ラノベと対極の新小説 蓮井遼さん「フェリーに乗って」
まず最初にご紹介するのは蓮井遼さんの作品、「フェリーに乗って」です。
80年代の学生時代、文芸サークルに所属していた私は大学の講義をさぼり、一日中、部室や喫茶店、居酒屋にたむろしては、友人たちと文学談義に余念がありませんでした。
ボルヘスなどラテン文学に傾倒している英文科の学生、S君があるとき興味深いことを言いました。
「未来の文学、二十一世紀の文学は、掌編小説が主流で、エッセンスを凝縮した内容の濃い作品になる」
私はそれを聞いて、なるほどと思いました。
S君によれば、映画や漫画、アニメ、テレビドラマなど視覚に訴える物語ジャンルにくらべ、活字で勝負する小説はこれからの時代、圧倒的に不利とのことでした。映画ならただ見れば鑑賞できますが、小説は苦労して活字を読まなくてはなりません。
そこで読む労力を極力省いた短い掌編小説でもなければ、これからの時代、読者にそっぽを向かれる。一方、スペースが短い分だけ小説の面白さを減らしてしまっては、やはり読者にそっぽを向かれる。短くても面白くなくてはだめ。
だから未来の文学は、短くても面白さを損なわないために、内容の濃い作品になる、とS君は主張しました。
内容の濃い作品とは、文章や描写が優れ、哲学的思弁や思想が散りばめられた小説を指します。またこのような小説は一般に文字がびっしり埋まっていて、空白部分や改行が少ないのが特徴です。
さて月日は流れ、実際に二十一世紀も最初の二十年が過ぎようとしています。S君の予言は見事にはずれ、”未来の文学”は真逆の結果になりました。
今日のラノベは長さ的には連作の長編小説が主流。文体は軽く、紙面を眺めると文字に対して空白が多いのが特徴です。
前置きが長くなりましたが、蓮井遼さんの作品を「なろう」で最初に発見したとき、私はS君が唱えた”未来の文学”を思い出しました。S君の予言ははずれたものの、彼が提唱した”未来の文学”がそこにあったからです。
1. 「フェリーに乗って」について
蓮井遼さんの「フェリーに乗って」のストーリーを説明します。
とある晴れた日、主人公はファリーに乗り、デッキから三階の客席に移動すると、寝転がって時間をつぶします。
ストーリーはこれだけ。ただしその間、寝転がりながら主人公は思索に耽ります。これまでの人生を振り返り、人間関係に悩み、周囲に流されて生きてきた自分。それはちょうど今主人公の体が船で受動的に運ばれているのと似ています。
人生に対する無気力と脱力感。こうした主人公のネガティブな感情をよそに、読後感は船旅の長閑でさわやかな光景が浮かんでくるのに好感が持てます。
主人公の視点、ナレーターの視点、作者の視点がうまく切り分けられ、人生に懊悩する主人公の哲学的思索に知的好奇心をそそられながらも、小説全体としては情景詩として読めます。
2. 勝手にハイパーハードノベルと命名
ここでは蓮井さんの作品ジャンルを、ラノベとは真逆の小説という意味で、勝手ながら「ハイパーハードノベル」と命名させていただきます。
ラノベが従来の小説にくらべ、文章が”軽く”、内容が”薄い”のに対し、蓮井さんのハイパーハードノベルは文章が”重く”、内容が”濃い”と言えます。またラノベが連作長編志向に対し、ハイパーハードノベルは掌編小説志向です。
この他、登場人物が基本的に主人公一人で、複雑なストーリーはなく、ありふれた日常の情景の一コマを描く、というのもハイパーハードノベルの特徴です。
登場人物が複数登場する場合もありますが、登場人物の人間関係を描くのではなく、あくまで主人公の内省を深く描写した作品が多いようです。
そして何よりも主人公の内的独白として語られる哲学的思弁が読者に知的興奮を醸し出します。これがハイパーハードノベルの最大の魅力でしょう。
3. 幻獣ファンタジーはもう一つのハイパーハードノベル
ところで蓮井さんのハイパーハードノベルは私小説的作品と、ファンタジー作品に大別できます。ファンタジー作品では、幻獣ファンタジーとでも言うべき動物やモンスターを擬人化した作品が目立ちます。
具体的には前述の「フェリーに乗って」、「単調なこと」が私小説的作品。「霧のなかの馬」、「火山に棲む竜」が幻獣ファンタジーと言えます。
幻獣ファンタジーも私小説的作品と基本的には同じ構造ですが、たとえば主人公の竜が火山の中に二千年も生息していて昔を回想するといった、人間ではありえない内的独白の思考実験が、私小説的作品では表現できない面白さと言えるでしょう。
4. ハイパーハードノベルと現代詩
蓮井さんは上記の二つのタイプのハイパーハードノベルの他、現代詩も書いています。
昔、岩波文庫でアンデルセン童話を読んだことがあります。複数の童話の合間に、詩や散文詩が混ざっており、これが短編集として独特の面白さを出していると思いました。原作がそうだったのか、それとも岩波文庫で意図的に編集したのかわかりませんが、詩集として独立させるより、童話に混ぜることで、散文でつづられた童話も詩と思って言葉をじっくり味わってくださいという、作り手側のメッセージが伝わってくるように思えました。
もし自分が編集者だったら、是非とも蓮井さんの短編集を担当してみたい、と勝手に妄想を膨らませています。
詩集を作るのでなく、あえて小説と詩を同じ短編集に混ぜて、相乗効果を狙ってはどうでしょう。アンデルセンの小説バージョンというわけです。
ハイパーハードノベルは文学的文章で書かれているがゆえに現代詩とも相性がいいのです。
実は蓮井さんご自身がすでに短編集を編集し、文学フリマで活躍されているとのこと。ファンの私が横から口をはさむ余地はないかもしれませんが。
拙作小説も紹介させていただきます。自分ではハイパーハードノベルは書いていませんが、一番近い作品が以下のSF小説かと思います。ラテン文学つながりで、ハイパーハードノベルがボルヘス風ならこちらはマルケス風、と勝手に分類してみました。
①ぼくはいまここにいる!