ある夏の昼下がり(仮題)
ある夏の昼下がり、親戚のおじさんが障子窓を開け放した縁側の座敷で座布団を二つ折りにした枕に頭をのせて仰向いていた。それとなく覗いてみると、ステテコいっちょうの下肢をどてんと畳にのべて、半開きした口の下顎を鞴のように上下させていて、おじさんは寝入っているようだった。
口の中がよく見える。金冠の歯が二本、きらびやかなドーム屋根のように耀いていた。これは大仰な言い方でもない。今や、観察者の少年の世界は、おじさんの口腔にあった。人の口の中を本人に気づかれずにしげしげと覗き込むなんてことは滅多にあるものではない。おじさんの鞴の息は相変わらず安らいでいたので、物見たさの気分も手伝って少年をその場に居つづけさせた。口中なんて何の珍しさも無いのだが、ひそかに覗くという行為が少年に妙な感覚を与えた。
戸外は昼下がりの炎天下、乾いた外気が縁側から入ってくる。おじさんの口中も渇いているだろうに。氷のかち割りでも、ぽいと投げこんであげたら、さぞ気持ちがいいに違いない。喉チンコって、ああいう風にぶら下がってるのか。その奥のほうは見えないが、少年の想像力は逞しい。思えば、人間てものは口からお尻までの一本の管なのだ。ここに寝そべっているおじさんも肉体の管なんだ。管の先っぽに顔がある。手や足もついている。そして人は口からお尻までの間でしっかりと生きているんだ。そう考えると生き物が何とも単純で愉快なものに見えてくる。その管を引き抜くと芋づる式に内臓が吊り上る。内臓も頭も四肢もみんな管に養われている。ぼくがこのように想像してる裡にも、おじさんの口からは、ぽわんと二つ三つ泡が出てきた。水底の魚も夢を見ながら時々そうやって泡を吐くのかもしれないと思った。
裏山の蝉の声が喧しい。喧しいと思うのは朝起きて暫くの間だけで、慣れてくると何千何万ともつかぬ蝉の合奏も、空気の属性のような感じになっていて殆ど気にもならなくなる。こんな句がよぎった。「閑さや岩にしみ入蝉の声」これは芭蕉の句であるが、蝉が喧しく鳴いてるにも拘わらず、なぜ「閑さや・・」なのか、その意味が、解らなかった。森自体は深閑としているかもしれないが、蝉がいっぱい鳴いているのだ。しずかなわけがない。それなのに「閑さや・・」なのである。思えば、蝉時雨は他の存在物から遊離していてピュアで混じりけがないのだ。だから森のしずけさを邪魔していない。あくまで森は閑かなのだ。蝉の声は堅固な岩と喧嘩はしない。干渉もされない。だから容易に岩にしみこめる。だから「閑さや・・」でいいのである。少年はそう解釈した。
おじさんは、ぼくの姉のお婿さんだ。姉の里帰りで昨日から一緒に来ていた。おじさんは相変わらず鞴のような寝息をかいている。ぼくがその場をそっと去ろうとしたときである。おじさんの口の中に何かが飛び込んだ。はてな、何だろう?と思って近づくと、一匹の蝿がおじさんの口の中でぶわんぶわんと翅を震わせていた。えぇ~なんだこりゃ。蝿が生きている人間の口の中に飛び込んできたのだ。口を閉じれば蝿は潰されるかも知れない。なのによくも危険な場所に入ったものだ。今、おじさんは無心に眠っている。だから蝿は殺気を感じなかった。それにしても勇気のある蝿である。
ぼくはその蝿を追い払おうとはしなかった。眠っているおじさんの口の中に指を入れることはできない。それに「おじさ~ん、口の中に蝿がはいってるよ~」なんてどうして言えようか。ぼくは蝿が出て行くまでそっと見守ることにした。その蝿がおじさんの口の中でどうするものかと凝っと見守った。蝿は洞穴に反響してぶわんぶわんと翅を震わせていたが歯にとまって静かになった。たぶん歯に着いた食べ滓をつついているのだろう。歯から歯へ、またぶわんぶわんと翅音をたてた。蝿はしばらくそうやっていたが、おじさんが、ふわーんてひと息吐いたから、蝿は慌てて飛び去ってしまった。おじさんが目を覚まさないうちにいってしまったので僕は蝿以上に妙に安堵した。おじさんはまだ起きそうにない。口の中が乾いているのか、唇をむにゃむにゃさせて、また鞴の息になった。裏山の蝉の声もおじさんの寝息も、互いに邪魔をしない静かな夏の昼下がりである。
このことは、今もっておじさんには話していないし、これからも話すつもりはない。人間も蝿も口からお尻までの距離だけ生きている。ぼくという管はこれから何処へ行くのだろう。空気中で筒を鳴らせば風の和音で響くという。






