信玄の心配
甲斐、甲府の躑躅ヶ崎館の中にある広間で、上座に座る信玄の前に、一人の男が呼び出された。
「父上、お呼びでしょうか」
頭を下げて、挨拶する勝頼。
「お主に継がせた諏訪を辞して、武田に戻し、儂の跡目と致す。諏訪家は織田家預かりとなり、当主不在となるが、お主に子が出来れば、その子に諏訪の名跡継がせても良い。これは信長様の了承を得ておる」
信玄が勝頼に伝える。
「私が・・・悔しい事で御座いますが、義信兄上の様な力量も無く、父上の後を継ぐ、自信がありません」
下唇を噛み締めて、悔しそうに、心で感じた言葉を吐き出す勝頼。
「良い、その様に自覚しておるならば、十分、武田の後継となれよう。お主には昌幸を付ける。共に岐阜に参り、信長様とお市様に挨拶して参れ」
信玄は右手を上げると襖が開き、真田昌幸が姿を現す。
「勝頼様、不肖この昌幸、一命を賭けて、勝頼様を補佐致します」
昌幸は勝頼の近くまで来ると、静かに座り、頭を下げた。
「至らぬ事が多いであろうがよろしく頼む、昌幸」
「こちらこそ、宜しくお願い致します」
二人は見つめ合い、手を握り合う。
「これからの武田は、大きく変わらねばならぬ。甲斐の国だけではなく、周辺国の民の事も考えて、歩調を合わせねば・・・武田は消える。何時かは、武田の国は消えるかも知れぬ。しかし、決して織田に逆らうな。逆らわず、国が消える定めと成ったとしても、織田と共にあれば、武田の名跡は消えぬ。民と共に生きながらえよう」
「「御意」」
二人を見つめながら、信玄は思う。
織田の政策は、織田家が天下に君臨し続ける様には、整備されていない事に・・・。
何時の日か、織田家は政権を、民に移譲するのではないかと考える。
ならば、残された余生を使い、自らの思い、経験、知識全てを教えていこうと、心に強く誓うのであった。
二人が共に、信玄の前から下がると、入れ違いの様に忍びが、信玄の前に現れる。
「盛清か、いかが致した?」
いきなり現れた、出浦盛清を見て、首を傾げながら、話しかける。
「どうやら、謙信が動き出すようです」
「ほう、織田の怖さ分からぬか・・・謙信らしいのう、して、織田は掴んでおるのか?」
「恐らく、織田の手の者が複数、上杉の領内に居りましたので」
「手は打っていると考えた方が良いな。丁度、勝頼達を岐阜に向かわせたところじゃ、どうするのか聞いて来るじゃろう。それまでに用意はしておかねばなるまい、皆を集めておけ。戦になろう・・・」
信玄は微笑みながら、越後の方角を見つめていた。
するとまたもや一人の女性が現れる。
「お館様、越後だけでは無いようですよ」
「んっ?千代女か・・・何やら掴んできたか」
信玄は顎に手をやり、顎を摩りながら呟く。
「あちらこちらで、反織田派が動き出しました」
「ほう、何やら動いておるな・・・分かった事を教えよ」
「毛利が山名と同盟を結び、戦の準備をしております。それに呼応するかの様に、備中の三村、播磨の別所が織田派に所属する者に対して動いており、三好も戦支度を整えております。それに佐竹、里見も北条に対して戦を仕掛るつもりのようです」
「大層、動き出したな。こんな事を出来る人物は・・・元就か」
「そのようですね」
「お市様は頭を抱えていよう、織田は広大な領地があるが、戦に動員する織田の兵数がそれほどおるまい。このようにあちらこちらで戦となると兵が分散するし、経済に影響もあろう。各自で対応を迫られそうじゃのう」
「謙信も動いているのでしょ?織田様は謙信の侵攻抑えられますでしょうか?野戦の強さは神がかっておりますよ」
「そうじゃのう、信長様か、お市様が対応されたら、心配はないが・・・」
「まだ、どのように織田が動くのかは聞いておりませんので分かりませぬが、どちらかが対応されるのではないかと思いますが・・・」
「いや、まだ裏がありそうじゃ。千代女、しっかりと情報を集めよ、織田派の者も調べておけ。何やら胸騒ぎがする」
苦い顔をして話す信玄。
「それは隣国の方の事で御座いますか?」
「そうじゃ、儂の感が徳川が怪しいと睨んでおる。家康には半蔵が付いておる気を付けよ」
「御意」
千代女は指示を受けると信玄の前から姿を消した。
勝頼と昌幸は、共に岐阜に居た信長と謁見すると、市の元に挨拶に向かう。
「あっ兄上様ぁ!」
勝頼を見つけて、走って来る小さな女の子がいた。
「おおっ松か、大きくなったな」
膝を折って、松の視線に高さを合わせると、走り込んできた松を抱きしめる勝頼。
「兄上様?何故此方に参ったのですか?」
「お主の顔も見たかったが、お市様にお会いしようと思ってな。松・・・辛くはないか」
勝頼は顔を少し暗くして、松に話しかける。
「いえ、辛くなどありません。皆良くしてくれますし、お市様は厳しい事も仰せになりますが、大変優しい方ですもの。奇妙丸様も松の好みのお方ですし、松はここが好きです」
少し頬を赤らめて、偽りのない笑顔で、勝頼に話しかける松を見て、先ほどまで緊張していた勝頼は、心が軽くなる感覚を覚える。
「そうか、良かったな。ではお市様の元へ案内してくれぬか」
「はい」
松に案内された部屋に着くと、市は一心不乱に机の前に座り、筆を滑らせていた。
「お市様、あにぅ、違う。武田勝頼様が、お見えになりました」
松は思わず、名前を言い間違えそうになりながら、市に来客を伝える。
「松ぅ、身内であろうとちゃんと名前呼ばないとね・・・あたしみたいに行き遅れになるわよ」
顔は笑顔であるが、目が笑っていない市に怯む松。
そんな市の顔を見て、勝頼と昌幸は声を失う。
容貌と動作の美しさと声に心を奪われ、魅了されてしまう。
「そんなところに立ってないで、こっちにいらっしゃい。苛めたりしないから」
微笑みながら、話す市に惚けながら、腰を落とし、挨拶をする二人。
「お初にお目にかかる。武田徳栄軒信玄の嫡男となりました、武田四郎勝頼と申します」
「お初にお目にかかります。真田一徳斎の三男、真田喜兵衛昌幸と申します」
「あんたが勝頼ね、いい顔してるじゃない、こっちは昌幸か、中々の曲者のじゃないのあなた、一徳斎に感じ方が似てるわ。信玄も良い人材配置をするものね」
笑顔で二人を見ながら、話す市。
「兄、義信の名に恥じぬようにして参ります」
市に深々と頭を下げる勝頼。
「そう・・・でも気負っちゃ駄目よ。義信は義信、あんたはあんたなんだから、それで、武田の後継となったお祝いに、嫁を世話しても良いかしら?」
「えっ、お市様が・・・恐れ多い事でございます」
「んっ?誰か好きな子いるの?それなら無理には言わないわ。好きな子と結ばれるのが一番だもの」
笑顔を崩さずに話す市に、勝頼は貴方が好きですと言いそうになるのを、必死で押し殺す。
「いえ・・・恥ずかしながらおりませぬ」
頬を赤くして、下を向いて答える勝頼。
「そう、あたしの姉の子なんだけど、りえっていうのよ。どうかしら?まっ見たほうがいいだろうからね。入りなさい、りえ」
襖が開いて、一人の女性が静かに部屋に入ってくる。
「この方が武田勝頼殿よ、挨拶なさい。りえ」
勝頼に手をかざし、紹介する市。
「遠山直廉が子、りえと申します」
「どう?駄目かしら」
「このように美しき姫を嫁に迎えれるなど、お市様には感謝致します」
「良かったわ、もし断られたらどうしよっかって、りえと話してたのよね」
「叔母上、そのような事、この場で仰らなくても・・・」
えりは赤い顔をして下を向く。
「この子泣かせたら・・・わかってるわね」
市の視線に体を震わせる勝頼。
「あっそだ、あとね。りえに子が出来たら、確りと養生させる事、無理させない、心配させない。わかったわね」
「・・・はい」
真剣な顔をして話す市に、何故その様な事を言うのか分からなかったが、頷く勝頼。
「あっそれとこの文、信玄に渡しといて。あと昌幸には、この文を一徳斎に渡して」
それぞれに文を渡すと、微笑みながら、二人を見つめる。
「「畏まりました」」
それぞれが手渡さた文を持って部屋を出ると、市はまた机に向かい、筆を滑らせるのであった。




