下の奴らに飯を食わせたら帰らせろ。“もういい、ありがとう“と伝えててくれ。2度とうろつかせるなよ。いつまでも病院の門前にやぐざが溜まってたらカタギの方々にご迷惑だし、俺らの評判を落とすだけだ」と言った染矢に、すかざずの刀根見が「それでも」と言う。染矢は青い微笑の影を唇に落として内藤の顔にチラリと視線を送りつつ「警察の皆さまも、もう今度はしくじれないだろう。何かあったら、第8機動隊の精鋭さま方が身を粉にして阻止してくださる」と言った。
染矢の言葉に蹴をされ頭を下げて、きびすを返して歩き出した2人の背中を見ながら、スマホを手に取った染矢はワンコールで出た椎田に「青木と刀根見が降りてゆく。飯食った後、誰かをつけて治療に行かせろ。皆を帰らせたらお前と西岡は上がってきてくれるか」と告げた。だが、椎田は「西岡に任せて、俺は今すぐ上がります」と言い、「いや、1時間ほど内藤さんと話がしたい。一人にしてくれるか」と染矢が言うや、またもそばで聞いていた内藤がニャリと笑う。狐が笑ったらこんな感じだろうなぁと思いながらの静寂の中、椎田の言い分を聞きながら細めた目を内藤に投げていた染矢が「そうだな、あいつらはそう言うだろうが、落として包帯を巻いただけだ。熱に浮かれていざという時に判断が鈍ったら厄介だ。お前が引きずってでも戸田先生の病院に連れて行け」と言った。「俺が!ですか!」とがなり立てた椎田に、染矢は「嫌なら、いうことをきかせろ」と突き放した言い方をする。忍耐力が尽きかけていた。誰が聞いてもそうわかる声だった。10分ほどの仮眠を数回とっただけの三日目の昼間だった。
電話を切った染矢は廊下の壁に背中を預けながら「それで、5代目を弾いたヤツはどこの誰だかわかったのか?」と聞く。同じく壁に背を預け、腕組みをした内藤に「赤松との手打ちで、絶縁状が回った野中の若頭補佐だった河北を覚えているか?」と聞かれた染矢は「ああ」と応じ、うなずいた内藤が「河北の舎弟だった篠田という男だ。性根の座った奴で一課の取調べに黙秘を続けてるよ」とボソボソとする口調で言い、一息おくと「15の時から組に入った二十歳まで鳶だったんだと。軽々とフェンスを飛び超えるのが監視カメラに写ってたよ。家庭環境があんなじゃなかったら、オリンピック選手になれてたかもな」と言って黙り込んだ。
心情に沈み込んで何かを考えている内藤に、染矢は「署長の首が飛ぶのか?」と聞く。やがて、じわりと底意地の悪い笑みを口元に浮かべた内藤が「お前らヤクザに署長の首が飛ぶような、真っ当な人権なんてないんだよ。今回は東京地検々事長を唆して、合同捜査を唱えた本部長梅沢の首が飛ぶ」と口にした。「なに笑ってんだ?」と染矢が聞けば、壁にあてた右肩を軸にゴロリとその身を左反転させた内藤が、染矢の顔をガン見し「赤松はどこまで計算してたんだ?5代目の狙撃も奴のシナリオか?」と言う。染矢が「なんの話だ?」と返せば、内藤は「今井の弁護士経由でうちが手に入れた書類は、どっからのもんだ?」とまたも言う。
内藤が沈黙を深める染矢に「手ぶらで帰らせんなよ」と口にし、ふと病室の扉を見遣った染矢は「銃には前がある。9月に時効になった、あれだ」と口にした。目を見張った内藤が「お前…、5代目を裏切った理由はなんだ?恩人だろうが」と揺らぎながら口にすれば、染矢はその目を見据え「刑事みたいな顔つきだな、お前はもうとっくにこっち側の人間だろうが、なにを今更ぶれている。銃の出所を糸口に調べて昇進に繋げろ。そして大河原が他の刑事から恨みを買わぬよう、今回の責任の全てをその梅沢とやらに押し付けて確実に辞職させろ。刑事なんてクビになったらタダの人でしかない。それから高橋を篠田の共犯容疑に仕立てて逮捕しろ。あいつが今、マスコミで垂れ流してる動画で立証できるはずだ。無理なら社会的な信用を無くすだけでいい。ムショの3食昼寝付きなんてあいつには甘すぎる、社会的信用をなくして俺たちとの蜜月を返す返すも、あの頃はよかったと思える立場にしろ。今、俺が言った3つの要求がお前の手に余るようだったら2課の服部を引き込め、その材料になる5代目との密会写真が俺の手元にある」と言った。
軽蔑を最高値に引き上げた内藤が「お前、変わったな」とつぶやいた。