元就の怒り
安芸の国、新高山城の庭先で、小早川隆景は一人呟いていた。
「してやられたな・・・」
先程まで各地での状況や被害報告を伝令から聞き、手渡された文には播磨、備前での戦の報告が記されてあった。
肩を落として、落ち込む隆景の元に、一人の男が声をかける。
「織田の小娘に不覚でもとったか?」
その声を聞いた隆景は振り向かず、答える。
「市に意識を取られ、織田は兵を動かさず、山陽に赴かず、領内や武田に向ける戦略に安心し、市の配下の者を見縊り、慢心させられました」
「それがあの女子の怖いところよ。姿を現さずに安心させ、視野を狭めさせる。安易な策を用いれば、その隙を突く。恐ろしい女子よ」
「父上が作用に褒めるとは・・・」
隆景は振り向き、父元就を見つめる。
「この失態で、山陽での毛利の影響力は低下したな。恵瓊が付いておっても惑わされたのじゃ、相手が上手じゃったと思うしかなかろう」
冷淡な顔をして隆景を見つめる元就。
「申し訳ございません。この失態必ずや取り返し・・・」
「いや、良い。最早焦る事では無くなった。先に尼子を潰す」
隆景の言葉を遮り、元就は呟いた。
「・・・分かりました」
肩を落として、了承する隆景。
「それと恵瓊を儂の元に戻す。良いな隆景」
元就の怒りに触れて、縮こまる隆景を置いて元就はその場を去った。
隆景との会話を終わらせた元就は吉田郡山城に戻り、安国寺恵瓊を呼び出すと元就には珍しく怒りを隠さずに対応する。
「恵瓊、お主が居ってこれほどの被害を食らうとはな。想定外じゃ」
「面目次第も御座いません」
「お主が危険だと考えた奴は、黒田官兵衛孝高とやらだけでは無かったな」
「・・・竹中半兵衛重治、木下藤吉郎と言う二人の男を見落としておりました」
「その人物だけではなかろう。影で動いた人物がもっとおるはずじゃ」
下を向いて、体を震わせる恵瓊。
「織田の姫の行動が際立っているが為に、見落としている人物がおるのだろう。儂でもあの女子に勝てる気がせぬ」
元就は真剣な顔をして呟く。
「お館様がそこまで仰るとは・・・」
「じゃがな!今回はあの女子が相手ではなく、ここまでやられたのだぞ。状況は正確に認識せねば、また術中に嵌るわ」
「・・・・・・」
「それに、武田も織田に破れたわ!元から織田と争えば、負けると分かっていた信玄じゃ・・・武田は織田に降伏するじゃろう。最早、中国を毛利が抑えて、織田と戦う事など夢物語となったわ。こうなれば、早々に尼子を潰して、織田に降るしか無い」
「そこまで追い詰められたと・・・」
「今回の失態はそれほどの物だと言うことじゃ!あの女子に時を与えてしまった。追い詰める機会を逃し、現状維持どころか巻き返され、逆に追い詰められたわ!」
元就は手にした扇をへし折り、怒りを露にする。
そんな元就の姿を初めて目にした恵瓊は、恐怖に打ち震えていた。
「恵瓊!お市の元に行き、あの者をよく観察してこい・・・それと配下の者共を良く調べ尽くしておけ!良いな!」
元就の言葉に恵瓊はただ頷くことしか出来なかった。
岐阜に帰ろうとする猿を見送りに、数名の男が沼城の正門に立ち並び、見送りに出ていた。
「本当に帰ってしまうのか藤吉郎・・・」
宇喜多直家が肩を落として、悲しげな顔をして、呟くように話す。
「藤吉郎などと気持ち悪いぎゃ、何時も通りに猿と言え、猿と・・・そんな別れは好きじゃないぎゃ」
顔を赤くしながら、声にハリがない猿。
「猿殿には感謝しておる。宇喜多の窮地を救ってくれたのも有難かったが、兄者に付いていた憑き物が、お主のおかげで取り除かれたようじゃ。儂は兄者を恐れておった、怖かったのじゃ。しかし今は、儂の好きだった昔の兄者に、少しずつ戻っておる。この恩は忘れぬ、困ったことがあれば、何時でもこの宇喜多忠家!力になるからな」
涙ぐみながら、猿の手を握り締めて真摯に話す忠家。
「殿の友となり、良き話し相手になって頂けた事で、穏やかな殿を拝見する事が出来ました。本来であれば、殿に安心して頂けるように、せねばいけないのが、臣下の勤め!それが出来ず、我らは常に苦しんでおりました。猿殿には我ら頭が上がりませぬ」
戸川秀安が家臣団の代表者として頭を下げると、岡家利、長船貞親、花房正幸も戸川の後ろから猿に頭を下げる。
「こんなにも、良い家臣達に囲まれておれば、直家殿は大丈夫だぎゃ」
「猿、儂を呼ぶ時は八郎と読んでくれ。お前には何故か、そう呼んでもらいたいのだ」
「おう、良いぞ。八郎は長いから八と呼んでやるわ」
「八か、お主なら何故か怒りではなく、嬉しく思う・・・不思議じゃ」
「まっ名残惜しいがもう行くぞ・・・」
猿が八から背を向けて、門を出ようとする。
「また会えるよな・・・」
八は猿の後ろ姿に呟く。
「近いうちにまた来るだぎゃ。元気にしとけよ・・・あっそうじゃった!」
猿は思い出したかのように振り返り、八の前に走って戻ってきた。
「なっなんじゃ、どうした猿」
「いやな、おみゃに姫様からの言付けを聞いておったのだが、すっかり忘れておった。すまぬ」
「どのような言付けなのじゃ?」
「う~んとのぉ・・・(長生きしたければ、酒やめな)だったがや」
「なんじゃそりゃ?」
「まっ姫さんは時々変な事を言うけど、それは後々役に立つ戒めだったりするぎゃ。多分おみゃ・・・早死するんじゃないきゃ」
「なっ・・・」
「まっそうなったら、あの綺麗な福さんを儂が貰うてやるから安心するといいぎゃ」
「・・・やらぬ、儂はもう酒は飲まん!お主と言えど、福はやらんぞぉ!」
「そうかい、福さん愛されとるのう!元気でにゃ、また来るぎゃ!」
隣にいた福を抱きしめて、猿を睨めつける八に対して、猿は満面の笑顔で八をひやかすとその場を後にしたのであった。




