最期の選択肢
急にこんな事もあるんだよ
私の様に後悔しないで欲しい
そんな願いを込めて
父が口の中の色がおかしいことに気付き母に相談したのが始まりだった。
明らかに黒い(後日病院で写真を見ましたが濡れたタバコの灰をイメージしてください、灰色と黒が混ざった様な)
父が口頭癌になった。
家族会議が始まった、父から状況説明があり
黙って聞いていた。
喉の癌でかなり進行している。
ステージ4とは言わなかったけど多分そうだったのだろう
父の口から医師の説明で3つの選択肢があった事を伝えられた。
1.
手術は体力的に難しく、また大きく見た目が変わること
切除が必要な範囲が切らないと分からず、また一度切り始めると一気に転移が始まるので後戻りができない。
最悪顔の三分の一を切除になる。
当然会話もできなくなる。
手術での処置は否定的ではあるが3.より経済的負担は小さい
2.
抗癌剤の投与のみを行う
体力的な負担は他に比べ小さいが、治る可能性も低い
3.
放射線治療は癌の除去の手段を「切り取る」から「焼き切る」に変えるだけでやる事は大きく変わらないらしいが、脳に近い場所でもなんとかなる可能性がある
正常な部分の除去が少ないので負担が少ない
会話もできる可能性が高い
しかし手術同様、治療を行う事で逆に死期を早める事もある
私の地元は田舎でそんな最先端医療(当時)を受けられるはない、関東の病院で3ヶ月くらい入院治療が必要となる。
また、保険適応外の治療となり経済面での負担がある
1〜3どの治療が成功してもあと5年生きられるか分からない…と
話すことを話し終わり、今後のことを決めなければならなかった。
祖父 黙ってた
祖母 泣いていた、私達が悪かったのか?とか言ってた。
父 黙って席を外した。
母 混乱してて決め切らない
何が1番か分からない
どうしよう、どうしよう?ってずっと言ってた
上下姉 黙ってた
父は離れて暮らすことや経済面で迷惑かけること、一人での闘病生活
色々考えて自分で決めなかったのだと思う。
口には出さなかったけど、みんなの意見を聞こうとしてた様に感じた。
私はそこで
出来ることがそれしかないなら、出来ることをしよう
治せる確率を少しでも上げよう
そう話して、結果
1番若い私の意見が通った。
通ってしまった。
父を1人遠い土地で治療を受けさせることとなった。
大学での発表、ディスカッションで慣れたのか?人見知りで口下手な私であったけどうまく伝わったらしい
余命5年と言われても信じられなかったけど、
少しでも長くとか
奇跡的な回復とか
そんな事を期待してた。
放射線治療の間、入院中は3回だけ交代でお見舞いに行った。
母と上姉
母と下姉
母と私
朝一の飛行機に乗り、夕方の飛行機で帰る。
知らない土地で疲れたが、そんな土地で父は1人戦ってた
無事に放射線治療も終わり、実家で父はずっと寝てた。
毎日寝てた。
見た目は少し痩せたけども、何もない様に見えてみんな仕事だったり、勉強だったり頑張ってるのにって
イラッとしたし邪魔に感じた。
1番頑張ってたの父なのにね
私だけじゃなく母も少し怒ってる時があった。
1年経って、地元の病院に父が入院することになった。
転移が見つかった…もう、抗癌剤治療しか残されていなかった。
私は母、姉2人(フリーターと看護学生)、私(大学生4年)で交代で入院中の面会に行って、着替えとかやってた。
1番辛いのは母やったと思う、そして医学をかじっているだけに状態がわかる姉だったと思う
私は大学に逃げていた。
残り16単位で卒業できるような状況で本当はそこまで必要ないのに毎日学校に行っていた。
1週間、長い時はテストや就職活動を理由に1ヶ月会わない時もあった。
痩せて、動けなくなる父を見れなかった。
母の前では痛いと何度も言っていたらしい。
寝ている時間が多く、寝ていた方が楽なので寝ていたと
私の前では絶対言わなかった。
起きている時に話したら、こちらの就活の心配ばかりしていた。
強い人だった。
半年後、病院に呼ばれた。
意識が戻らないらしい。
もって1ヶ月、医者から余命の話を聞いたのは初めてで、今までは母からだったから余計にショックを受けた。
また、医者から今後の方針を決めてほしいと言われた。
選択肢は一つ減っていた。
1.
このまま、今まで通り(かなり苦痛あり)
2.
緩和ケアに移行する
モルヒネ?使う
痛みは軽減できるけど
寿命は縮める
母から祖父母に連絡が行き
また、家族会議が始まった。
祖父、祖母、母、上姉、下姉
祖母から、何で?少しでも早く…少しでも…そんな声が聞こえた
どうしよう、どうしたら良い?母からそんな声が聞こえた。
母と祖母はあまり仲が良くない
喧嘩とかするわけではないけどもやはり自分の長男を取られたって意識があるんだと思う。
ここで、母が決めてしまうと然りが残るな
そんな事を考えてた。
嫌だった。
特別仲が良いわけではないけど、何かあったら守ろうとか困ってたら助けようとか普通な家族のそんな感覚は皆あったと思う。
優柔不断で、周りに流されて、自分に自信がない
そんな私が自分の考えを話した。
父を1番に考えて欲しい
私なら最期、痛い苦しいまま死にたくない
私は父をこれ以上苦しめたくない。
これ以上、改善を見込めないのであれば、
今まで父は家族を支えてずっと頑張ってきた
最期くらい楽に過ごさせてあげよう
皆、泣いてた。私は無表情だったと思う。
でも、私はこれ以上、父に苦しんでほしくなくで私の意見を言った。
家族会議が始まった、父から状況説明があり黙って聞いていた。
そして私の意見が通った。
通ってしまった。
家族会議が終わり、皆で父に会いにいく
先生に方針を伝え、目の前で点滴をしてもらった。
細い小さな注射だった。
病室から帰る前、下姉が何かを見ていた。
一般の面会時間終了が近づき
母と下姉は泊まることにした様だ
私は翌日、就職の最終選考を控えていた。
考えることに疲れ、私達は2人残して帰宅した。
その日の、夜3時
普段なら携帯の音くらいでは目が覚めないのに、起きた。
泣き声だった。
何言っているのか、何も分からなかった。
でも、分かった
理解した。
余命宣告から1年半、緩和ケアを選び9時間
父が死んだ
苦しまず逝ったらしい
表情も無表情の様な笑っている様な
私の願望かもしれない
苦しんだ顔ではない様に感じた
誰も私を責めなかった。
話にものぼらなかった。
皆泣いていた。
私は涙が出なかった。
家に着いて下姉と話をした。
尿が急に減って、今日は出てなかったのだと
長く無い、今日明日かなと思っていたと
部屋に戻り考えた。
何かできることがあったのでは?
私の選択肢はあってたの?
どうしてもっと早く気付かない?
親孝行全然してないな…
悔しかった
通夜で、親族代表で私が話をするらしい
無事に終えられたありがとう、これからも宜しくってさ
淡々と淡々と…
感情を殺してたんだろうけど話せるんだ
第三者の様に俯瞰する様に
告別式、大学の先輩が来てくれた。
連絡なんてしてないのにビックリして
声かけてくれて
人の前で泣くのは中学3年の全国大会で負けて以来か?
泣いてる自分が訳わからなくて
泣いて、落ち着いて
落ち着いたら後悔して
未だに私の選んだ選択肢は正解だったのか
父はそれを望んだのか
納得してるのか
生前…全然話さなかったけども
死後に会えたら普段飲まないし好きでもないけど
酒でも飲みながら話を聞きたいなと思ってる。
祖母と母は前より仲良くなりました。
就活は別日に変更してもらい内定いただきました。
体壊してすぐに辞めてしまったけど
後悔とか迷いとか私に選ばせるな!みたいな泣き言とか家族に相談できなかったし
10年以上経っても未だに思い出すとクルものがあるので…
元気なうちに家族で話ししてたら残される方に後悔ないかもです。