短剣の悪魔
美しい女の姿をしたそれは、俺の魂を今にも喰らおうとしていた。
エイシェト・ゼヌニム。邪悪の樹の王女と呼ばれる途轍もなく巨大な力を秘めた悪魔だ。
生命の樹に対して邪悪の樹は十の悪魔達と悪徳からなる神への反逆の象徴でもある。その中の一柱がエイシェトだ。
そんなものと何故錬金術師とはいえ、実質一介の医者である俺が対峙する羽目になったのか、話は昨日に遡る。
俺は大学を卒業してから各地を放浪しているのだが、この数ヶ月はヴュルツブルクの聖ヤコブ修道院でお世話になっている。ここの院長、ヨーハン・ハイデンベルクは変わった人で、高名な聖職者でありながら隠秘学者という珍しい経歴の持ち主なのだ。俺は院長から魔術を教わる側で、医者として修道院に助けを乞う人達に医療を施していた。
そして、昨日院長に言われたのだ。「卒業試験代わりに悪魔を調伏して来い」と……。
「いやいや、悪魔!?俺は只の医者で聖職者じゃないんだ。そんな事できる訳ないでしょ!」
俺は院長の無茶な要求に首を横に振って全身で拒否を示した。
「何を言ってるんだ。魔術を扱うなら、悪魔の一匹でも調伏できないと忽ち喰らわれるだけだぞ?まあ、お守り代わりにこれをやろう。上手く剣に誘導してこの石を柄に嵌めれば、悪魔はお前に従わざるを得なくなる」
そう言って院長は一本の短剣を俺に与えた。それは束の部分に穴が空いており、一緒に渡された水晶石を嵌め込むことができる様だった。
水晶を見れば「azoth」と刻まれている。
俺は首を捻った。頭の中の辞書を捲るがその意味を見つけることはできない。
「この文字は何ですか?」
俺は記憶を探るのを辞めて院長に尋ねた。
「azothと読む。AからZ、あるいはアルファでありオメガであるという意味だ」
「アルファでありオメガである」、始まりであり終わりであるもの。つまりそれは「神の御名」だ。
神の御名が封印になるということか。成る程ねえ!
「こんな恐れ多いもん持てませんよ!」
俺は院長に突き返そうとしたが、院長は頑として受け取らなかった。
「丁度裏手に悪魔を封じた木があるんだ。もう封印が弱まっていて、途轍もなく危険な状態なんだ」
不穏な言葉に俺は背筋の冷えを感じた。悪魔払いは危険が伴うが、放置していてもロクなことはない。特にそれがもし大悪魔なら天変地異も起こしかねない。
嫌な予感に渇く口を恐る恐る開く。
「……危険て?」
院長は頭を振り、眉根を寄せて言った。
「既に悪魔の声がその木から漏れ出ていてな。まあ解き放たれたら、魔王級の災いが起こるだろうな。何しろ封印されているのはエイシェト・ゼヌニムだからな」
「はぁあっ!?何でそんなヤバいもんがここにあるんですか!!!?」
予想以上の大物の名前に俺は絶叫した。天変地異どころか人類滅亡でもおかしくないじゃないか!
そんな俺と対照的に院長の顔が冷静すぎて腹が立つ!
「伝承によれば聖キリアンが封じたって話だな」
聖キリアンは数百年前に実在した聖人だ。この街の領主を神の下に従うよう改めさせた偉大な聖職者であり、葡萄の木の守護者でもある。
「ああ、聖キリアンは葡萄の守護者ですね。そして葡萄は生命の樹の象徴……。エイシェト・ゼヌニムはそれに対する邪悪の樹の王女だ。……まさか、聖キリアンの暗殺事件は……」
聖キリアンはこの街で領主の妻に暗殺されたと公式では記録されている。確か領主の妻は……。
「そのまさかだ。邪教の信者だった領主の妻が悪魔を召喚し、聖キリアンは相討ちになられたと修道院の記録にはある」
……ゾッとする。偉大な聖人が相討ちになった様な強大な悪魔と只の若造の俺が対峙して敵う訳がない。
俺は剣を置いて後退った。何で相討ち覚悟で全人類の敵と関わらねばならんのだ。馬鹿馬鹿しい。そういうのは聖職者や何処かの英雄がやれば良いんだ。俺は一介の医者だ。薬の研究のために錬金術は学んだし、今は各地の民間治療を探し求めて放浪中なだけだ。院長から教わった魔術も、医療の学びの一つとして選択したに過ぎないのだ。
悪魔封じなんて大それた事は俺の目指すべきところではないのは明白だった。
「ああ、逃げるのか、テオ?」
院長が興味無さげに呟いた。
聖職者のくせに人前で耳穿るな!威厳がなくなるわ!
「そうかそうか、残念だな。このままでは数日内に悪魔が目覚め、この街は血の海になるだろう。私の命もそこまでだ。確かにお前はまだ若い。こんな小さな街で終わる男じゃない。今夜の内に発てば、まあ命ぐらいは助かるかもな」
院長は相変わらず感情が籠らない声で独り言を続ける。くそっ!負けるもんか!俺を煽って言う事聞かせようとしてるのバレてるからな!
俺は聞こえないふりをして立ち去ることにした。自分の街の災厄は、そこに住む奴が晴らすべきだ。旅人の仕事では無い筈だ!
「でも本当に残念だよ。お前が折角助けた沢山の命を見捨てられる男だったなんてな。ああ残念だ」
「……分かりました!やれば良いんでしょう!」
俺は承諾せざるを得なかった。脳裏にこれまで修道院で治療した人達の顔が浮かぶ。あの人達を見捨てるのかと言われれば、否と答えるしか無い。
「そうか、やる気になったか!なあに悪魔の名前が分かってるからな。そう難しくは無い。要するに解き放たれた悪魔を剣に召喚してしまえば良いんだ」
「召喚!?」
俺はまた吹っ掛けられた難題に頭を抱えた。
召喚はソロモン王の時代から脈々と受け継がれている秘儀だ。呼び出す悪魔の紋章を金属で用意しなければならないが、今回はこの短剣に宿らせるので、その刀身に直接エイシェトの紋章を彫り込むことにする。
禊をして、白いローブを着込んで、召喚した悪魔から身を守るための魔法円を刺繍した布を木の前の地面に置く。これで準備は万端だ。
後はエイシェトの様な魔王級の悪魔を呼び出すに適した時間、朝の九時から儀式を始める。
なぜ朝なのかというと魔王級は力が強すぎるので、なるべくその力が弱まる太陽が高い時間に呼び出すのが基本らしい。
俺は短剣を手に木の前に立った。その十字架に囲われたモミの木は、一見して禍々しい気を発しており、数百年に渡り巨大な悪魔を封じて来ただけはあった。
「アグロン・テトラグラム・ヴァイケオン……」
俺は剣を両手で持ってソロモン王の残した呪文を唱える。
「……我の召喚に応じ、この剣に宿れ!出よエイシェト・ゼヌニム!」
刀の切っ先をモミの木に突き立て一気に上に切り裂くと、木が腐り落ちてくる。葉や枝も灰に帰しながら大量に俺に降りかかるがここから動く事は出来ない。早く出てきて剣に宿れよ、エイシェト!
モミの木が完全に無くなった後、真っ黒な煙が渦巻く核が姿を現し、それが徐々に美しい女の形に変わっていく。それらはものの数秒の事なのだが俺には途轍も無く長い時間に感ぜられた。しかしそれは恐怖のせいじゃない。女のあまりの美しさに目を奪われたからだ。
堕天使サマエルの娘エイシェト。それは、この世にはあり得ないほどの完璧な美だった。
俺はその姿を一秒でも長く見つめていたいと心から思った。いや、ヤバイ!完全に魅了されてるじゃねえか!?俺は何とか邪念を振り払う。だがその瞳は俺を捉えて離さない。
思えばこれが俺とエイシェトの数奇な運命の始まりだったのだろう。俺が辿る未来はこの時決定したも同然だったが、そんなことを予想できるほどの余裕はなかった。俺は朦朧としつつある意識を何とか正気に保ち、剣を必死に持ち続けた。
「……召喚に応じよう!」
朦朧としかけた意識に美しい声が響き、悪魔は短剣に乗り移った。刀身が一気に熱を帯び、その熱さは柄にまで伝わってくる。
「テオ!今だ!」
院長の声に正気に戻った俺はすかさず水晶を柄に嵌め混んだ。短剣の熱を抑え込むように水晶を捻じ込むと掌が焼け付きそうなほど熱く感じられた。
「グワアアアアアァァア!!!」
一刻を置いて短剣の全体が光だし、断末魔の様な悪魔の声が響き渡った。
光は徐々に収束し、水晶が代わりに血のような色を帯びていく。そして数分後、光が消えるとともに禍々しかった気も辺りから消え去った。
どうやら無事に悪魔を封じることができたらしい。
「院長!」
「良くやった、テオ!封印成功だ。お疲れさん。これにてお前は立派な魔術師だよ」
院長が俺の背中を叩き、苦労を労う様に甲斐甲斐しく身の回りの世話をしてくれた。何しろ今の俺はモミの木の枝や葉や屑に塗れボロボロだ。所々かすり傷を負ったようで痛みもする。
「イテテ!痛いってば!もっと優しくやってくださいよ!」
だんだんめんどくさくなってきたのか、俺の顔を拭う手が荒っぽくなってきた。そして院長は気分が随分高揚しいるようで、いつになく饒舌だった。
俺もだんだん大業を終えた実感が湧いてきて、テンションが上がり始めた。今更胸の動悸がしてきたほどだ。
「こりゃお前お得意の薬草湿布が必要だな。中で着替えて手当しよう。ハハハ!お前ならやってくれると信じてたが、本当に素晴らしい!私は正直恐怖で震えたよ!」
「俺だって、ずっとガクブルですよ!ハハハ……。でも無事にやり遂げた……。……俺はやり遂げたんですよね!?ヤッター!!!」
上機嫌で早口で捲し立てる院長と俺は修道院の中に入った。幸い顔や手が少し痛むだけで足は無事だ。
貸し出されたローブが頑丈で、俺の身を守ってくれていたようだ。
俺は手の中でまだ熱を持つ短剣を両手でしっかり持っていたが、本当は一秒でも早く手放したかった。無色透明だったはずの水晶は今は赤黒く変色しており、邪悪さこそ感じないが、気分的には呪い殺されそうで心臓に悪い。
それでも俺の脳裏には先ほど見た美しい悪魔の姿が焼き付いてはいた。エイシェト・ゼヌニムは娼婦ないし売春の四天使の一人であると言われている。なるほど、男を惑わす美しい姿だった。黒い射干玉の髪に艶めかしい紅の瞳、白い肌。豊満な身体に美しい装飾を纏った絶世の美女だ。あれが娼婦というなら落ちない男はいないだろう。
彼女の姿を思うと、赤い水晶が彼女の瞳のような気がして不思議な高揚を感じた。
風呂を借りて汚れを落とし、着替えて顔や手の傷を消毒すれば、やっと人心地付いた。
俺は淹れてもらった茶を飲む前に、恭しく院長に短剣を差し出した。
「はい、院長。この短剣は大事にこの修道院で保管しておいてくださいよ。もう封印が解けたりしないようにね」
「何言ってるんだ。そんなことできるわけないだろう。お前が『召喚』したんだ。お前しかコントロールできないのに手放されてもこっちが困る」
院長は当然だと言うような顔をして、またもや頑なに短剣を受け取ろうとしない。いや、そんなこと今更言われても困るよ!断固拒否だ。絶対に院長にそれを押し付けてやるぜ!!
「何言ってるんだ!俺が持ち続けるとかあり得ない!呪い殺されたらどうしてくれるんだ!?あんた聖職者だろ!?何とかしろよ!」
俺の口調は怒りとともに荒くなった。一介の医者にとんでもない物を押し付けようとする奴に礼儀もクソもない!
「召喚主が呪い殺される訳がないだろう?それはお前の働きへの報酬だ。せいぜい扱き使ってやれば良い。魔術師は悪魔を使役して一人前だからな。まあ、その短剣は悪魔の力を浄化し続けるから、途中で手放しても悪魔は弱体化してもう大した悪さもできんから気にすることはない」
院長は鷹揚に頷きながら茶をすすった。こうなったら俺が何を言ってももう受け取ってはくれないだろう。くそっ!こっそりどこかに埋めようか?
数刻後、俺はこの時何としても剣を手放さなかったことを悔やむ羽目になる。
この夜、俺に最大の恐怖が訪れたのだ。
「……っ!」
俺は恐ろしい夢を見て真夜中に飛び起きた。体中から汗が吹き出し心臓がバクバクと鳴っている。
それは昼間の召喚の儀式を失敗し、悪魔に喰われる夢だった。
混乱した頭で周囲を見れば、それは何の変哲もない俺に宛がわれたいつもの部屋だった。俺は修道院の一室に小さいながらも一人部屋を与えられている。大部屋が基本のここの修道士達には申し訳ないが、錬金の研究室も兼ねているので物も多い。
ベッドを抜け出し、本棚から一冊の本を取り出す。明かりがないので文字は読めないが、その背表紙を撫でさするだけで心落ち着いてくる。
俺はアウルス・コルネリウス・ケルススを目標としている。彼は救世主が登場する前の時代の医学者だ。彼が著したこの「医学論」は千年以上時を経ても尚色褪せない。
当時の食事療法、薬学、外科的治療などが記されたそれは今でも十分通用するものも多い。
そんな彼を越える医者になるべく日々研究を重ね、錬金術を薬学に応用し、いつかそれであらゆる病に効く霊薬を作るのが俺の夢だ。
最近はメリッサがとても身体に良いことが分かり、毎日メリッサ入りのワインを飲んでいるので風邪一つ引かなくなった。いつかメリッサと錬金術を融合し究極の薬を生み出してやる。
メリッサはどこででも手に入るが保存期間は極めて短い。酒に付け込むのが良いとされているが、何かもう少しうまい方法はないだろうか?
眠気が吹き飛んだ俺は蝋燭に火を付け、机の上に散乱したメモ書きを見た。俺はいつも端書に「Para-celsus」と銘打っている。ケルススを超えるという意味で、まあ願望だ。こう書いていれば、いつか本当に超える気がしたんだ。目標を忘れなければきっと到達できる。俺はそう信じている。
「う~ん。メリッサの成分の抽出をより安定的に行うためには何が良いだろうか?灰汁取りに使う真珠灰を利用すれば、成分抽出が上手くできそうな気もするが……」
メリッサは高温だと成分が無くなるようで、その特徴的な香りが消えてしまう。だから蒸留法などが使えない。じゃあ、砕いて絞れば良いのかとも思ったが、時間が立っても香りは飛んでしまうのだ。
香りを保つにはどうしたらよいのか?何かに香りや成分を吸収させれば良いのだろうか?色々試してみる必要がある。
あーでもない、こーでもないと今まで書き溜めた薬草の利用方法をひっくり返し、俺は思索に夢中になった。いつしか時間は真夜中近くになり、俺は寒気を感じて震えた。
部屋の中の気温が一気に下がる。冷気の元を見ると、布に包まれた短剣が赤く光っているようだった。
俺は恐怖を飲み込み後ずさった。何か出てくる。そんな気がしたんだ。
俺の予想は的中し、短剣から影が浮き上がる。影は徐々に形を明確にし、美しい女の姿になった。
しかしそれは、途轍もない怒りを湛え、今にも俺を呪い殺しそうな眼差しを向ける。
ヒイッ!!俺はあまりの恐ろしさに喉から助けを呼ぶ声も絞り出せなかった。やっぱり無理矢理にでも院長に押し付けるべきだったと激しい後悔が襲うが後の祭りだ。
「……よくも、よくも、やってくれたな……」
女が低く唸った。昼間に聞いた美しい声とは全く違う怨嗟に塗れ、その言葉だけで俺を呪い殺すことができそうな力があった。
汗が背中を伝う。悪魔から逃れるために陣を組もうとしても俺の手はブルブルと震えてしまい、上手くことを成せない。
そして悪魔は俺の魂を喰らおうと襲い掛かって来た。
「……う、うーん!触れない!何よ!なんでこうなるの!?」
悪魔は癇癪を起し、高い声でヒステリックに叫んだ。
俺は拍子抜けした。美しい女が一生懸命宙をかく。俺に手を伸ばし掴みかかろうとするが、そもそも女の手も、姿も薄ら透けており俺に触れることはできそうもない。俺の身体に触れても素通りするだけのそれは、何の害にもならなかった。
助かった!俺は心から安堵した。あまりにも姿がはっきり見えるものだから、何か絞殺されそうな気がしてたんだが、この調子だとその心配はないだろう。
それよりも魔王に並ぶほどの大悪魔が、意外にも可愛らしい普通の女のようにヒステリーを起こす姿に笑いがこみあげてくる。
「あはは。何だよ大悪魔だって言うから緊張してたのに、そんなものか。おい、悪魔!エイシェト・ゼヌニム!真夜中なんだ!静かにしろ!迷惑だろ!」
恐怖が無くなった俺は居丈高にそう言った。悪魔は不機嫌に頬を膨らませた。その姿も少女のようで愛らしい。さすが「娼婦の天使」だ。男心を擽るのが上手い。俺は悪魔の誘惑に乗らないように細心の注意を払う必要がある。あんまり可愛らしいので強請られたら封印を解いてしまいそうだ。
いや、そうなれば今度こそ俺の魂は喰らわれるだろう。相手は悪魔だ。テオフラストス、油断するな。
「淫乱って呼ぶのやめてくれる?それはあいつらに貶められた時につけられた蔑称よ。エイシェトかイシュトにしてよ」
悪魔、エイシェトは口を尖らせて言った。エイシェトが言うには悪魔達は神々の戦いの敗者に過ぎず、元々エイシェト自身も女神として崇めたて祀られていたらしい。
「あいつ、水の神だったくせに、最高神に成り上がって、腹が立つ!私達、父神の子供達を地の底に落としたのよ!」
「ん?エンリル?サマエルじゃないのか?」
「サマエル?ああ父の別名ね。元々はサムエル、『彼の名は神』という意味よ。つまり水の神と表裏一体だった本当の最高神である父の事を指す言葉ね」
「水の神とは?」
「あんた達が、『主』と崇めてるあれのことよ。父の弟だったわ」
何だかよくわからないが「主」の秘密にまで話が及んできたぞ……。唯一絶対の神に比するものがあって良いのか?いや、サマエルはサタンやルシファーとも同一視されている堕天使だ。つまり神と比する者であると言っても過言ではないのかもしれないな。
話を聴くにつれ、エイシェトが聖書で語られる「大淫婦」であり預言者の書にある「天后」であることが分かって来た。
多産と豊穣の女神で性愛を司る娼婦の守り神。聖書の記述と本人の申告はそう変わりはない。エイシェトの父、エンリルとかいう元神も、よく聞けば女に手を出し地獄に落とされたということで概ね堕天使サマエルの伝説通りだ。
エイシェトが女神・天后として崇められていた頃、その神殿には毎年彼女の夫であるタンムズの代わりに「人間の男」が捧げられていたと古代書の記述にあったが、それも本人にあっさり認められた。
「そうよ私の愛する夫は冥府に捕らえられてしまったから、私の心を慰めるために人は捧げものをしてくれたのよ。私はどっちでもよかったのだけど、それが私の力の源の一つになったのも事実だわ。……今じゃすっかり落ちぶれたけどね。もうあんな風に私を祀る者はいないから、当時ほどの力はないわ。私の『豊穣』の力も失われたままだから、あの地は不毛の地になってしまったしね……」
エイシェトは目を伏せ、少し悔しそうにそう言った。この数百年封印されていたのだ。そして「タンムズ」は聖地の神殿の捧げものだったはずだが失われて久しく、確かに今あの地は砂漠の地と化していると聞く。
聖書にもあの地が不毛の地となったのは女神への信仰を失ったせいだと言う者達がいると記載があった。それに反して預言者は「邪神を信仰したから神の怒りに触れたのだ」と返していたが、どちらが真実なのだろうか?
俺は特に熱心な教会の信徒ではなかったが、当然のように信じていたものの根幹が揺らぎつつあり、戸惑いもした。だが相手は「自称女神」なのだ。悪魔の戯言として聴き流すに限る。そう思い直し、俺は首を振った。
「……まあ、わかった。でもお前が女神であろうがなかろうが、ここから出してやるわけにはいかん。大人しくしてたら、話し相手ぐらいにはなってやる」
それがその時答えられる俺の精一杯の言葉だった。
それから、毎晩夜になると剣から姿を現したエイシェトと会話を交わすようになった。
エイシェトは残酷で気まぐれで、だけど可愛らしい女だった。触れることができないのがもどかしいが、 彼女との他愛もない会話は他に潤いのない俺にとって唯一の癒しでもあった。
特に使役することなく、単なる話し相手として長い年月を共に過ごし、お互い随分気の置けない仲になっていたが、それでも相手はやはり悪魔なのだ。時折俺の神経を煽るような事を言い、俺も売り言葉に買い言葉で口論になる事もしょっちゅうだった。
そんなある日の事だ、俺の彼女に対する扱いが気に食わない、早く短剣から解放しろといつものようにキーキーと騒ぐエイシェトに、俺が切れてそう言ったのは……。
「お前が元神だろうと男を誘惑する『悪魔』に変わりないだろ!」
こいつは神の頃の性質からして正しく淫魔に相違無い。野放しにしてロクなことがあるはずがない。
快楽と享楽を好み、人間を堕落に誘うモノ。それがエイシェトだ。
正直俺も度々誘惑され、唆されそうになった。
しかし、こいつは分かっていない!俺は研究や思索の邪魔をされるのが一番嫌なんだ!
長い付き合いの中、確かに楽しい時もあったが、六割はこいつに対する怒りが勝っている。それでも時折その叡智が役に立つこともあり、何とかやってきたのだが、どうしても時々爆発してしまう!
「あら、失礼ね!私は美と性愛の象徴よ。なぜそれが悪になるの?大体、男と女の営みがなければ、人間は産まれないわ!それが悪の訳ないじゃない」
エイシェトは胸を張って言ってのけた。確かに仰る通りだが、本当に男女の営みがないと人間は産まれないのだろうか?俺の中にそんな疑問が湧いて出て、急速に思考が止めどなく回り出した。
人間の誕生の仕組みについて頭の中で医学書をめくり、次々とアイディアと照らし合わせる。
俺の考えが正しければ、営み無くして子を生み出すことは可能なはずだ。
俺は研究に明け暮れ結婚もせずにもういい歳になっていた。正直子供が欲しかったのだが、女を養うような生活は無理だ。金がないわけではないが、一つ所に留まることは性に合わない。
一時期大学で教職に就いていたが、それも飽きて辞めてしまい、今はまた放浪の旅の最中だ。
そんな俺に、エイシェトの言葉は一つの光を与えた。上手くすれば俺も「子」を持てるかもしれない!
「……子宮に子種が入って十月十日すれば子は産まれるよな?」
「はあ?」
エイシェトは訝しむように首を傾げたが俺は構わず続けた。
「じゃあ、子宮を再現して、そこに子種を入れたなら営みなしで子ができるんじゃないか?……そうだ、そうに違いない!よしそうと決まったら実験だ!」
「……馬鹿じゃないの?」
自分の考えに夢中になった俺の耳には、エイシェトの呟きは届かなかった。
それから俺は試行錯誤を繰り返し、ついに目途を立てた。
とうとう、今日から実験開始だ。フラスコに俺の血を入れて、そこに予め出しておいた子種を注ぐ。馬の腹と同じぐらいの温度を保ち、血を毎日注ぎ足すのだ。
俺は何日もフラスコの傍にへばりついて、その中を注意深く見守ったが、結局いくら待っても底の方に固まった血がこびり付き異臭が漂うだけで全く子が成される気配はなかった。
「本当に馬鹿よね……」
落ち込む俺にエイシェトがため息混じりに言い放つ。それでも顔を上げない俺に痺れを切らしたエイシェトが今度はとんでもない事を口にした。
「卵が無いのに子ができる訳ないでしょう!女の卵と男の種が結び付かないと子はできないのよ!」
「な、何だって!?」
俺は驚愕して顎が外れんばかりになった。
そんな!大学で学んだ通説では、男の種に「小さな人」が入っており、女の胎を畑にして育つとある。「卵」なんて見つかっちゃいないし、そんな説は聞いた事もない。しかし、古の「女神」が言うならそれが真実なのか……?
じゃあ子宮を模した血溜まりだけでは駄目なのか?だが、俺の実験のために女性の腹を掻っ捌く訳にはいかん。死んだ女性を解剖した時に子宮を貰い受けようか?いや、死体の血はすぐに固まってしまう。
俺が青褪めてグルグルと思考を巡らす傍ら、エイシェトは面白くなさそうに頬を膨らませていた。
「ちょっと、無駄な思考はやめたら?営みなしで子を成すなんて人間には不可能なのよ」
エイシェトは馬鹿にするような口調で言った。
「人間には?じゃあ、お前ならできるっていうのか?やれるもんなら、やってみろ!どうせお前なんて何もできないんだから黙ってろよ!」
「失礼ね!私を誰だと思ってるのよ!私は『産みの女神』よ!不可能なんてないわ!」
俺にそう怒鳴り返され、エイシェトはプライドが傷ついたように激高した。
「お望み通りやってみせてあげるわ。……さあ、フラスコの『精』よ。命を与えよう!」
エイシェトがニヤリと笑うと、異臭を放つフラスコが輝き出した。
それはまるで奇跡の光景だった。フラスコの中で小さな白い塊りが出来たかと思うと、徐々に人の形を成していった。形がハッキリとしてくるとそれは精巧な人形のようにも見え、しかし時折動く瞼や指先が生きているのだと告げる。
営みによらない「子」。人造人間が出来上がった瞬間だった。
「奇跡だ……。本当に生きている……」
俺はフラスコの中の輝く存在にくぎ付けになった。
身体を縮こまらせ、時々コポコポと泡が口元から出ている。硬く瞑った瞼は時々ピクピクと睫毛が揺らめき、眉根は不機嫌そうに寄せられたかと思うとヘニャリと緩められたり見ていて飽きない。
赤ん坊というより小さな小さな子供のような姿だがとても愛らしく、今にも起きて喋りだしそうだ。
なんて可愛いんだ!
その面差しは随分前に亡くなった母に似ているような気もするし、薄い眉毛は俺や俺の父親のものとよく似ている。
随分長い間見惚れた後、俺はポツリと言った。
「……おい、フラスコから出せないのか?」
俺の「子」だ。誰が何と言おうとも俺の子なんだ。この手で直接触れてみたい。抱いてみたいと強く思った。
しかし、そんな俺の思いを打ち砕くように自称女神は突き放す。
「出しても良いけど、そんなに長く生きられないわよ」
エイシェトが当たり前だと言うように冷たく言った。
「どうして!?なぜ生きられないんだ!?」
俺の「子」が生きられないだなんて、そんな残酷なことがあるか!?小さくても確かに今、生きている。それなのになぜだ?
「自然の理を捻じ曲げて作った命よ。ほら虫は長く生きられないでしょ?この子も小さくて、命の大きさも小さくて短いのよ。しょうがないわ」
エイシェトは口を尖らせて拗ねたように言うが、俺は納得することが出来なかった。こいつは自分を「女神」だと言った。そして人造人間に命を与えるという奇跡を今行ったのだ。それならこの子を生き永らえさせることだってできるはずだ。考えろ。これは「悪魔」との駆け引きだ。
言葉を引き出せ。どうすればこいつは俺の子を助けるだろうか?
俺が暫く下を向いて押し黙っていると、エイシェトがおずおずと様子を伺ってきた。
そうだ。こいつはどれだけ凄い女神だか悪魔だか知らないが、今は俺の支配下なのだ。
今までは俺の方がこいつの話し相手として、こいつに振り回されることの方が多かった。だが、今こそエイシェトの力に期待するべき時ではないか。さあ、テオフラストス、間違えるな。悪魔であり女神である大いなる者を今こそ使役しよう。例え対価が必要でも、願いが叶うなら差し出そう。
そう決めて俺はおもむろに口を開いた。
「『産みの女神』が……、聞いて呆れるな」
俺はなるべく心底軽蔑したような顔をして見せた。蔑む様に、低い声音で言葉を紡ぐ。
「所詮、お前はちっぽけな悪魔だ。たかだか、人造人間の一人も救うことが出来ない、ひ弱で、脆弱な力しかない存在だ。だからこそ人間なんかに封じられたんだろうな。納得だ」
エイシェトは怒りで顔を大きく歪めた。もっと怒れ!そしてその力を俺に見せつけてみろ。
「……いい気にならないで。この私に向かってお前ごときが侮辱した!八つ裂きにしてやるわ!」
「ハッ!八つ裂き?やってみせろよ!お前は誰の支配下にあるかすっかり忘れているようだな。『ああ、悲しいことだ。力ある都バビロンよ。あなたへのさばきは、一瞬のうちに下った』!」
「グッ!ああああああああ!!」
俺は聖句を唱えた。エイシェトが苦しそうにもだえる。『大淫婦』であるエイシェトにダイレクトに効く詞だ。さぞつらいだろう。だが俺はこいつを完全に使役せねばならない。
「『ああ、悲しいことだ。あんなに美しかった大いなる都が、あっという間に荒れ果ててしまった。最高級の紫布と緋色の布をまとい、金や宝石や真珠で飾りたてていた都よ。そのすべての富も一瞬のうちに消えてしまった。』」
エイシェトの白く美しい顔が見る間に赤黒く染まっていくが、俺はまだ手を緩めることはできない。
「『しかし、天よ、神の子どもよ、預言者よ、使徒よ。彼女の最期を喜びなさい。ついに神は、あなたがたのために、彼女にさばきを下されたのです。』!」
「まっ待って!それ以上紡がれたら、本当に消滅してしまうわ!」
エイシェトが必死に俺を止めた。俺が今唱えたのは黙示録の一説だ。大淫婦への神の裁きの言葉はそのまま悪魔を蝕む刃になる。
神との契約の書である「聖書」の御言葉には悪魔を制する力があるのだ。
「……エイシェト、お前に命ずる。この人造人間を真の人間に変えろ」
「……対価を要求するわ。お前は何をくれるの?」
エイシェトは忌々しいというように眉根を寄せて俺を上目遣いで睨んで言った。
俺は使役の陣を緩めずに聞いた。
「何を望む?解放は無しだぞ」
「……魂を。お前の命が尽きる時、私のものになると言うなら、望みを叶えよう」
俺は首を傾げた。エイシェト・ゼヌニムが魂を喰らうというのは本当だったのか。
短剣の封印は俺が死んでも、俺の魂がエイシェトに囚われても、もう解けるものではない。
それならば、喰らわれるとしてもそれで俺の子が生き長らえるなら本望だ。
「……お前がこの子とその子孫を永遠に守ると言うなら、俺の魂をやろう」
一拍置いて俺がそう口にすると、エイシェトの口が弧を描いた。
「承知した!フラスコの子どもよ!我が力を注ぎ、彼の血を受け継ぐ者よ!殻を破り、現れよ。その足で大地を踏みしめよ!」
エイシェトの言葉と共に、フラスコが光り輝き、ガラスがひび割れていく。塵が、湯気が、光が舞う中、七つほどの子どもの姿をした俺の「子」が立ってそこに現れた。光が収まるのと同時に彼は目を見開き、美しい茶色の瞳が力強さを纏っていた。
生きている。ああ、生きている!
俺の子が生まれた。諦めていた俺の子だ。女神の力によって、「奇跡の子」がそこに立っている。
子供は俺の目を見て、にっこり笑うと、くしゅんと小さくクシャミをした。
俺は急いで裸ん坊のその子供を毛布で包んでやった。
少し湿った頭をなぜてやると、気持ちよさそうに目を細める。ああ、可愛いらしい!子供がこんなに可愛いなんて知らなかった。感極まりすぎて言葉が出ない。俺はいつの間にか声を上げて泣きながら、その子を思い切り抱きしめていた。
俺はその子をヴィルヘルムと名付けた。亡くなった父の名だ。ヴィルは女神の力のせいかとても賢く、生まれたばかりというのにすでに言葉を自由に操り、深い知識を持っていた。
エイシェトはヴィルを守るために俺にエイシェトの剣を模した短剣を作り常に持たせるように言った。
同じように刀身にエイシェトの紋章を彫り、二つの剣先を合わせたら、剣同士が繋がりを持ち、エイシェトは剣を通してヴィルを守ることが出来ると言う。
ヴィルは人間の子どもそっくりの姿だけど、元は人造人間だ。魂が不安定なので剣を常に持たせて守る必要があるそうだ。
俺との契約を守るためだとエイシェトは言うが、それは照れ隠しのようで、実際、エイシェトにとってもヴィルは実の子どものような気持ちらしい。俺以上に過保護なことも多い。
エイシェトという名は「妻」を意味するそうだ。
「天后」と聖書にある通り本来は「神の妻」なのだろう。
しかし、今は俺の妻と言える。
俺たちは奇しくも「普通の家族」の様に子供を産み育てている。
そのやり方は常軌を逸しているが、こんな家族のカタチがあっても良いだろう。
そう思えるぐらいに最後まで幸せな時間を過ごすことができた。
ヴィルが生まれてから七年が過ぎ去ったある日、俺はヴィルの将来を考えて国に戻った。
大学のあるバーゼルには入れず、昔俺が世話をしたある鉱夫組合でしばらく世話になることになった。
若気の至りだが、昔は彼らを扇動したりもしたので俺は彼らの指導者の一人として認識されている。まあこれでも俺は一応有名大学の教授だった男だ。俺の言葉は今でも彼らにとって重みがあるらしく、あまり調子に乗って大言壮語するわけにはいかない。
しかも中には逆に俺を恨んでいる者もいるのだ。
俺はそれを分かっていたのに失敗してしまった。
それが起こったのは、ヴィルを学校にやるために弟子たちに預ける顔合わせの日だ。その時、ヴィルは俺の弟子の一人に連れられ、学校を見に行っていた。
エイシェトは昼間なので出て来られず、俺は一人街を歩いていた。
不意に後頭部に衝撃が走り、振り返ると見覚えのある男が立っていた。俺が扇動した暴動で割りを食った男で、ずっと恨まれていることは知っていた。
男の怨嗟に満ちた顔が俺の最後に見た光景だ。
その後は暗転。
俺の命はそこで尽きたのだと思う。
今、俺は魂だけになって、エイシェトの剣と共にある。
――我が夫よ。今度は冥府にやらないわ。
了
※新約聖書「ヨハネの黙示録」より
※Eisheth Zenunim→ Eisheth →isheth→ Ishtar=イシュタル
※タンムズ エゼキエル書に記載のある異教の神の名前
イシュタルの夫で冥府にとらわれている。