先輩と百合漫画
誰にも見つからないようにわざわざ隣町の本屋に行ったというのに、あろうことか一番マズイ相手に出会ってしまった。
「あれ、りさちゃん?」
本屋の自動ドアを抜けた瞬間、聞き慣れた声がわたしの耳に届いた。甘くて柔らかいその声にわたしの肩がびくんと跳ねる。
買ったばかりの漫画をぎゅっと抱きしめた。ブックカバーがついているからどんな本かはわからないはずだけど、見透かされているような気がしてドキドキする。
「ゆ、ゆい先輩」
恐る恐る顔を声の方へ向ける。
ゆい先輩は高校の制服を着たまま、わたしに向かって微笑んでいた。
ゆるくてふわっとした長い髪。やさしげな眼差し。全身からかわいいオーラが溢れていて、先輩の周りだけおとぎの国になってしまったかのようだ。
すぐそばに先輩がいるだけで、全身が熱くなる。
憧れの先輩だった。絵が下手くそなわたしが美術部に入っている唯一の理由の人。
いつもだったらこんなところで会えたら嬉しくてしょうがないのに、わたしは冷や汗が出てくるのをとめられなかった。
「何の本を買ったの?」
「た、ただの漫画です。ギャ、ギャグ漫画です」
嘘だ。
本当は女の子が女の子のことを好きになる漫画だった。部活の先輩と後輩で、先輩の名前は偶然にも「ゆい」という。
こんなの読んでいるのバレたら絶対に先輩から引かれるのは間違いなしだった。
それにもしかしたらわたしの気持ちも伝わってしまうかもしれない。そしたらきっと先輩はわたしのことを拒絶するだろう。
「りさちゃん、ギャグ漫画なんて読むんだね。ちょっと意外かも。読み終わったら私にも貸してね」
「……だめです」
「えーなんで」
「……だめなんです」
わたしはそう言って横を向いた。
いくら先輩の頼みでも絶対にだめだった。
「なんかりさちゃん、顔が赤いけど熱でもあるの?」
額に先輩の手がやってきて、わたしは思わず後ずさった。少ししか触られていないのに先輩の手のぬくもりが額に残っていて、わたしの息が少し荒くなった。
「す、すいません。急で、びっくりして」
「熱いよ。大丈夫? お家まで送ろうか」
先輩が心配そうにわたしのことを見る。
先輩と一緒にいたら漫画がバレてしまうかもしれない。でもわたしはその甘い誘惑に勝てなかった。
こくりと頷く。
「歩ける? お手々つなぐ?」
わたしがたじろいでいると、先輩がさっとわたしの右手をとった。胸がどくんとした。
先輩の体温が右手から伝わってくる。
わたしは入学式のときのことを思い出していた。
どうしてもトイレに行きたくなって、帰ってきたら教室は空っぽで、どこへ行けばわからなかったわたしを、先輩がさっと手を取ってくれたのだった。
――新入生? わたしが案内してあげるね。
いまでもあのときの先輩の笑顔が焼きついている。
「こうして手をつないでいると、昔を思い出すね」
先輩がふと言った。
「あのときのこと覚えてくれてたんですね」
もう一年以上も前のことだ。先輩が忘れないでいてくれたことに胸がじんとなる。
「うん。かわいい女の子が一人で泣きそうになってるんだもん。忘れるわけないよ」
「か、かわいくないですよ。それに泣きそうになんて……」
わたしは先輩に比べると、ぜんぜんぜんぜんかわいくなんてなかった。地味だし暗いし鼻だって低いし……。
「りさちゃんはものすごくかわいいよ」
「先輩……」
幸せが胸いっぱいに広がっていく。ずっと先輩とこうして手をつないでいたかった。本当は先輩後輩じゃなくて、恋人として……。
わたしは先輩のことが大好きです、って告白できたらどんなに楽だろう。
先輩の顔を盗みみる。
わたしより一つ頭大きい先輩はどこか楽しそうな表情を浮かべていた。
「そういえば先輩は、こんなところで何してたんですか?」
先輩の住んでいるところは、わたしと同じ町だった。だから先輩にとってもここは隣町になる。
何か用事でもあったのだろうか。
「このまえ告白されたの」
何でもないような口調で先輩が言った。
わたしは何も言えなかった。
「となり町の高校の人。だから今日はその返事に来たの。――どうしたのりさちゃん」
わたしの足が勝手にとまっていた。
考えてみたら当たり前の話だった。
先輩みたいにかわいい人がモテないわけがない。先輩はきっとその人と付き合うのだろう。そしてわたしはただの後輩として、先輩にしたいことやされたいことは一生できないんだ。
わかっていたはずなのに、頭にガツンと来た。
「りさちゃん泣いてるの?」
「……ごめんない。何でもないんです。いきなり泣いてキモいですよね。ごめんなさい。わたしもう行きます。ここまでありがとうございました」
わたしは涙をさっとぬぐうと、先輩の横をすりぬけてそのまま走りだそうとした。
「待って、りさちゃん」
背中に先輩の声がかかる。
後ろからぎゅっと抱きしめられた。
「大丈夫だよりさちゃん。わたしがいるから。何かあったの。わたしでよかったらなんでも聞くよ」
「……別にいいです」
「告白はね断ったの。わたしは美術部のみんなといる方が楽しいし。りさちゃんともそうだよ」
「……先輩はわたしのことどう思いますか」
「好きだよ」
その言葉が恋愛としての好きじゃないことはよくわかっていた。嬉しさとどうしようもない悲しさが胸をつく。
「わたしは」
肩越しに振り返った。
唇が触れる。
先輩がわたしの口にキスをしているのだとわかるまで時間がかかった。
体が溶けてしまいそうな感覚に襲われる。
唇が離れて、ようやく頭が動きだした。
「な、な、なんで」
「好き、って言ったでしょ」
「で、でも」
「いつも部室でわたしのことずっと見てるんだもん。わかるよ。それにわたし実は本屋さんでそれ手にとっているりさちゃんのこと見てたの。それで本屋の外で待ち伏せしてた」
「う、嘘です。先輩はわたしのことからかってるんでしょ」
「じゃあ、もう一回する?」
頭が沸騰しそうなくらい熱くなった。
「そうやって、すぐ照れるところかわいい」
「や、やめてください」
「帰ろ」
わたしはまた先輩と手を繋いだ。幸せがあふれだす。
「漫画貸してね。わたしまだ二巻買ってないの。あ、一緒に読むっていうのはどうかな?」
「……はい」