赤備え
謙信死後、越後の動向を気に掛けていた信玄の元に、一人の忍びが報告を伝える。
「お館様・・・」
「盛清か、どうやら動きがあったようようじゃな」
「はっ、越後に内乱の兆し有り」
「やはりな、政景では・・・抑えきれないじゃろうな」
「どうやら、政景殿は織田に降る決心をされたようで・・・使者を向かわせたよし」
盛清から報告を聞いた信玄は、深く溜息をつくと静かに語りだす。
「使者か、お市様を動かせるほどの使者など・・・定満亡き後、今の長尾にはおるまい。長尾は滅びる定めか、して誰を使者にたてたのじゃ」
信玄は悲しげな顔をしながら呟く。
「それが・・・」
「んっどうしたのじゃ」
困ったような顔をした盛清を見て、違和感を感じた信玄は問い掛ける。
「政景殿の嫡男卯松殿を使者に立て、道中の共も、卯松殿の従者である与六とやらしか付けておりませぬ」
「なんじゃと!卯松じゃと、元服もしてはおらぬ小僧ではないか!しかし・・・これならば山が動くやも知れぬな」
静かに立ち上がると部屋の外に出る信玄。
それを見つめながら、盛清は信玄に問い掛ける。
「如何されますか」
「盛清、信濃にいる丹羽長秀殿と上野の河尻秀隆殿に、兵を越後に進めて欲しいと伝えてくれ。急げ」
「御意」
盛清は信玄の命を受けるとその場から消える。
それと入れ替わるように一人の男が信玄の元に片膝をつき、頭を下げながら、声をかける。
「お館様、何やら動きがありましたか」
「昌景か、兵を急ぎ集めよ!越後に向かう」
「はっ、皆に伝えまするが、赤備えはすぐ動けまする、先行させまするか」
昌景が信玄の顔を強く見つめながら、力強く話す。
「ふっ虎昌の三ツ者を使って読んでおったな・・・先行して政景殿に助力してやれ。信春に兵を集めろと伝えてから急ぎ向かえ。儂もすぐ向かう」
「御意」
政景は力強く頷くと信玄の元を去り、馬場信春の元に向かう。
「どうした、昌景その様に慌てるとは・・・何かあったか」
「お館様が急ぎ兵を集めよと、越後に向かうそうでございます。私は赤備えを率いて、先行致しますので、詳しき事はお館様の指示をお聞き下され」
「そうか・・・張り切り過ぎるなよ」
「はっ」
信春は苦笑いをしながら、昌景に向かって、優しく手で追い払う仕草をする。
この後、信春は甲斐の兵を素早く集める為、各将に伝令を素早く出し、自分が任されてあった供回り衆(馬場隊)を集め、信玄の元に向かうと二人の男が信玄の前で報告をしていた。
「流石、昌豊と虎綱よな、もう兵を纏めて報告に上がっておるとはな」
信春は、内藤昌豊、春日虎綱の二人に声をかける。
「昌景には先を越された、直ぐに向かわねば、織田家より提供してもらった鐙の効果を試したくて、うずうずしておった昌景に掻き回されて、私の働き場が無くなって仕舞いそうでな。それに織田に習った新しき軍の構成で、武田の軍制も変わったしな、あのように振り分けられた種別の軍なれば、昌景の赤備えは機動力が強みじゃからな」
虎綱が微笑みながら話す。
「そうじゃ、あやつは騎馬隊だけで構成された軍だからな。しかし、織田の軍制を取り入れた事で、選りすぐりの精鋭になったとは言え、動員出来る兵数は今までの半分以下じゃ、それに織田より提供を受けた装備が、どれほどの効果があるのかも実践での成果を見ていないからな・・・正直分からぬ」
苦笑いをしながら、呟くようにボヤく昌豊。
「まぁそう言うな、お主らの内藤隊(長槍隊)、春日隊(弓鉄砲隊)もそれぞれの長所もあるであろう。それにお市様が考案された武具・・・効果のほどは、自ずと分かろうぞ」
それを聞いていた信玄は、二人に諭すように話しかける。
「「はっ」」
信玄の言葉に頭を下げながら、返答を返す二人。
「勝頼様、武藤殿も軍を纏め、待機しておるとの事。それと、お市様考案の狼煙台により、速やかに近隣国に連絡を完了した由、荷駄隊の準備も整いまして御座います」
報告する曽根昌世を優しく見つめると、信玄は声を出す。
「よし、では行くとするかのう」
こうして素早く軍を動かすと、新しく舗装された信濃路を北上し、海津城にて丹羽長秀の率いる信濃勢を待ち、信濃勢と合流した処で、市からの伝令が信玄の前に現れた。
「お市様より、越後切り取り次第を撤回、駿河を与える故、長尾政景殿を助けよとの仰せに御座います。信濃、上野の兵権を与えるとの事」
「なんと・・・駿河を頂けるのか、ならばお市様が越後に到着される前に、平定しておかねばならぬな。信春、武田の力見せつけよ!」
「御意!皆聞いたな、武田の力存分に見せつけるぞ!出立!」
「「「「「おおぅ」」」」」
その頃、先行して越後に侵攻した昌景は、兄飯富虎昌の忍びを先行させて索敵しながら、上杉政景(上杉の跡を継いで長尾から上杉に変名)が居る春日山城に向かい、駆けていた。
春日山城に近づくにつれ、反政景派の軍勢が増えていくが、精度の高い索敵と、機動力のある赤備えに、対応出来ない敵に対して、次々と奇襲を仕掛けながら、敵を突き抜けて進んでいく。
そんな中、昌景の元に忍びが訪れる。
「昌景様、この先に丸に上の字の家紋を掲げる軍が居ります」
「何っ・・・気付いておるのか」
「いえ、春日山城に向かって陣を張って休息中に御座います」
「そうか、大将旗は有ったのか」
「御座いました」
「ふっ、山浦国清はいるようだな・・・肝を冷やさせてやるか」
この報告を聞いた昌景は静かに兵を進め、山浦軍の後方三町手前まで接近して、停止させると、静かに片手を上げる。
「火矢の用意をせよ」
昌景は馬に乗ったままの兵に、火矢の準備をさせると、弓を構えさせる。
皆が矢を番えるのを確認すると、手を下ろすと同時に叫ぶ。
「放てぇ!」
昌景の合図と共に放たれた矢は、山浦軍の陣地に吸い込まれていく。
「装填!」
「装填じゃ!」
「装填せよ!」
昌景が叫ぶと次々と将兵達が叫び出す。
それに答えるように弓矢を番える配下の兵達。
「突撃ぃ!我に続け!」
昌景も弓矢を構えながら、山浦の陣に突撃を開始する。
慌てふためく山浦軍であったが、対応しようと疎らな槍衾を構成して、迎撃しようと待ち構える。
「放て!」
昌景が叫ぶと槍衾を構築していた兵に向かい、一斉に矢が放たれる。
矢は槍衾を構成していた兵に次々と突き刺さり、脆くも槍衾の兵は壊滅する。
「蹂躙せよ!」
「後追い無用!」
「一撃離脱を繰り返せ!」
「足を止めるな!駆けよ!」
各将兵に率いられた部隊は、陣地内を縦横無尽に駆け回る。
「鐙があれば、こうも違うものなのか!馬から一々降りて戦わずに済む。模擬戦等では、効果があると実感したが・・・実践ならば尚更か!力を存分に発揮出来るわ!流石はお市様という事か!」
唯でさえ、鐙が無くても馬の扱いに慣れていた甲斐の兵に、鐙が加わり、数倍の効果をもたらす成果に、思わず笑みが浮かぶ昌景。
火矢を打ち込まれ、混乱する兵を抑える将の声に、休息していた国清は天幕を荒々しく叩きながら、退かす。
「一体何の騒ぎだ!なっ何故、四つ割菱・・・が」
目に飛び込む家紋を見て、手にした盃を力無く落としながら、体を震わせる国清であった。




