シーン25 花が開くとき
シーン25 花が開くとき
翌日、赤松は“リストランテ・人参”に万智子を呼び出した。20分遅れで来店した万智子に赤松は椅子を引いてやりながら、ラベンダーの香る髪越しの耳元に口を寄せ「館の改築は順調か?」と囁いた。着席しつつ呆れたように目をクルリと回した万智子が「あなたには関係ないでしょう。どうしてここ知ってるの?」と水が油を弾くような無関心さで聞き返した。「染に聞いた」と即答した赤松に万智子は「嘘つき。ほんと二人とも嘘つき」と詰る。
「そんな事ないよ、染とお前の事は俺にとっては最優先なんやから」と言いながら、赤松は万智子と真向かいあう席に柔らかく腰掛け、背もたれに全身を預けつつ、上品な微笑を右頬だけに浮かべてそう言った。その微笑みを見て万智子は思う。この男のこの笑い方が好きだったと。「館の呼び名は決まったんか?」と言った赤松に、万智子が「君の名は」と短く応えると、何かが閃いたかのように一瞬、表情を曇らせて「一生すれ違いか」赤松がボソリとこぼしたその声は秘めやかだった。
なんだか、その顔を見ていたくはなかった万智子は「染矢が付けたのよ。それで、何の用?」と言いつつ顔を背け、店の奥で万智子をガン見していた戸上に寛大な視線を投げて頷いた。戸上は飼い主に呼ばれた犬さながらの瞳で万智子を見返し、すでに腕に抱えていたワインリストと共にやって来た。
弱々しい笑みを頬に溜めてリストを差し出した戸上に、万智子は「1982年もののシャトー・ル・パンはあるかしら」と天使の囁きで聞く。「も、申し訳ありません。シンデレラワインは、ウチではとり扱いされてい、いません」しどろもどろに答えながらも、戸上の万智子への賛美の目は万智子の口元に注がれていた。「しょうがないなー」と万智子が叱るように呟く。そして「カルトワインにするわ、オーパスワンにする」とメニューを見つめたまま口にして、忠犬戸上が「年代はいかがいたしましょう?」とすかさず聞く。ゆっくりとリストから顔を上げた万智子は戸上にワインリストを返しつつ「任せるわ」とあでやかではあるが、幼な子のような愛嬌滴る笑顔を添えて言った。
戸上が朱に染まる。「1992年ものにいたします」と噛まずにやっとの思いで言った戸上は“天女が僕を見てくれた“という盲目的な思いを抱き締めて、メニューリストを万智子に手渡し、赤松にも渡そうとしたが赤松はテーブルへと視線を落として顎をしゃくる。メニューリストを置いて一礼した戸上は浮き足だった足取りで離れ難き場所から去るしかなかった。そのやり取りをニタリ顔で見聞きしていた赤松が「乱戦させるプレーか?」と呑気な声で聞く。万智子は営業スマイルを赤松に向け「お呼び出し頂いた件はなんでしょうか?」と一気に高潔な語り口で言った。
すると赤松はメニューを持つ万智子の右手をテーブル越しにそっと握って引き寄せ、両手で包み込むや口元に持ってゆき「なぁ、万智子。俺と染どっちが好きやった?」と躊躇なく聞いた。それでも万智子は不意を突かれる事もなく「途中からどっちがどっちなのかわからなくなっちゃうんだから、どっちが好きとかはなかったわ」と正直に答え、「楽しかったよね、あの頃」と続け、「メインは子羊ベンコットにしょう」と独り言でもいう様に決め、「手を離してくれないと、ページが捲れないんだけど」と冷たく言った。きた時と同様にそっと離され、体温と共に赤松が遠のいてゆく。「万智子は変わらへんな」平然としている赤松を万智子は憎たらしいと思う。
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丁寧にエアレーションされたワインは花が開いて、芳醇な香りを放っていた。イワシの香菜パン粉焼きとの相性も良かった。万智子はほんのりとした酔いに誘われるまで、口は閉じていようとはんなりとした意地悪を思いつく。シンシンとした態度でそれを実行してゆく。そんな万智子に合わせるかのように赤松も寡黙を通していた。
こうゆう勘だけはこの男は鋭い。だから死なずに今も生きている。そう思いながらカリブサラダを食べ始めた万智子に、赤松はガーリッククラブを頬張りながら「“君の名は“の一室にノエルの部屋を作ってくれへんか」と話だし、万智子は口に運びかけていたフォークを止めて「なんかあったの?」と詰問口調で問いかけてしまう。「やっと口を聞いたな」と端正な顔立ちを綻ばせた赤松が、「いや、なんもないよ。たまには息抜きさしてやりたくて。護衛は付けてあるから送り迎えの心配はせんでいい。マンションに篭りっきりで食も細うなってもうて、ガッんとシリーズのアイスばっかり食っとるらしい」と続ける傍らで、赤松は節々がゴツリとした手でバケットを引きちぎり、ガーリックオイルに浸して口の中に放り込んでいた。
「まさか…」と言葉を飲んだ万智子を、刺すような目で見た赤松が「それはない。ピルも渡してるし」と言い切る。目を尖らせ「女なら他にもいるでしょう。なんなら派遣するけど、なんで隠すように囲い込んで、誰にも会わせずにそばに置くの」と万智子は容赦ない言い方をして、斜めに歪んだ声で繰り出す。
や、赤松もフォークをテーブルに放り投げ、勢いもそのままに「あんな、ノエルが望んだんや」と抑揚のない声で対抗する。戸上があからさまに万智子をうかがう。万智子は軽く左手を上げて制し、その視線に応えながら甘い微笑みを戸上に返した。赤松に目を向けた万智子が「悪かったわ、変な言い方して。それで、たまにノエルと会ってガス抜きすればいいの?」と新鮮に聞く。珍しく赤松が「すまん」と口にする。
「こんなにも不器用なあなたを見るのも悪くはないわ。任せて」と慈悲深くも聖母の如く万智子は微笑んだ。進学したての頃、渋谷で知り合って何事も赤松が決め、染矢がわずかな選り好みを唱え、万智子が仲裁に入っていた。3人は寝ても覚めてもいつも一緒だった。万智子の脳裏に二人に所有されていた日々が色鮮やかに蘇る。いつまでもそんな日が続くと思っていた私は若かったのだ。
万智子の顔に自傷の笑みが浮かぶ。悲しくはない。哀れんでもいない。自覚のないまま…、ただ浮かんできただけだ。そう考えながらも万智子は「オープンしてからしばらくは落ち着かないと思うから、3週間後でとりあえずはどうかしら?日当たりのいい最上階にするわ。もちろん家賃は頂きます。400万でどう?」と聞く。万智子の自傷に気づかぬ赤松から「染に話し通しててや」と返ってきた。万智子自身にも自覚がなかったのだから、仕方ないといえば仕方なかった。
それでも万智子思う。家賃吹っ掛けたのに、気にするポイントは染矢なのかと。悔しいのか、この時間を楽しみたいのか、顔を眺めていたいのか、よくわからなくなってきた万智子はもう一本、ワインを飲むことにした。「今日は私のために時間あけてあるんでしょう、付き合いなさいよ」蓮っ葉な物言いになった。
それでも男は美しく頷く。身勝手を通し、勝手ばかりを押し付けてくる男は青春で、この世で許してしまう二人の男の片割れで、理由がいらない男だった。“卑怯ではない率直な男のわがままを、たまに受け入れるのもいいものよ“と心に言い聞かせてはみたものの、ノエルへのその執着に違和感をおぼえる万智子もいた。
なんでこうもいつもそうなの…、戸上のように一心な男は退屈でしかなく、だからと言って、染矢や赤松と今更どうのこうのなる気もない。今の距離感が最適だと知っている。無いものねだりはどこか買い物に似ている。色は気に入っているけど、サイズ感がとか、肩まわりのアクセントがとか、なんかクローゼットに似たのあるけど・・・となっても結局、似たり寄ったりの洋服を買う。バック然り、ハイヒールも然り、ピリリと新しい装いに心惹かれながらも、現状維持を選ぶ私はもうあの頃の冒険心を持っていないのだろうか…。少し残念だ。
生きている幸福は
あなたも知っている
私もよく知っている
花の命はみじかくて
苦しきことのみ多かれど
風も吹くなり
雲も光るなり
切ない詩ではない。吹く風にも雲にも光を見出せる。
そう言いたかったんだと思う。




